ラスト・スプリント
本作は、ヤクルト・スワローズの西川遥輝選手が現役続行の道を選んだというニュースに心を動かされ、執筆しました。華やかな引退ではなく、泥臭くとも走り続けることを選ぶ意志の強さに、胸を打たれたのです。
輝かしいキャリアを誇るアスリートにも、いつか終わりは訪れる。その時、人は何を選び、何を思うのか。本作は、一人のプロ野球選手が戦力外通告を受け、現役続行か引退かの岐路に立たされる物語です。
彼の静かな闘いを通して、次の一歩を踏み出す勇気とは何かを感じていただければ幸いです。
1.通告 ― 秋風の吹く応接室
革張りのソファが、東條彰吾の体を気まずく沈ませていた。球団事務所の一室。磨き上げられたマホガニーのテーブルには、当たり障りのない風景画が反射している。窓の外では、性急な秋風が街路樹の葉を揺らしていた。まるで、何かの終わりを急かすように。
「東條君、今シーズンもご苦労だった」
テーブルの向こう側で、球団のゼネラルマネージャー(GM)である高城が口火を切った。その声は、長年プロ野球の世界で生きてきた男特有の、感情を排した平坦な響きを持っていた。
「来季のチーム編成なんだが……率直に言うと、君を構想に入れるのは難しい状況だ」
来るべき時が来た。それだけのことだ。頭では理解していた。今季の成績を見れば、誰がどう考えても当然の結論だった。49試合の出場で打率は・174。かつて4度の盗塁王に輝いた足も、シーズンを通して記録したのはわずかに1盗塁。5日に出場選手登録を抹消されて以来、ずっと二軍で若手たちと同じ泥にまみれていた。
だが、理解していることと、受け入れられることは全く別の話だった。GMの言葉は、音という質量を失い、意味の破片となって東條の鼓膜を叩くだけだった。脳裏に、満員のスタンドを揺らした歓声が、遠い雷鳴のように反響する。日本一を決めたあのサヨナラホームラン。ダイヤモンドを一周する間、世界がスローモーションに見えた。何度も駆け抜けた一塁から二塁への三十メートル弱の空間。そこは、彼が彼自身でいられる、唯一の聖域だった。
「ただ、球団として君がこれまでチームに、そして球界に残してくれた功績を最大限に評価している。君のような功労者が、寂しい形でキャリアを終えるべきではない。もし君さえよければ、最終戦で引退セレモニーを準備させてもらえないだろうか。盛大に送り出してあげたい」
引退。
その二文字が、応接室の乾いた空気に重く溶け落ちた。高城の言葉は、最大限の敬意を払った形骸だった。それは情けであり、同時に、これ以上は無理だという最終通告でもあった。セレモニー。ファンの前で花束を受け取り、マイクの前で感謝を述べ、チームメイトに胴上げされる。それは、多くの選手が夢見る、幸福なエンディングの形なのかもしれない。
一瞬、その光景が脳裏をよぎった。安堵と諦観が、鉛のように心を重くする。もう、明日をもしれぬ不安に怯えなくていい。若手の突き上げる視線に、背中を焼かれることもない。家族と穏やかな時間を過ごせる。指導者への道も、球団が用意してくれるかもしれない。楽になれる。
だが、本当にそれでいいのか。
東條は、テーブルの下で固く握りしめていた拳に、ゆっくりと力を込めた。爪が掌に食い込む痛みで、現実へと引き戻される。まだ、あの感覚が消えていない。スパイクの裏で、一塁ベースを蹴る瞬間の、土の感触。相手バッテリーの呼吸を読み、スタートを切る刹那の緊張感。滑り込んだベースの上で、土埃にまみれながら、セーフの宣告を聞く高揚感。
まだ、走れる。
衰えたのは事実だ。全盛期のような、コンマ1秒を削り取る爆発的な加速力は失われたかもしれない。だが、長年培った経験と技術がある。スタートを切る嗅覚は、今も錆びついていない。魂が、まだ走りたがっている。グラウンドの上で、まだ証明したいことがある。
「……お話は、大変ありがたく思います」
東條は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの揺らぎは消え、静かだが、決して折れることのない光が宿っていた。
