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9話 その水は、飲んではいけない。

このパストリア王国では、地区を分けるように水路が張り巡らされている。


「昔大規模な反乱がおきたんだと。そんときに制圧しやすいよう、こういう形になったってわけだ」


ミュラーは船頭に船賃を渡すと、小舟に乗り込んだ。クラリスたちもそれに続く。


ゆっくりと進み始めた小舟は、風をものともせず水面を滑っていく。

クラリスの隣に座るヴィルは、小舟が好きらしく嬉しそうに笑みを浮かべている。


(反乱か…大変だっただろうな…当時の医師たち。平時でも過労死するほど忙しいだろうに…)


クラリスは手すりに肘を乗せ、水路に視線を落とした。


行き交う小舟は他にもいくつもある。

みな、静かに、迷いなく、進んでいく。


(船頭は、みな同じような能力を持っているんだろうか…?)


クラリスがふと疑問を抱いたそのとき。


「ついたぞ。降りろ」


降りた先の地区は、クラリスは初めて来たわけではなかった。国でも有名な露店街で、観光地でもある。


昔両親と来たこの場所は、賑わっていて、逸れて喰らった拳骨の痛みは忘れていない。


しかし、今日は…。


「人が全然いないね…」


ヴィルがクラリスの袖を、きゅっと握る。


クラリスは無言のまま、あたりを見渡した。


看板の外された屋台。

ぴしゃりと閉じられた木戸。

誰もいないのに揺れている、布のひらめき。


そして、なにより。


鼻を突く、強烈な臭気――。


乾ききった石畳には、変色した嘔吐物の痕跡が、いくつも、いくつも残っていた。


拭われた跡も、水で流された跡もない。

掃除が諦められていた。


“異常”が、“日常”になっているのだ。


(これは…"臭気で疫病にかかる"と言いたくなるのもわかるかもしれない…)


クラリスたちは口布をつけると、無言のまま地図を広げた。


誰ひとり、口を開こうとはせず、ただ足を早めていた。






「あれか…?」


ミュラーが指差した先には、石造りの古びた井戸がひっそりと佇んでいた。


「見張り、いないね……」


ヴィルが眉をひそめて辺りを見渡す。


人気のない露店街、その井戸だけが場違いなほどにぽつんと残されている。


蓋は雑に乗せられ、苔と黒ずみで汚れていた。


「お上の決まりを守る奴もいりゃ、最初から従う気のない奴もいる。ここは――そういう連中の縄張りってわけだな」


ミュラーはつまらなさそうに呟くと、井戸の蓋をトントンと指で叩いた。


「でも逆に、私たちには好都合ってやつね。さ、見てみましょ」


クラリスが無造作に蓋を外すと、井戸の底からぬるりとした空気が立ち上がる。


「暗くて……よく見えないな」


「ヴィル、見える?」


ヴィルはこくりと頷き、目を閉じて手をかざす。

透視魔法が淡く光を放ち、井戸の奥へと沈んでいった。


「……底にいっぱいある。硬貨、紙、……何か……おむつ?……濁ってて、ぐちゃぐちゃ……」


「もしかして」


クラリスはぽん、と両手を合わせ、冗談めかしてつぶやいた。


「『働かなくても暮らせますように!』……みたいな願掛け、だったりして?」


「そんなこと願うのはお前くらいだ」


ミュラーが心底呆れた顔で言った。


「……だが、その“願いの残骸”が原因かもしれねぇな」


「本当は原因を正確に特定したいけれど……おむつってことは、誰かがいれたせいなのかも……でもここまで井戸が深いと無理ね。消しましょう」


クラリスはそっと手をかざす。


「井戸の底のごみ、“消去”」


魔法陣も呪文もなく、ただその言葉とともに光が走った。


井戸の奥から、ふっと濁った気配が消える。


「……あとは、水が入れ替われば安全になるはず」


クラリスが口布を外しながら言った。


「水を一度全部消すことができればいいけれど…範囲が指定できないから無理。わたしが死ぬ」


「この地区はこの井戸からのみ水道引いてるからな…」


ミュラーの言葉に、クラリスは小さく頷いた。


「とりあえず、少しの間使用禁止にしてもらわないとね」


「役所に話つけねぇとな。……めんどくせぇが」


ミュラーが渋々と肩をすくめる。


その横でクラリスは少しずつ紅に染まりつつある空を見上げた。


(……案外ちょろかったな……これで、わたしのホクロ除去ライフに戻れる……)


