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27話 フィーリアの願い

月明かりが降り注ぐバルコニーに、ひんやりと夜風が吹き込んだ。

クラリスは欄干にもたれ、遠くで響く音楽と人々の笑い声に耳を澄ませていた。


その背後から、やわらかな足音と――


「お姉様、こんなところにいらしたんですね!」


頬を上気させたフィーリアが駆け寄り、クラリスの隣に立つと、そっとその手を取る。


「楽しんでいただけていますか?…こんなところで……もしかして、ダンス、お嫌でしたか?」


「ううん、初めてだったけど、フィーのおかげですごく楽しい! ちょっと暑くなったから、涼みに来てただけだよ」


その答えに、フィーリアは胸を撫で下ろし、クラリスの隣で手すりに両手を添えた。


「それはよかったです」


フィーリアはそっと空を見上げる。

まんまるの月が、やさしく地を照らしていた。


「……わたくし、お姉様には本当に感謝しておりますの。病を治していただいたことはもちろんですけれど、それ以外のことだって……」


フィーリアはそっと瞼を閉じる。

ひゅう、と吹いた夜風が、その髪を静かに揺らした。


「前にも言ったけど、わたしはなんにもしてないよ。頑張ったのも、治したのも、フィー。だから、自分をいっぱい褒めてあげてね」


クラリスの言葉に、フィーリアは顔を伏せる。


『お姫様は、もっと美しくなければね。男性に好かれませんわよ』

『虫!?そんなことはお姫様らしくありません。さあ、この本をお読みくださいませ!殿方とのお話には教養が必要です!』

『いけません!!』


フィーリアの脳裏に、幼い頃からの“お姫様”としての暮らしが、次々と浮かんでは消えていった。


(だれかに、ただ自分を褒めてあげてなんて、言われたことなかった。いつも、誰かのために、と……)


ぽたり、ぽたりと涙がこぼれる。

けれど、フィーリアは何かを押し出すように、唇を噛み――

そっと顔を上げた。


「お姉様、本当にありがとう。わたくし、あなたに会えて、本当によかった……」


「わーっ!泣かないで泣かないで? せっかくフィーが主役のパーティーなのに」


あわててポケットをまさぐるクラリス。

出てきたのは、くしゃくしゃの紙屑ばかり。


「……うぇっ……! ティッシュもハンカチも……ない……!!女子力ぜろ…!!」


慌てたクラリスはフィーリアをそっと抱き寄せ、背中をぽんぽんと撫でる。


フィーリアはその肩に顔を埋め、静かに震えていた。

焼きたてのパンような匂いがフィーリアの鼻をくすぐる。


「どうして、こんなにもわたくしを助けてくださったのですか?

わたくしは、いずれ男性に“出荷”されるだけの存在だというのに……」


それは、かつて誰かに言われて深く傷ついた言葉。

思い出して口にしながらも、胸の奥がちくりと痛んだ。


「“出荷”って……」


クラリスは小さく呟くと、少しだけ視線を上げた。

そのままかがんで、フィーリアと目線を合わせる。


「フィーが困ってたから。助けて、って言ったから」


それから、にこっと笑って続ける。


「それにね……わたしの前世では、国のトップは百代以上ずっと男性だったんだ。

でも、その中で、ある女性が“優秀だから”って理由で、初めてトップになったの」


クラリスは、まるでちょっとした内緒話をするように声を潜める。


「フィーもさ、てっぺん取っちゃえばいいじゃん。そしたら、今度は“出荷する側”になれちゃうかもよ?」


なんとも無責任で、でも軽やかで、あたたかい笑い声。

まるで「散歩でも行こっか」と言うみたいに。


(そんなこと、考えたこともありませんでした…)


フィーリアは何度も瞬きを繰り返す。

言葉が、出なかった。


「あっ!そしたらシュヴァン王子出荷される!?そのときは通知くれる!?」


「もう……」


フィーリアは涙を拭いながら、くすくすと笑みをこぼした。


(あなたは、わたくしにとっての王子様はおひさまだといいました。けれど、わたくしにとっての王子様はーー)