「ですが、引退はできません」
高城の眉が、わずかに動いた。
「まだ、やりたいんです。まだ、走れると思っています。みっともないと思われるかもしれません。ですが、諦めきれないんです」
声は、震えていなかった。それは懇願ではなく、決意の表明だった。自分自身に対する、最後の約束だった。
「そうか……」
高城は短く息を吐き、何かを言いかけたが、結局言葉を飲み込んだ。東條の瞳の奥にある光が、これ以上何を言っても無駄だと物語っていた。それは、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが放つ、覚悟の光だった。
「……分かった。君の意志は尊重しよう。だが、うちの球団では来季の契約はできない。それは理解してほしい」
「はい。覚悟の上です」
「そうか。……健闘を祈る」
無機質な握手を交わし、東條は応接室を後にした。ドアを閉めると、張り詰めていた糸が切れ、全身から力が抜けていくのを感じた。廊下の窓から差し込む西日が、やけに目に染みた。
秋風が、彼の頬を冷たく撫でた。球団ビルを出ると、世界は何も変わらずに動いていた。家路を急ぐ人々、クラクションを鳴らす車、けたたましい広告の電子音。誰一人として、今この瞬間に、一人の野球選手の時間が止まりかけたことなど知る由もない。東條は、雑踏という名の孤独の海に、静かに飲み込まれていった。
2.回想 ― 栄光と影が交差する道
帰りの電車は、ラッシュの始まりを告げるように混み合っていた。吊り革に掴まり、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。ビルの灯りが一つ、また一つと灯り始め、夕闇が街を支配していく。その無数の光の中に、自分の居場所はないように思えた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出して画面を見ると、ニュースアプリの通知だった。
『ベテラン中越、今季限りで引退を表明。「やりきった」と涙の会見』
記事を開くと、古巣で共に黄金時代を築いた盟友・中越剛の、ユニフォーム姿の写真が目に飛び込んできた。数時間前の引退会見の様子を伝える記事だった。自分よりも一足先に、彼はバットを置く決断をした。
『ファンの皆様、球団関係者の皆様、そして家族に支えられて、最高の野球人生でした。もう、僕には何も残っていません。すべてを出し尽くしました。本当に、やりきったと思っています』
記事に引用された中越の言葉が、ガラス窓に映る自分の顔に重なった。「やりきった」。その潔い一言が、鈍器のように東條の胸を打った。俺は、どうだ? やりきったと言えるのか?
答えは、否だ。
心の奥底で、何かが燻り続けている。それは未練か、意地か、それとも単なる現実逃避か。自分でも分からなかった。ただ、中越のように晴れやかな顔で「終わり」を告げる自分の姿が、どうしても想像できなかった。
――歓声が、まだ耳に残っている。
あれは、プロ入り6年目、26歳の秋だった。日本シリーズ、2勝2敗で迎えた第5戦。同点のまま延長戦にもつれ込み、迎えた10回裏、二死満塁。打席に立った東條は、相手クローザーが投じた内角高めのストレートを、無心で振り抜いた。
打球は、夜空を切り裂く白い軌道を描き、ライトスタンド最前列に突き刺さった。劇的な、サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。
スタジアムが、揺れた。地鳴りのような歓声の中、彼はゆっくりとダイヤモンドを一周した。チームメイトがホームベースで手荒い祝福の輪を作る。監督に抱きしめられ、仲間たちに何度も頭を叩かれた。あの時、自分は世界の中心にいた。未来はどこまでも輝いていて、この栄光が永遠に続くと信じて疑わなかった。
――風になる感覚を、体が覚えている。