風が少しだけ涼しく吹いていた。


このあと、更なる試練が待ち受けていることなど、少しも気づかせぬように。








「はぁ?水が原因?そんなわけないだろ」


カウンターの奥から聞こえたのは、おじさん職員の鼻で笑うような声だった。


クラリスのこめかみがぴくりと跳ねる。

ミュラーの目が細まる。

その間でヴィルは、「神様……」と静かに祈っていた。


夕方の役所には、只事ではない空気が流れている。


「この疫病はな、臭気からくるんだよ。王様付きのお医者様だってそう言ってる。

それが……お前らは“井戸の水”が原因だって? 俺たちが、毎日ウンコ水でも飲んでるって言いてぇのか?」


おじさん職員は、言葉に酔ったように顔を歪め、後ろの仲間と笑いあう。


「そうです。水に混じったウンコ飲んでたせいで、病気になってる可能性が高い。だから止めろって言ってるんです」


「ちょ、ちょっとクラ……!」


ヴィルが慌ててクラリスの口を押さえる。が――


ドンッ!


ミュラーがカウンターに拳を叩きつけた。


「おまえたちが井戸に見張りをつけていなかったこと、告発してもいいんだぜ?」


おじさん職員の肩がぴくりと揺れる。

だが、意地でも退かないとばかりに前へ出る。


「お前らが原因を作った可能性もあるよな? 水を汚したのはそっちじゃねえのか?だいたい“お達し”だって来てんだよ。病人には水を飲ませろってな。止める理由なんざ、通らねぇよ」


彼はしっしっと手を払うようにして、背を向けた。


「……これ以上は、聞いてもらえないよ。行こう、ミュラー先生、クラ……」


ヴィルが二人の袖をそっと引く。

だが、そのとき。


くるりとおじさんの方に振り返ったクラリスが低く呟いた。


「……あとは名前があればお前など…」


思わずヴィルが「ひえっ」と声にならない悲鳴をあげて、彼女の背中を押して促した。








「ゴミは消えたけれど、あの様子じゃ見張りを立てない。また投げ込まれるリスクがある。それに汚染水も残ってる。これじゃ患者は減らないね」


クラリスは役所前の水路に向かって石を投げる。

石は三回跳ね、クラリスはガッツポーズを決めた。


「軍医の頃のコネを頼ってみてもいいが…」


ミュラーは無精髭を撫でたまま、曇った空を見上げた。


「軍と役所は仲が悪いからな。かえって反発をくらうかもな」


ためいきをひとつ。

どこか遠くで、カラスが鳴いた。


「水の方をなんとかできればね…でも、わたしの能力は"対象"の名前がわからないと、発動できないからな」


ごみとは違い、そもそもあるのかないのかわからない細菌には打つ手がない。

クラリスはまた石を拾い上げる。


(水の中に、潜む菌を暴き出すことができれば…)


その時、クラリスの脳に電流が走った。


『ルスカ・パストリア王子殿下の御能力は――顕現。隠れているものを、露わにする能力のようですな』


「あっ!!適任いた!」


「えっ?だれのこと?」


ヴィルは小さく首を傾げ、そんな人いた?と言わんばかりに視線を上に動かした。


「王子のとこ行こ!!なんだっけ?ル…なんとか王子!!」


クラリスは目を輝かせて勢いよく叫んだ。


「……え?……もしかしてルスカ王子のこと言ってる……?」


「そう!!大丈夫!国民の訴え無視する王子なんていないわよ!たぶん!」


「たぶんで行くの!?やめてよ!!王族だよ!?!!」


ヴィルの声がひきつったように裏返る。

が、クラリスは完全にやる気に満ちていた。


「こういうのは勢いが大事よ!ハイ行くよヴィル!!ミュラー先生も!!」


「ぼ、ぼくら、王子殿下と友達でも知り合いでもないよ……!?!?」


「相変わらず頭いかれてるな…」


ヴィルとミュラーの静かな叫びが、静かな城下町に虚しく響いた。


※この話はフィクションですが、19世紀ロンドンで実際にコレラの感染経路を特定し、公衆衛生の転換点を築いた「ジョン・スノウ博士」の記録をモチーフにしています。

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