フィーリアがそっとクラリスの腕に触れ——

そのわずかな温もりを感じた、まさにその瞬間だった。


風が、一瞬だけ止まった。


かつ、かつ、と。

石畳を叩くヒールの音が、夜の静寂を割る。


「ん……?」


クラリスが、振り向いた瞬間。


ぐっ、と腹部に何かが押し込まれる。


驚愕のまま顔を上げると、そこには黒いドレスに身を包んだ女の姿があった。

女は無言のまま、ふらつく足取りで後ずさりしていく。



「お、お姉様……っ!!」


クラリスがそっと下を見ると、左脇腹に刃物の柄が突き刺さっていた。


「う、うそ……今度は他殺」


じわじわと広がりはじめる痛みに、クラリスは膝をつき、フィーリアもまた、そのそばに膝をついた。


「衛兵っ!!衛兵!!!」


フィーリアが叫ぶが、室内の音楽にかき消されて届かない。


クラリスがフィーリアをその背に隠しながら見上げた先には、息が荒く髪も振り乱れ、目の下に隈が目立ち、頬がこけた中年女性。


「あなたは……」


随分と見た目には違いはあるものの、見覚えがあった。


「マリアンヌ夫人……?」


「ざまあないわ!!あなたのせいで……!

わたくしは貴族には嘘つき扱いされ、家では夫も子供も冷たくなったのよ!!

すべて……すべてあなたが原因なのよ!!」


「逃げて、フィー。わたしは、大丈夫」


ずきずきと痛むお腹を抑えながら、クラリスが耳打ちする。

フィーリアは首を横に振る。その手は震えていた。

けれど、逃げようとはしなかった。


「お前だけは絶対に許さない、わたくしのお姫様を、かえせーー」


絶叫とともにマリアンヌが手を伸ばす、その刹那――


マリアンヌの身体が、大きく横へ吹き飛び、近くの柱に叩きつけられる。

そのままずるずると倒れ込んだ。


現れたのは、息を荒げたルスカだった。


「お兄様!!お、お姉様が…!!」


フィーリアの悲鳴に、ルスカはクラリスのもとへ駆け寄り、膝をつく。


「おい、大丈夫か!」


クラリスはルスカの顔を見ると、ホッとしたように笑みを浮かべ、その場に尻もちをついた。


「不意打ちとは……王子様にあるまじき行い……じゃない?」

「うるさい、こんな時に戯れ事を言うな!」


ルスカが左脇腹に突き刺さった刃へ手を伸ばすと、クラリスがすかさずその手に触れ、制止する。


「抜かないで……どこに刺さってるかわかんないし、今はこれが止血の役割してるから……」


「だが……」


「ヴィル呼んで……。中の様子、見てもらえるし……でも自分じゃ縫えないや……ミュラー先生オペできるかな……。輸液も輸血もないしなぁ……」


ぼやくような声。

思考は止血も輸血も手術の段取りも術後の経過まで把握していて――だからこそ、死期がみえてしまう。


「過労死の次は他殺かぁ……でも、この世界に来て、みんなと仲間になれてよかった。フィーの力になれて、本当によかった。おかあさんとおとうさんには……お礼いっておいてよ」


「やめろ、変なこと言うな……」


ルスカは震える手で、クラリスの手を取った。

ぬるりとした感触。

ルスカが視線を落とすと、その手は真っ赤に染まっていた。


「いたいなぁ……あぁ、そうそう、フィーのせいじゃないからね。自分を責めちゃ、だめだよ」


震える指先で、クラリスがフィーリアの頬を撫でる。


フィーリアはその手に、自分の手を重ね、真っ直ぐに見つめた。


「ーーーいいえ、死なせません。お姉様だけは、絶対に」


静かに宣言すると、フィーリアは両手をクラリスにかざす。


次の瞬間、夜の闇を打ち払うような眩い光がバルコニーを包んだ。


「わたくしが、助けます」

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