盗塁王を4度獲得した。相手バッテリーの癖を盗み、呼吸を読み、コンマ1秒の隙を突いてスタートを切る。二塁ベースまでの約30メートルは、彼にとって芸術の舞台だった。静寂と爆発。警戒網を破り、ヘッドスライディングでベースに触れる。土の匂いと、ユニフォームが擦れる音。セーフの宣告。それは、力と力の勝負である野球において、知略とスピードで相手を出し抜く、至高の快感だった。人々は彼を「グラウンドの閃光」と呼んだ。その称号が、彼のプライドそのものだった。
だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。
栄光の時間は、永遠ではなかった。度重なる小さな怪我、そして何より、抗うことのできない年齢という波。かつてカモシカのようだと称された足は、徐々に重くなっていった。自慢だった打撃も、全盛期の輝きを失っていく。
最初の移籍。自由契約。拾われるように移った2球団目でも、結果は出なかった。そして、3球団目となる今のチームへ。これが最後のチャンスだと、覚悟を決めて臨んだはずだった。
しかし、現実は非情だった。ベンチから試合を見つめる時間が増えた。自分より10歳以上も若い選手が、かつての自分のポジションで躍動する姿を、どんな思いで見ていたか。声をからして声援を送りながら、心の奥底では、黒い嫉妬の炎が渦巻いていた。
二軍に降格してからの日々は、屈辱以外の何物でもなかった。灼熱のアスファルトを走るマイクロバスでの長距離移動。若手選手たちの、遠慮と好奇が入り混じった視線。練習後、一人黙々とバットを振る。何のために? 誰のために? 自問自答を繰り返す日々。答えは見つからないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
電車が駅に滑り込む。ドアが開き、人々が吐き出され、吸い込まれていく。その流れに逆らうように、東條はホームのベンチに腰掛けた。もう一度、スマホの画面に目を落とす。引退会見で涙を拭う中越の写真。その隣には、家族に支えられて、という見出し。
ふと、妻の顔が浮かんだ。何も言わずに、いつも彼を支えてくれた。移籍を繰り返すたびに、慣れない土地での生活を健気に受け入れてくれた。息子は、物心ついた頃から、父親がヒーローではないことを知っている。それでも、「パパ、がんばって」と拙い文字で書かれた手紙をくれる。
家族のために、引退を受け入れるべきなのかもしれない。それが、夫として、父親としての責任ある選択なのではないか。
だが。
東條は、自分の掌を見つめた。幾度もバットを握りしめ、硬くなった皮膚。スライディングで擦りむいた無数の傷跡。この手は、この体は、まだ野球をしたがっている。ファンを、家族を、そして何より自分自身を、もう一度だけ熱狂させたい。あのダイヤモンドの上で、もう一度だけ、風になりたい。
「……まだだ」
誰に言うでもなく、呟いた。
「まだ、終われない」
立ち上がり、再び雑踏の中へと歩き出す。その足取りには、先ほどまでの迷いは消えていた。行き先は決まった。明日、二軍の最終戦が行われる。相手は、奇しくも彼がプロとしてのキャリアをスタートさせた古巣のチームだった。
これが、今のユニフォームを着る最後の試合になる。そして、未来の自分への、最初の試合にもなる。
3.最後の打席 ― 古巣との最終戦
翌日の午後。秋の日は、短く、そしてどこか物悲しい光をグラウンドに投げかけていた。観客席はまばらで、時折吹く風が砂埃を舞い上げる。ここは、一軍の華やかなスタジアムとは違う。夢を追う若者と、夢を諦めきれない者たちが集う場所。イースタン・リーグ、シーズン最終戦。
「一番、センター、東條。背番号9」
場内アナウンスが、少しだけ感傷的な響きを帯びて彼の名前を告げた。これが、スワローズのユニフォームを着てコールされる最後の名前になる。ヘルメットのつばを深くかぶり直し、東條は打席へと向かった。
