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7話 煙のない診療所

このパストリア王国で医者を名乗るための条件は簡単だった。


すでに医者として認められている誰かから、推薦状をもらう――ただ、それだけ。


(だから、この国の医療レベルは、医者によって差がありすぎる)


この世界に来てからずっと、心の奥に沈んでいた違和感。

クラリスは、それをいつも感じていた。


――幼いころ、高熱を出して運ばれた診療所。

そこで受けた処置は、「祟りだな」という一言と、謎の除霊。


――祖父が胸の痛みを訴えて受診した診療所では、「気の淀み」と言われ、祭壇の前で延々と祈祷を受けさせられた。


そして――祖父は、そのまま、帰らぬ人となった。


(……魔法が蔓延している世界では、学問が軽んじられてしまうのかもしれない)


どうしたものだろう、と考えることもあった。


――だが、今のこの場所で出会った彼は、違った。


クラリスが、この診療所に通い始めて最初に感じたのは、ミュラーの手技と所作に宿る、確かな「知識」だった。


「俺は軍医だったからな」


クラリスの問いに、ミュラーはタバコをくわえたまま、ふ、と口の端を上げる。


「戦場は…まぁ地獄だったが、学ぶもんはあった」


ミュラーはふぅ、と煙をはいた。


「俺の能力は、“鎮痛”だ。痛みを和らげる力さ。だから軍に呼ばれたってわけだな。……ま、平和になっちまったからには、しがない町医者ってところよ」


ミュラーはクラリスの持ってきたパンをひとつまみし、タバコを咥える。


「さ、わかったらさっさと手を動かせ、クソガキども」


床のブラシがけをするクラリスとヴィルにむかって、ふーっと煙を吐いた。


――この世界の“当たり前”に、風穴を開ける場所。


そんな予感が、クラリスの胸の奥でひそやかに灯り始めていた。


(だけど……)


クラリスは顔を上げ、ふーっと煙を吐くミュラーを睨む。


(わたしがここにきたからには…まずそのタバコをやめてもらうぞ…)


クラリスはすっと目を細めた。





そうして、この診療所でクラリスたちが働き始めて、一年が経った。


かつて薄暗かった部屋には、いまや陽光が差し込み、白く洗いたてのカーテンが、風にふわりと揺れている。


床に乱れていた本はあるべき棚に収められ、机の上にはペンと紙のみだ。

ベッドの上のシーツは真っ白で、皺ひとつない。


そして、なにより――

あの煙の匂いが、跡形もなく消えていた。


その診察室の真ん中の椅子に不機嫌そうなミュラーがふてぶてしく座り、両脇にクラリスとヴィルが立っていた。


「……ここ、俺の診療所だったよな?」


ぼそりと呟くその声は、驚愕でも怒りでもなく――

何もかもが変わってしまった現実を、ようやく受け入れた男の、微かな諦念に似ていた。


「その不精髭も剃りません?消しましょうか?」


にこりと微笑んで問いかけたクラリスに、ミュラーはおそるおそる顎を押さえる。


「剃らねえ。これだけは俺のアイデンティティなんだよ……!」


その声はどこか、子どもじみてすらいた。




診療所がここまで変貌を遂げたのには、確かな理由がある。


第一に――

ヴィルの、清潔さへの執念だ。


「ゴミ屋敷…」


綺麗好きで整理整頓が得意なヴィルは、この診療所のかつての姿を許さなかった。


床を磨き、窓を磨き、物を整頓し、洗濯をかかさない。

時にはクラリスの能力で壁のシミを消しながら徹底的にこの診療所を変貌させていった。


「母ちゃんみてえなやつだな…」


不満げな声が聞こえないことはなかったが、ヴィルは手を緩めなかった。



第二に――

患者たちの数が、目に見えて増え始めたこと。


元々、ミュラーの力で患者はそれなりに多かったこの診療所だったが、診療所が綺麗になるにつれ更に増え始めたのだ。


でも、決定的だったのは――


「このほくろさえなければ、わたし、もっと別嬪なんだけどねぇ……」


いつもの腰痛で訪れたおばあちゃんの、その一言だった。


おばあちゃんは鼻のすぐ下の黒子をさし、笑う。


「お試しでよければ、消しましょうか」


クラリスはそっと手を掲げる。

すると、彼女の指先から、淡く、光が溢れた。

ほくろは、ふっと消え、赤い傷口が現れた。

出血は予想通りない。


(ふむ…やはりホクロの部分を消すのみか…)


クラリスは目を細める。

が、すぐにおばあちゃんに向けてニコリと微笑んだ。


「少しすれば皮膚がはえてきて、傷も目立たないはずです。経過、また見せてくださいね」


鏡を見たおばあちゃんは、少女のように、ぱあっと笑った。


そこから、評判が広がり、庶民から貴族まで――

急激に患者の数は増え、報酬は膨らみ、

診療所はさらに“それらしく”整えられていった。


白いカーテンの揺れる窓辺で、クラリスがぽつりと呟く。


「……このまま開業できるようになったら、ほくろ除去で生きていくのも、悪くないな」


だが――


その時だった。


きぃ、と軋む音を立てて、診療所の戸が開いた。

そこに立っていたのは、クラリスの運命を大きく変えることになる、ひとりの“患者”だった。

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