番外編 雨の日のあだ名戦争
その日、パストリア王国の真上には厚い雲がかかり、ざあざあと降る雨が庭の木々を揺らしていた。
クラリスはいつも通り、フィーリアの治療のために部屋を訪れていた。
「すごい雨だねぇ。こりゃ診療所も今日は静かだな」
クラリスがぽつりと言うと、フィーリアも窓の向こうに視線を向けた。
「雨の日は、怪我をする方が多いのでは……と思っていましたが、違うのですか?」
「鋭いね、フィーリア。でもね、こんな雨だとみんな外に出ないから。患者さん、ぐっと減るんだよ」
褒められたフィーリアの頬が、わずかに赤く染まった。
「お茶をどうぞ」
カレルが運んできたのは、湯気を立てる紅茶と、色とりどりのマカロン。
「あなたが、こんなにスイーツに詳しいとは、思ってもみませんでしたわ、カレル」
フィーリアはにこりと微笑みカップを手に取る。
カレルは照れくさそうに目を伏せた。
「……お口に合えば、幸いです」
クラリスの前にもカップが置かれ、彼女は迷わず赤いマカロンをつまむと、ぱくり。
「ん~~~美味しい! はー、マカロンってなんでこんなに美味しいんだろ……」
両手で頬を押さえて幸せそうにとろけるクラリス。
その姿を見て、フィーリアの笑みもふわりと深まった。
――いつも通りの、雨の日の午前。
……そのはずだった。
「カレル様!よろしいでしょうか!」
乱暴なノックが、静かなティータイムの空気を裂いた。
カレルはすっと立ち上がり、ドアの隙間から外の声を聞き取る。
「なんだろ……?」
クラリスがきょとんとしている一方で、フィーリアは――ほんの少しだけ眉を寄せ、カップをそっと置いた。
カレルはフィーリアに向き直る。
「フィーリア様。少しの間、席を外します。この部屋から出られませんよう」
「……はい」
フィーリアは静かに頷いた。
そしてカレルはクラリスのほうへ、鋭い視線を向ける。
「クラリス嬢。フィーリア様をお守りください。……フィーリア様になにかあれば、あなたにも“相応の責任”がおよびますからね」
その声音に、クラリスの口元が引きつる。
こくこく頷いているうちに、カレルは扉からするりと姿を消した。
「き、騎士ジョーク……だよね?ね?なにかってどこからどこまで……?とりあえずフィーリア、マカロン食べるのやめとこ?詰まったら私、首飛ぶみたい、物理的に」
唐突な弱気にフィーリアはかすかに笑った。
「カレルがあなたに任せたのです。……信頼している証ですわ」
クラリスは胸を撫でおろし、紅茶をひと口。
だがすぐ、フィーリアの横顔を見て目を細めた。
「ほんと……フィーリアは大人びてるよね。
ヴィルも落ち着いてるなぁって思うけど……フィーリアはそのさらに上だよ」
「……まあ。光栄ですわ」
フィーリアはカップに視線を落としながら、どこか表情を揺らして微笑む。
「……前から気になっていたのですが、ヴィルさんとは、仲がよろしいんですの?」
「そうだね……もう五年になるもんね。仲良いと思ってるよ」
クラリスはふっと窓の外へ視線を流す。
外では、変わらずざあざあと雨が降り続いていた。
「ヴィルはね、努力家だし気がきくし、とっても優しいんだよ。子供の面倒見るのも……ミュラー先生の面倒見るのもうまい。おまけに綺麗好きで料理上手。あれは……いい“お嫁さん”になるよ」
思い出しただけでも可笑しいのか、クラリスはくすっと笑った。
フィーリアの指先が、そっと止まる。
「……ヴィルさんとは、そんなに……仲がよろしいのですね」
その声は、いつもよりわずかに控えめで。
言葉の奥で、なにかが小さく鳴ったようだった。
クラリスは迷いなく頷く。
「うん。七歳からずっと一緒だし……特別な感じする」
その言葉が、静かにフィーリアの胸に落ち、胸の奥が、ちくりと痛む。
(わたくしも、ヴィルさんのように……“特別”になりたい……!)
フィーリアはそっと目を伏せた。
ふたりの間に落ちた一瞬の沈黙を、ざあざあと雨音が埋めていく。
(いいえ……“なりたい”と願うだけでは、だめですわ。——ならなくては……!)
勢いよく顔を上げたフィーリアに、クラリスが気づく。
きょとんと首を傾げるその無防備な笑顔が、フィーリアの胸をさらに締めつけた。
「……っクラリスさん!!わたくし……わたくしも、特別になりたいんですの!」
思わず身を乗り出すフィーリア。
クラリスは驚いたように瞬きをし、すぐふわりと笑った。
「なにそれ?フィーリアはもう特別だよ?こうして毎日会ってるし、フィーリアと話すの好きだし」
言いながら、いつものように優しくぽんぽんと頭に触れる。
フィーリアは頬を赤く染め、しかし小さく首を振った。
「そう、いっていただけるのは嬉しいのですが……なにか、わたくしだけの、クラリスさんとの……!」
「フィーリアは可愛いこと言うね」
クラリスは目を細めて微笑む。
その穏やかな声を聞きながら、フィーリアはふっと息を呑む。
(……あっ。そういえば……!)
