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春の序曲と目覚めの街

 ぽん、と軽い音がした。

 それは、誰かが遠くで指を鳴らしたような、春の芽が音を立ててふくらんだような、不思議なくらい柔らかい音だった。

 ソラは、その音に続いてふわりと意識が浮かび上がるのを感じた。

 目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。

 ほんのり淡い色の風が吹き抜ける。

 石畳は薄桃色の光を帯び、建物の壁には音符のような模様が浮かんでいる。

 見渡す限り、街全体が春の空気に包まれていた。

「……ここ、どこ?」

 ぼんやりとつぶやいたソラの声は、風に溶けるようにして消えていった。

 が、次の瞬間ーーどこからか小さな音が降ってきた。

 “ティン……”

 “ポロン……”

 風が触れるたび、街のあちこちから音がこぼれてくる。

 音階のようでもあり、鳥のさえずりのようでもあり、しかし明らかに“音楽”の気配がある。

 まるで街全体が、春の序曲を奏でているようだった。


 「目覚めたばかりかい?」

 突然、やさしい声がした。

 振り返ると、小柄で丸い帽子をかぶった老人が立っていた。

 老人は杖を軽く石畳に打ち、その音もまた短い旋律のように響いた。

「ここは“音楽の街”。迷い込む者はいつだって、ある理由があって来るのさ」

「理由……?」

「まだわからなくていいさ。音は順番に心に届くものだからね」

 老人はにこりと笑い、指先で空を弾いた。

 すると空に小さな音符がぽん、と弾けて消えた。

「しばらくは自由に歩くといい。街は季節に合わせて姿を変える。春は“はじまりの音”が満ちている季節だよ」

 そう言い残し、老人は石畳の角を曲がると、まるで音に溶けるように姿を消してしまった。

「……消えた?」

 ソラは目を瞬いたが、そのことを考える間もなく、街のほうから別の音が流れてきた。

 “シャン……シャン……”

 軽くて明るい鈴の音。その方へ歩いていくと、街角の広場に出た。

 広場には春の花を模した風見のオブジェが並んでいて、風が吹くたび音色が違う。

 花びらの形をした金属が鳴ると、空気が柔らかく振動し、足元の石畳に淡い色が流れ込む。

 ソラは思わず見入った。

 花びらが震えるたび、色と音が重なって広がっていく。

「うわ……きれい……」

 ふと、足元が光った。

 石畳の一つが、ソラが踏んだ瞬間に“ポン”とかわいい音を鳴らしたのだ。

「えっ、靴音で音が鳴るの……?」

 もう一度踏む。

 “ポロン”

 次の石に乗る。

 “ティン”

 また次の石。

 “シャン”

 ソラの歩く足跡が、まるで小さな歌になったようだった。


「春はいいねえ。街の声がよく響くよ」

 声のする方へ振り向くと、今度は背中にリュートを背負った若い男が立っていた。

 栗色の髪を風に揺らし、目尻に笑い皺を刻んでいる。

 彼はリュートを指で軽く弾いた。

 “ポロロン”

 その音が春風と混ざって広場をくるりと回る。

「君、見ない顔だね。迷い込んだんだろ?」

「えっ……迷い込んだ、って……」

「この街に来る子はみんな、何か大事な音を探してるんだよ」

「大事な……音?」

「そう。自分でも気づかない音。忘れてしまった音。心の奥にしまいこんだ音。音楽の街はね、それをもう一度響かせるために存在してる」

 意味深な言葉だった。

 だが、男はそれ以上説明しなかった。

 代わりにリュートの本体をポンと叩き、

「ま、焦ることはないさ。まずは春の街を楽しみな。“はじまりの季節”は、君を歓迎してるよ」

 と笑った。

 ソラが広場の中央に立ったとき、風景がふわりと揺れた。

 花のオブジェが一斉に色を変え、広場が淡いピンクと金色に染まる。

 音が広がり、まるで春そのものが旋律になったようだった。


 そのとき、ふと耳に触れた音があった。

 どこか懐かしい、遠い日の音。

 胸の奥がふっと温かくなるような、小さく優しい響き。

「……あれ?」

 ソラは思わず胸に手を当てた。

 その音は一瞬で消えてしまったが、確かに聞いた気がする。

 ーーぽん。

 また、あの“目覚めのときと同じ音”が耳の奥で鳴った。

 その瞬間、ソラは気づく。

 この街はただの街じゃない。

  音が、生きている。

  季節が、歌っている。

  そしてその中に、何か自分に関わる“音”が眠っている。

「……探してみよう」

 自然と言葉がこぼれた。


 音楽の街の春風は、まるで「ようこそ」と言うようにソラの頬をなでた。

 街のどこかにある“大切な音”を探す旅が、今始まったばかりだった。

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