6話 それでも医者にはならない
「ねえクラ、卒業後の進路って…決めた?」
昼下がりの中庭。
サンドイッチをかじりながら、ヴィルがぽつりと呟いた。
その目は、心臓の断面図に釘付けのままだ。
「進路……?」
クラリスが顔を上げた瞬間。
咥えていたロールパンが、ぽとりと膝の上に落ちた。
「だって、もうすぐ卒業じゃない?卒業したら働かなきゃいけないし……ぼくの宿は兄さんたちが継ぐから、ぼくは自分で職探ししないといけないんだ」
ヴィルはスケッチ帳をめくる。
描き足されたばかりの疾病メモが、びっしりとページを埋めていた。
「クラは何になるの?やっぱりパン屋?でもさ、それだけ知識あるんだから、お医者さんとか……」
「私は新世界の神になる予定だけど?」
クラリスはごく自然に返した。
「嫌なやつを、こう、バッサバッサと消していくの」
「まだそれ言ってるの?……ほんと、冗談好きなんだから」
ヴィルは困ったように笑い、顔を上げた。
(冗談ではないのですが?)
クラリスはロールパンを拾い上げ、無言でもぐもぐと噛みしめた。
「ぼくはね、せっかくクラにいろいろ教えてもらったし……医療に関わる仕事も、いいなって思ってるんだ。それで、近くに診療所あるの知ってる?」
クラリスは無言で、こくんと頷いた。
(知ってる……どころではないんだよね)
クラリスの脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
まだ四歳の頃。
ふと思ったのだ。
(この世界の医療って……どうなってるんだろ?)
パン屋の客や町の噂を頼りに、クラリスが辿り着いたのは――
「名医がいる」と評判の診療所だった。
扉を開けた瞬間。
鼻を突いたのは、タバコの臭い。
眉をひそめながら視線を奥へ向けると、
無精髭に気だるげな中年が、椅子にふんぞり返っていた。
『なんだ?このガキ。かーちゃんはどうした?金はあるのか?』
即座に眉間にしわが寄ったが――
最低限の礼儀は守らねばと、深く息を吸って、口を開いた。
『お忙しいところ恐れ入ります。
わたくし、この町の医療を学びたく馳せ参じました。
もしよろしければ、診療を見学させていただけないでしょうか?』
中年医師は一瞬、ぽかんと口を開け、それからのし、のし、とクラリスの前まで歩み寄り――
がしっ、と頭を掴んだ。
『ガキの遊び場じゃねえ。帰りな』
そのまま扉の向こうへ、ぽいっと放り出された。
それが、クラリスの“初めての医療への接触”だった。
現実に戻って、クラリスはロールパンをもぐもぐしながら、遠い目をする。
(あのヤニ臭おじ医……まだ息してるかしら)
「ねえクラ、そこの先生、すごく評判いいんだよ。辛いのがすぐに良くなるって。ぼくたちも見に行ってみない?」
ヴィルが、まっすぐな目でクラリスを見つめていた。
その目が、「一緒に来て」と語っている。
(……医者にはならない。でも興味がないわけではない)
クラリスの目がきらりと光る。
「いいよ。行こうじゃない。……あのときの礼を兼ねて」
「……えっ?」
「なんでもない。さ、昼休み終わるよ。心臓のスケッチ、ちゃんと覚えた?」
クラリスは立ち上がり、ロールパンの袋をくしゃっと丸め、ぽいとゴミ箱に投げた。
そうして放課後、二人は診療所の前にいた。
クラリスは腕を組み、仁王立ち。
その背後には、ひっそりと立つヴィルの姿。
(…ぼくの見学のはず、だよね?)