相手は、彼が10年間在籍した古巣、ファイターズだった。見慣れたロゴのユニフォームを着た若者たちが、ベンチの前で溌剌と声を張り上げている。彼がルーキーだった頃の自分を見るようだった。
三塁側の、数えるほどしかいないスワローズファンのエリアから、声が飛んだ。
「東條ー! まだやれるぞー!」
「最後まで応援してるからな!」
その声は、大観衆の声援よりも、ずっと深く彼の胸に染み渡った。ありがたい。その一言に尽きた。
試合は淡々と進んだ。東條は第一打席で四球を選び、すかさず盗塁を試みたが、相手の若い捕手の矢のような送球に阻まれ、アウトになった。悔しさよりも先に、「たいしたもんだ」という感心が口をついて出た。時代は、確実に流れている。
そして、2対2の同点で迎えた8回裏、一死一塁。この試合、おそらく彼に回ってくる最後の打席だった。ネクストバッターズサークルで屈伸をしながら、彼はマウンドを見つめた。
マウンドに立つのは、今季ファームで頭角を現してきた二十歳の本格派右腕だった。150キロを超えるストレートを武器に、来季の一軍入りが有力視されている期待の星。その瞳は、目の前のベテランを食ってやろうという野心に満ち溢れていた。
いい目だ、と東條は思った。かつての自分も、ああだった。
打席に入り、プレートの少し前に立つ。少しでも球を長く見て、足を活かすための、長年体に染みついたルーティン。審判のコールが響き、球場が一瞬の静寂に包まれる。
若き剛腕は、敬意も遠慮もかなぐり捨てるように、初球からインコースに唸るようなストレートを投げ込んできた。152キロ。バットを引くのがやっとだった。
二球目も、同じようなコースへのストレート。ファウル。
三球目、外角低め。これもストレート。ボール。
バッテリーは、明らかにストレートでねじ伏せに来ていた。変化球を待つ選択肢は、東條の頭にはなかった。これは、世代を超えた勝負だ。小細工は通用しない。こちらも、力で応えるしかない。
カウント、2ボール2ストライク。走者がスタートを切る気配はない。投手との、一対一の勝負。
六球目。投手が大きく振りかぶる。そのモーションの僅かな力みから、東條はコースを読んだ。インコース高め。打者の体をのけぞらせる、魂を込めた一球。
だが、東條は引かなかった。
コンマ数秒の世界。迫りくる白球。彼は、腰を軸にして、体をコマのように鋭く回転させた。長年の経験が導き出した、最短距離の軌道。バットが、空気を切り裂く。
カキンッ!
甲高い金属音とともに、打球は弾丸ライナーとなって三遊間を襲った。三塁手が飛びつくが、グラブの先をかすめてレフト前へと抜けていく。
「よしっ!」
思わず声が漏れた。一塁ベースを駆け抜けながら、小さく拳を握る。まだ、打てる。まだ、このスピードについていける。
ベースの上で息を整えながら、彼はレフトの守備位置に目をやった。ボールが内野に返球される。スコアボードの自分の名前が、誇らしく見えた。これがヒット一本の価値だ。今の自分にとっては、かつてのサヨナラホームランと同じくらい、価値のある一本だった。
結局、その回は後続が倒れて無得点に終わった。ベンチに戻ると、若い選手たちが「ナイスバッティングです!」と声をかけてくる。東條は「サンキュー」とだけ返し、自分の定位置に腰を下ろした。
汗が、心地よかった。まだ、この場所にいたい。この緊張感の中で、野球がしたい。その思いが、腹の底から湧き上がってきた。今日のこの一本が、明日への扉を開く鍵になるかは分からない。それでも、彼は確かに、自分の力で未来への可能性をこじ開けたのだ。
4.夜明けへのスプリント
試合は、引き分けのまま終わった。整列し、互いの健闘を称え合う。古巣の監督が、東條の肩を叩いた。
「アキラ、いいバッティングだったな。まだやれるじゃないか」
「……ありがとうございます」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
ロッカールームは、シーズンが終わった解放感と、別れの寂しさが入り混じった不思議な空気に満ちていた。東條は、自分のロッカーの前に立ち、静かに荷物を整理し始めた。