最近クラリスに借りた本の一節が脳裏をよぎる。
“親友同士は、あだ名で呼び合うものだ”
——そう書かれていた。
胸が跳ねる。
「わたくしを……っ、わたくしを、あだ名で呼んでいただけませんか!!」
「あだ名……?いいね!」
クラリスはぱっと顔を明るくしたが、数秒後には青ざめて首に手を添えた。
「……でもそれ、呼んだら首落とされたりしない……?」
「し、しません!!絶対にしませんからっ!」
慌てたフィーリアが両手でクラリスの手を包み込み、首からそっと引き離す。
「じゃあ……」
クラリスは少しだけ上を見て考え込むと、ぱっと表情を輝かせた。
「フィーとか?誰もそう呼んでないし、特別感あるよね」
「……!!なんて、素敵な響きでしょう……!!本当に、特別なお友達になった気がいたしますわ……!」
フィーリアの胸に、じんとしみる。
溢れるものを掬うように、胸の前でぎゅっと両手を握った。
「へへ、なんか恥ずかしいけど、そんなに喜んでもらえて嬉しい。じゃあさ。……フィーも私にあだ名つけてくれる?」
クラリスがへらりとわらう。
「もちろんです!」
勢いよく答えながら、フィーリアは思案の渦へ沈んでいった。
「ヴィルさんやルスカお兄様は“クラ”ですわよね。シュヴァンお兄様やカレルは“クラリス嬢”。ミュラー先生は……?」
「“クラリス”かなぁ。庶民はファミリーネームないし、バリエーション少ないんだよね。昔はパン屋って呼ばれてたし」
クラリスは肩をすくめて笑う。
(いいえ……“皆と同じ呼び方”ではだめですわ。
わたくしだけの呼び名がほしい……!)
フィーリアはきゅっと拳を握る。
(リス……は違いますし、クー……は可愛すぎてペット感がありますわ……では……?)
苦悩するフィーリアの脳裏に、とある人物がよぎった。
(お兄様は“クラ”……。お兄様とは違う位置で……“特別”。わたくしだけの——)
ぱっと顔が上がる。
「お姉様!お姉様はどうでしょう!!」
クラリスは目をぱちぱちと瞬かせた。
「え、いいの?……私はいいけど……誰かに怒られそうじゃない?」
「良いのです!!わたくしだけの、あだ名ですからっ!だれにも文句は言わせません!」
クラリスはきょとんと目を丸くしていた。
が、
「じゃあ……それで。なんだか恥ずかしいな」
照れたように笑った。
フィーリアの胸に、あたたかいものがふわりと満たされる。
(嬉しい…っ!誰とも被らない、わたくしだけのあだ名……!)
頬が熱を帯びていく。
世界が、きらきらと輝いていくかのようだった。
その時。
トントン、と軽やかなノック音が響いた。
「入ってもいいかな」
聞き覚えのある低く柔らかい声。
途端にクラリスの背筋がぴん、と伸びる。
ゆっくりとドアが開きーー
「やぁ、フィーリア。それにクラリス嬢も」
真紅のマントを揺らしながら、第一王子シュヴァンが現れた。
背後には、きっちり礼をとるカレルの姿。
クラリスは頬を真っ赤に染め、甲高い声で「ひゃっ」と言葉にならないお辞儀をする。
フィーリアはそれをじっとりとした眼差しで眺めていた。
シュヴァンはそんな視線には気づかないまま、穏やかな笑みでクラリスを見つめる。
「いつもありがとうクラリス嬢。きみのおかげで、フィーリアは随分元気になった」
「い、いえ……わたしはなにも……
フィーリアが頑張ったから、です……」
(いま、“フィーリア”って……)
フィーリアはむっと唇をとがらせた。
だがすぐに、何かを閃いたように顔を明るくする。
「いいえ!わたくしが回復したのは、お姉様が尽力してくださったからですわ!ね?お姉様!!」
「……お姉様?」
シュヴァンが小さく首を傾げる。
その横で、カレルは額に手を当てて天を仰いでいた。
フィーリアは勢いよくクラリスの腕をとった。
「わたくしとクラリスさんとの“親密の証”ですの!
お姉様は、わたくしを“フィー”と呼んでくださいますわ!」
クラリスは恥ずかしそうに笑い、こくりと頷く。
「わたくしたち、親密ですの!
……そう、お兄様よりも!!」
どん、と胸を張るフィーリア。
カレルの喉がごくりと鳴る。
クラリスは何かわからない悪寒を感じ、首をさすりながら視線を泳がせた。
沈黙を埋めるように、窓の外では雨がざあざあと降り続けている。
その静寂の中でーー
「……ふっ」
シュヴァンが微笑を漏らした。
「いつの間にか、僕には可愛い妹が二人になったようだね。
歓迎するよ、クラリス嬢……いや、クラリス」
にこり、と優雅に。
けれどどこか距離を詰めるような、甘い呼び声。
「ひゃあああぁあ!?!?」
クラリスは頭を抱えてうずくまった。
その様子を見て、フィーリアは震えながら拳を握りしめる。
「……後でまた来るよ。
ふたりの時間を邪魔してしまったようだからね」
シュヴァンは軽く手を振り、真紅のマントを翻して去っていく。
扉が閉まる直前ーー
フィーリアは静かに、しかし確かに闘志を燃やしていた。
(ぜったい……負けませんわよ、お兄様……!)
雨音だけが、その密かな決意の背を押すように、優しく降り続けていた。