思わず苦笑いがこぼれる。
そのとき、背後から足音が近づいた。
「並んでおるかね?」
声をかけてきたのは、腰の曲がった高齢男性。
二人は顔を見合わせ、すっと道を開けた。
「お先にどうぞ」
老人が診療所の扉に手をかけた、その瞬間。
クラリスの目がきらりと光る。
「今よ。行くよ、ヴィル」
「えっ?」
急に腕を引かれたヴィルは困惑の声を上げる。
「普通に見学に行ってもその実力は見られないでしょ。家族面して後ろで見てましょ」
「普通にばれそうだけど…」
「いいから!」
腕を掴まれたヴィルは、引っ張られるがまま室内へと吸い込まれていった。
そこには、数年前とまったく変わらぬ空気があった。
タバコのにおいが壁紙に染みついたように漂い、昼下がりの光にゆらゆらと煙が揺れている。
「ミュラー先生、こんにちは。今日もお願いしますよ」
柔らかな老声が響くと、部屋の奥からゆるりと首が回る。
クラリスの記憶通りの無精髭に、あの頃より伸びた長髪を一つにまとめている。
あげくにずれたメガネは曇っている。
(清潔感が皆無だ…さてはヤブ医者だな?こいつ…)
クラリスはごくりと唾を飲んだ。
「おうじいさん。……で、そっちの小娘とガキは?」
低くくぐもった声が響く。
ミュラーはじろりとクラリスたちを見やる。
ヴィルは肩を震わせ、小さく前に出る。
「あの、ぼくたち――」
「家族です」
遮ったのはクラリスのほうだった。
ヴィルはぽかんと口を開けて彼女を見る。
「そうなのか、じいさん?」
ミュラーはおじいさんに声をかけるが、おじいさんは聞こえていないのか、にこにこと笑みを浮かべたままだ。
「…まあいい。で、いつもの便秘か?」
ミュラーが耳元に口を寄せ低く声をかける。
「そうなんですよ。もう、痛くて痛くてねえ」
おじいさんがお腹をさすりながら、眉を下げる。
「ちゃんと水飲んでんのか?じいさん」
「この歳になると飲むのも辛くてねぇ…」
ミュラーは眉を寄せながら、吸い殻が山のように積まれた灰皿にタバコを押し当てる。
そしてのっそりと立ち上がると、棚の中の薬草の入った瓶を手に取ると、中の薬草をがばっとつまみすり鉢に放り込んだ。
「ほれ、ベッドに寝て待っててくれ。いつものやるから」
「はいはい」
おじいさんが立ち上がったその瞬間、クラリスが一歩前へ出る。
なにも言わず、さりげなく腰の位置に手を添えた。
ぐらつく身体を、自然に支える。
触れ方に迷いがない。まるで、そこに立つのが当たり前かのように。
「ありがとうねえ」
にこりと笑ったおじいさんに続き、ヴィルもそっと背に手を添える。
「ゆっくりで大丈夫です」
その声は、クラリスとヴィルのふたりから同時にこぼれた。
ミュラーはちらとおじいさんの様子を確認し、無言でその傍らに立った。
片手を軽くかざす。
その瞬間、室内が一気に光で満たされる。
強すぎず、けれど確かな魔力の気配を帯びた、静かな光だった。
「どうだ?」
「すっかり痛みが消えました。……ちょっと、トイレお借りしても?」
おじいさんは両手を借りてゆっくりと起き上がり、慣れた足取りで奥へと消えていった。
残された室内に、ふたたびタバコの匂いと静寂が戻る。
「いまのは、なんの処置ですか?あの薬草は?緩下剤?刺激性下剤?何日服用させる設計ですか?」
「……なんだなんだ、急にうるせぇガキだな」
あまりの勢いに、ミュラーは煙草を取り出しながら眉をひそめる。
「それに、あれはなんの能力なんですか?“消去”?それとも……“鎮痛”?」
パッと見、ただの少女にしか見えないクラリスの瞳は、明確に“本質”を捉えようとする鋭さを帯びていた。
ミュラーはぴくりと眉を動かし、煙を吐き出す。
「……お前なぁ、いきなり来て……」
その言葉が終わる前だった。
――ゲェッ。
奥の部屋から、喉をつまらせるようなえづき音が響く。
一瞬にして空気が変わる。
クラリスが先に反応した。
「ヴィル、行くよ!」
迷いは一切ない。
彼女はすでに走り出していた。
便座にしがみつき、虚ろな目でうなだれているおじいさん。
吐くものはほとんどなく、唾液だけがこみ上げている。
顔色は蒼白、脂汗がにじみ、呼吸は浅い。
クラリスは迷いなくおじいさんの手を取る。指先は湿っていて、脈のふれが弱い。