汗と土の匂いが染みついたユニフォームを丁寧に畳む。スパイクの歯に詰まった土を、指で掻き出す。ロッカーの奥から、古いグローブが出てきた。プロ入りした時から、ずっと使い続けている相棒だ。何度も革を張り替え、紐を締め直し、彼の手に完璧に馴染んでいる。その捕球面には、数えきれないほどの白球の記憶が刻まれていた。
「……ありがとうな」
誰に聞かせるともなく呟き、グローブをバッグにしまった。チームメイトたちが、一人、また一人と挨拶に来る。「お疲れ様でした」「またどこかで」。誰もが、彼の今後について深くは聞いてこなかった。それが、この世界の不文律であり、優しさでもあった。
全ての荷物をまとめ終え、彼は誰にも見送られることなく、静かに球場を後にした。駐車場には、もうほとんど車は残っていなかった。自分の車のエンジンをかけると、カーステレオから偶然、懐かしい曲が流れてきた。ルーキーの頃、寮の部屋で毎日のように聴いていた曲だった。あの頃の自分は、今日の自分の姿を想像できただろうか。
自宅への道は、ひどく長く感じられた。スマートフォンは、沈黙を守ったままだった。他球団からの連絡はない。代理人からも、まだ何の報告もなかった。不安が、夜の闇のように心を覆い尽くそうとする。だが、不思議と絶望は感じなかった。今日の最後の打席の感触が、まだ手のひらに残っていたからだ。
アパートのドアを開けると、温かい光と、味噌汁のいい匂いが彼を迎えた。
「おかえりなさい」
妻の優子は、いつもと変わらない笑顔で言った。テーブルの上には、彼の好物が並んでいる。彼女は、今日の試合の結果も、昨日の球団との面談のことも、何も聞かなかった。ただ、黙って隣に座り、ご飯をよそってくれる。その沈黙が、何千の言葉よりも彼の心を癒した。
その夜、東條はなかなか寝付けなかった。隣で眠る妻と息子の穏やかな寝息を聞きながら、暗い天井をずっと見つめていた。これからどうなるのか。野球を続けられるのか。もし、どこからも声がかからなかったら? 不安の波が、寄せては返す。
だが、その波の向こうに、微かな光が見えた。それは、今日の最後の打席で見た、希望の光だった。たとえどんな結果になろうとも、自分は最後まで足掻くと決めたのだ。後悔だけは、したくない。
うとうとしかけた頃、窓の外が白み始めていることに気づいた。彼は、そっとベッドを抜け出した。クローゼットからトレーニングウェアを取り出し、音を立てないように着替える。眠っている妻は、ぴくりと身じろぎをしたが、目を覚ますことはなかった。いや、もしかしたら、気づいていて、寝たふりをしてくれているのかもしれない。
玄関のドアを、静かに開ける。夜明け前の、ひんやりと澄んだ空気が、火照った体を包み込んだ。街はまだ深い眠りについている。
東條は、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
次のグラウンドがどこになるのかは分からない。オファーがあるという保証もない。明日になれば、厳しい現実を突きつけられるだけかもしれない。
それでも。
彼は、ゆっくりと走り始めた。アスファルトを蹴るシューズの音が、静かな住宅街に小さく響く。一歩、また一歩。それは、行き先のないスプリントだった。だが、彼の足は力強く前へ進んでいた。
かつて、満員のスタンドを背に、ダイヤモンドを駆け抜けたあの日のように。
今、彼は、まだ見ぬ未来へと向かって、一人、走り出した。
野球人生の、ラストスプリントが始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
特定の誰かの話ではなく、人生の交差点に立つすべての人の心に響く普遍的なテーマとして描けたでしょうか?
この物語が、人生の岐路で戦う誰かの背中を、少しでも押すことができたなら作者として望外の喜びです。主人公の未来へのスプリントが、皆様の心に残り続けることを願っています。




