8話 影にひそむもの
空を分厚い雲が覆い、風はどこか生温い。
そんな朝だった。
「――先生! うちの子が……!」
扉が、怒鳴るような音を立てて開かれる。
飛び込んできたのは、息を切らした母親と、ぐったりとした子どもだった。
まだクラリスたちよりすこし幼い、小さな体。
彼は母の背にしがみついたまま、ぐったりと目を瞑っていた。
手には袋を持ち、仄かに吐瀉物の匂いがする。
「こっちだ。寝かせろ」
ミュラーの低い声。
クラリスとヴィルが素早く動き、ベッドへと導く。
はぁ、はぁと息が荒く、唇は乾燥していた。
「わかる?痛いところある?」
クラリスが声をかけると、少年は小さく頷き、そして口元を抑える。
母親が咄嗟に袋を差し出し、子供はそこに嘔吐した。
「今日の朝から吐き始めて…下痢もしてるんです…!」
ミュラーは子供の額に手を当てる。
「熱はあったか?」
「出てません!でも、ずっと吐いて、下痢していて…」
ミュラーは口布をつけ、てきぱきと目の下、喉、腹を診た。
口を開けさせると、粘膜は乾いていた。
「腸炎だな…なんか腐ったもんくわなかったか」
「…わからないわ。最近暑かったから…なにかが腐ってたのかしら…」
母親はおろおろと答える。
「下痢は止めないほうがいい。腹の中のわるいもんは、出したほうがいいんだ」
ミュラーはがしがしと子供の頭を撫でる。
「ただ、水は飲める時飲んどけ。ひとつまみの塩入れてな。今、おしっこがいつもより濃いだろう。いっぱい飲んで、いつものおしっこの色に戻れば完璧だ」
ミュラーはそういうと、紙にさらさらと病歴を記載した。
「何も食えねえ飲めねえになったらまたつれてきな。……大丈夫だ、絶対治る」
ミュラーがそういうと、母親はほっと安心したように子供を抱えた。子供も安心したのか、きた時より顔色が良いようだった。
何度も礼を言う母親の声を遮るように、ばたん、と扉がしまる。
診療所の空気が、また元に戻る――かと思われた、そのとき。
「その不精髭がなければ、完璧なんだけどなぁ…」
クラリスのぼそりとした一言に、ヴィルがくすっと笑う。
ミュラーは渋い顔で顎を撫で、黙って今は亡き煙草を探す手を止めた。
が、その“穏やか”は長くは続かなかった。
――地獄の始まりである。
次にやってきた患者も、同じ症状。
その次も、そのまた次も。
数時間のうちに、診療所は嘔吐と下痢を訴える患者であふれかえった。
あまりの数に、クラリスは思わず息を呑む。
「……おかしい。これは、ただの流行り風邪じゃない……」
ミュラーが、ぽつりと呟いた。
「こりゃ……疫病が、流行りやがってるな…。おかしなことに、ならなきゃいいが」
ミュラーの予感は、見事に的中した。
城下町の一角で発生した腸炎は、まるで火がついたように瞬く間に広がり、気づけば町のいたるところで、同様の症状を訴える人々があふれ出していた。
ミュラーの診療所はもちろん、町中のあらゆる診療所が悲鳴を上げ始めた。
そしてついには――「誰かが命を落としたらしい」という噂が、街角に忍び寄る。
「悪い気が漂っている」
「これは祟りだ」
「除霊師を呼べ!」
「悪臭のせいではないか?」
「王はなにをしているんだ!」
「これは政治のせいだ!」
根拠のない憶測と不安だけが、怒号のように飛び交い始めていた。
その最中。
クラリスはただカルテと向き合っていた。
(流行るスピードがおかしい。誰かが誰かに感染させることで流行ったのではなく、同時に複数人が発症したってことだ)
多発的発症の腸炎の原因として、まず考えられるのは食物だろう。
だが、患者たちが同じ時に作られたものを食べていた、という記録はカルテにはない。
(悪い気やら臭いなんかで腸炎を発症するはずがない。なにか、あるはずなんだ、なにかが…)
クラリスは眉をひそめた。
ちょうどそのとき、診療所の扉が静かに開いた。
「クラ、聞いてきたよ。町中の診療所に来てる腸炎患者の人数、まとめた」
「ありがとう」
ヴィルが手に抱えた資料を差し出す。
クラリスは素早く受け取ると、ぺらりとめくった。
が、見慣れない診療所の名前と数字の羅列のみが目に飛び込む。
(うぅむ…これではよくわからないな…)
頭を押さえるクラリスの背後から、ミュラーが無言でのぞき込む。
「……多いのは城壁の近くだな。逆に、城門側の診療所には、ほとんどいねぇ」
ぽつりとつぶやかれたその一言に――
「それだ!!」
クラリスが勢いよく立ち上がった。
「地図!ミュラー先生、城下町の地図ありませんか!」
クラリスが机の上の資料を勢いよくずらし、いくつかの紙が地面に落ちる。
眉を寄せるヴィルの横から、ミュラーは城下町の地図を差し出した。
「ヴィル、読み上げて。診療所の名前と患者数!」
「う、うん!」
クラリスは次々に情報を書き込んでいく。地図の上に患者数をプロットし、ポイントを結び、重ね、印をつけていく。
やがて。
「……見えてきた」
クラリスが鉛筆を握り締めたまま、地図の一ヶ所に指を置いた。
「ここ。患者が集中してる診療所が線を引くように並んでる。そしてその“中心”にあるのが……この地区」
クラリスが指を置いたのは、城壁近くの“露店街”だった。
「屋台が多くて、人が集まりやすい場所だよね。ぼくも何度かお祭りで行ったことある」
ヴィルの言葉に、クラリスは勢いよく頷く。
「そう。つまり、ここで“何か”が広範囲に配られた。しかも、年齢を問わず、多くの人が口にしやすいもので、保存状態が悪く、夏場に痛みやすい……たとえば……」
「水だな」
ミュラーがぽつりと呟いた。
クラリスはパッと立ち上がると、地図を再度見る。
思った通りの場所に、それはあった。
「この露店街には、共同井戸がある。もしそこから供給された水が汚染されていたら……一気に広がる!」
「でも、どうやってそんなことが起きるの?井戸の水は管理されてるし、見張りだっているよ」
ヴィルが首をかしげると、クラリスの目が鋭く細まった。
「自然由来じゃないなら……“人為的”かもね」
その言葉に、空気がぴたりと張りつめた。
ミュラーの手が止まる。
「つまり、誰かが意図的に?」
「わからない。でも、わたしたちが仮説を立てて動かない限り、犠牲は増えるだけ」
クラリスの目に、決意の光が宿る。
「まずはその井戸の水を調べに行こう。ヴィル、透視で水路の状態を見られる?」
「うん、やってみる!」
「俺もついていく。ガキの夜遊びにしちゃ、危なすぎる」
ミュラーが立ち上がると、クラリスはふっと笑った。
「先生、夜じゃないですよ。昼です」
「うるせぇ」
煙草をくわえかけて、ポケットに戻す。
「行くぞ。原因が特定できなきゃ、治療も意味がねぇんだ」
3人は診療所を飛び出した。
(絶対に撲滅させてやる嘔吐下痢症…)
クラリスの目は燃えていた。
(そして取り戻す…わたしのホクロとムダ毛の消去からなる平穏な日常を…!)
雲間から、鈍い光が町を覆っていた。
だが、その光の下を、未来を変える一歩が走り抜けていた。