「迷走神経反射か……ヴィル、手伝って!」
「う、うん!」
クラリスが脇を支え、ヴィルが足元を抱えベッドに運ぶ。
慣れない動きのはずなのに、体は自然と動いていた。
「足を高く!枕か何か!」
クラリスの指示に、ヴィルが振り向いた――が、その前に。
ミュラーがすでに枕と毛布を重ね、黙って差し出していた。
「……助かります」
クラリスは短く礼を言い、それをおじいさんの膝下に差し込む。
重力が血流を戻し、体が少しずつ落ち着いていく。
クラリスはいくつかの問診を飛ばすように確認し、おじいさんの耳元に顔を寄せ低音で話しかける。
「すぐによくなるからね。これはお通じの時にでる反射だから。大丈夫よ」
おじいさんは微かに頷いた。
「ヴィル、大腸見れる?S状結腸から下、メインで」
「わ、わかった」
ヴィルはすぐにおじいさんの腹部に手を添え、目を閉じる。
部屋が淡く輝き、光が一瞬だけ満ちて、消えた。
「S状結腸に、固くて大きな便がある……そのすぐ上の腸が、空気でぱんぱんに膨らんでる」
「……よし」
クラリスは手を翳し、意識を集中させる。
(S状結腸の便塊、消去)
光がふたたび満ち――次の瞬間。
「……あれ?お腹の張りが……楽になりましたよ」
おじいさんは驚いたように腹をさする。
クラリスとヴィルは、静かに目を見合わせ――にっこりと、拳を合わせた。
ミュラーはただその様子を、腕を組んでじっと見つめていた。
無言のまま、ふーっと煙を吐き出す。
「……お前たち、何者だ?」
低く掠れた声に、クラリスとヴィルは顔を見合わせた。
クラリスがぽん、とヴィルの背中を押す。
「ぼ、僕は……宿屋の息子、ヴィルです。医療に関わる仕事がしたくて。ここで、勉強させていただけませんか」
「勉強ねぇ……」
ミュラーはちらりとクラリスを一瞥した。
その眼差しの奥には、確かに何かを見抜く光があった。
(処置の手際、判断、指示の正確さ……こいつ、ただの子供じゃねぇ)
ふう、と再び煙を吐いた。
「……で、女。お前もか?」
「私は違いますよ」
あまりにも当然のように言い切るクラリスに、ヴィルの声が裏返った。
「えっ?!ちょ、ちょっとクラ……」
「言ったでしょ?わたし、新世界の神になるって」
「……冗談じゃなかったの、それ……?」
唖然とした顔でクラリスを見つめるヴィル。
(ごめんねヴィル。でもわたし、今世は本当に、穏やかに生きたいの)
クラリスはヴィルの反応に小さく笑って、ふっと目を伏せた。
(お金持ちになって、豪邸のプールサイドで、フルーツの刺さったカクテル片手にのんびり過ごすんだから……!)
遠くを見つめるその目に、迷いはなかった。
そのとき、ふと気配に気づき振り返ると――
いつの間にか、おじいさんが静かに起き上がっていた。
顔色はすっかり良くなり、さきほどまでの苦悶が嘘のように消えている。
ミュラーは薬草の詰まった袋を手渡しながら言った。
「よくなったか?じいさん。腰痛続くとまた便秘なるから、早めに来いよ。水も飲めよ」
「はいはい。ありがとうね」
おじいさんは、にこにこしながら金貨をひとつ、ミュラーに渡す。
「ありがとうねぇ…助かったよ」
クラリスとヴィルにも向き直り、それぞれに硬貨を手渡し、満足げに診療所をあとにした。
「い、いいのかなぁ…クラ…」
ヴィルの言葉をよそに、クラリスはそっと手のひらを開く。
きらりと光るその硬貨は――金貨、一枚。
(……金貨……金貨?!?!)
服が五十着は買える。
その瞬間、クラリスの背筋に戦慄が走った。
(そうか……そうだった……!この世界には…皆保険制度がない!!診療に自由に値段がつけられるんだ!!)
ごくり、と生唾を飲み、こめかみに汗が伝う。
そして、クラリスは。
「わたし、医者になる!」
「えええっ!?!?」
またしても、ヴィルの声が裏返った。
(比較的リスクが低くて、時間がかからない症例だけを選んで……)
(休みは週4日、そして稼いだお金でプールつきの豪邸!!)
クラリスの瞳は、炎のようにギラついていた。
そしてその様子を、ひとり黙って見つめていたミュラーは――
ふう、と静かに煙を吐き出す。
その横顔には、口には出さずとも確かに浮かんでいた。
――やべぇやつきたな…。




