26話 一番好きな服で
城の一角にある控えの間。
クラリス、ヴィル、ミュラーの3人は、そわそわと落ち着かない様子でグラスを傾けていた。
その横で、どしりと座るルスカは何度目かわからないため息を吐いた。
今夜はフィーリア主催の舞踏会。
数日前、診療所に届けられた招待状。
そこに書かれていた“ドレスコード”を目にしたとき、本から目を離さないルスカを他所に、3人は声も出せずに固まった。
"ドレスコードは、『自分が一番好きな服』"
『……これさ、結局みんな正装してくるやつじゃない?』
『ひ、ひぇえ……』
『いや待て。4人いれば怖くない。最悪浮いても、固まってれば平気だろ。チームミュラーだ』
『……ふん』
こうして、本当に各々お気に入りの服で行くことにしたのだ。
そして当日、待ち合わせ場所。
ヴィルは一番上の兄から借りたという綺麗目なジャケット。
ルスカはシャツとベストにスラックスで綺麗にまとまっている。なによりマントがない。
ミュラーは軍医時代の礼装。前髪を上げ、ガッチリ固められた髪に、新品の革靴まで履いている。
クラリスは……一つにまとめた髪を揺らし、白衣にスラックス。あげくにスニーカーだった。
「う……裏切り者!!!」
涙目のクラリスに、ミュラーはやれやれと肩をすくめる。
「お前さ、本当に“好きな服”で来るやつがどこにいる。王城だぞ?」
「というか、クラ、白衣好きだったんだ…」
「だって楽なんだもん!!下に何着てるかバレないし!でもいつもより綺麗めだよ!?スラックスもおかあさんのだしさ!」
「適当に選べよ、服なんか腐るほどあるだろ?」
「ルスカは一回頭から水浴びて反省してきて!!」
涙を浮かべながら大声で抗議するクラリスに、三人は目を合わせ……小さくため息をついた。
そうして、怒りを隠さないクラリスを何度も何度も宥めながら、ミュラー達は客間で呼ばれるのを待っていた。
「これはわたしがもらいますからね!!」
クラリスが威嚇しながら、皿に最後に残った好物のマンゴーに手を伸ばしたときだった。
コンコン…
ノックが響く。
「どうぞ」
ミュラーの返事にドアが開けられる。
そこには、いつものきっちりとした正装とは異なり、ラフなワイシャツ姿で不安そうな顔を浮かべたカレル。
そしてその後ろには、いつもよりラフなワンピース姿のフィーリアがいた。
出会った頃より背は随分と伸び、なにより……青白かった肌は桜色に染まり、ほんの少し焼けた頬に、金色の髪が照明の灯りを受けてきらめいていた。
フィーリアはクラリスの姿を見つけると、目を輝かせ駆け寄り、その手を取った。
「お姉様、とっても素敵ですわ!」
「そ、そうかな?フィーのワンピースも綺麗だよ」
いいながら、クラリスはフィーリアの深緑色のワンピースにじっと目を留める。
「……なんだか、わたしの瞳の色に似てるね。嬉しいな、その色、わたしも好きなんだ」
クラリスが微笑みながら、そっとフィーリアの頭を撫でる。
フィーリアは頬を真っ赤に染め、目を細めて――
「わたくしもですわ」
そのままクラリスの手を取った。
「さあ参りましょう!みなさんお待ちですわ!」
フィーリアは上機嫌にクラリスの手を引くと、皆が後に続く。
「……正装の俺、もしかして逆に浮く?」
ミュラーのつぶやきだけが、虚しく部屋に残されーーヴィルが慰めるようにそっとその肩に手を置いた。
以前、あの“直訴の舞踏会”が開かれた大広間の前で、クラリスはフィーリアと手を繋いで立っていた。
扉の向こうからは、アコーディオンや笛の軽やかな音色に混じって、人々の笑い声や話し声がにぎやかに響いてくる。
「ま、待って……もう始まってる……?」
「ええ!皆様、とても楽しんでくださっておりますの!」
クラリスはごくりと唾を飲み込んだ。
(途中から参加する飲み会……それは……テンションついていけない地獄のやつ……!?)
足がすくみかけたそのとき、フィーリアがぐいっとクラリスの手を引く。
「さあ、参りましょう、お姉様!」
その楽しそうな笑顔に、引き下がることなど到底できなかった。
覚悟を決めて、クラリスは一歩を踏み出す。
カレルが扉を開けると、中に集まった大勢の人々の視線が一斉に二人へと注がれた。
――わっ!
どっと湧き上がる歓声に、クラリスは思わず立ち止まる。
「え、えーっと……?」
ぺこぺこと頭を下げながら、クラリスはフィーリアに手を引かれ、割れるように開いた人々の間を通っていく。
私服や制服姿の人混みをよく見ると、そこには――
いつも優しく、時折こっそりおこぼれをくれたシェフ。
献立をめぐって何度も口論した、栄養士たち。
水遊びでずぶ濡れになったフィーリアを、見て見ぬふりしてくれたメイドたち。
とっておきの庭の隠れ場所を教えてくれた、庭師のおじさん。
こっそり馬に乗せてくれた、厩舎の兵士たち――
みな、フィーリアの療養に関わってきた人々だった。
フィーリアに導かれ、玉座のように設えられた高台へとフィーリアとクラリス、ミュラー、ヴィル、ルスカが並ぶと、カレルが片手をすっと上げる。
ぴたり、と音楽が止まった。
一瞬にして静まり返った会場。
その空気の中心に、視線を一身に集めながら、フィーリアが立っていた。
こほん、と小さく咳払いをすると、彼女は静かに口を開いた。
「皆様。今日は、わたくしの初めてのパーティにお越しくださって……ありがとうございます」
ふわりと微笑むと、その堂々たる佇まいに、誰もが息を呑む。
「わたくしは一年前、病に倒れました。
力が入らなくなり、歩けなくなり……もうずっとこのままだったらどうしようと。
“大好きだったダンスも、もうできないのだわ”と……とても、気が滅入っておりました」
彼女はそっと目を伏せる。
クラリスは思わず、つないでいた手に力を込めた。
するとフィーリアはそれに気づき、顔を上げてクラリスに小さく微笑みかける。
そのまま、前を向いた。
「ですが、ここにいらっしゃる皆様や……
この、ミュラー診療所の皆様、そしてクラリスさんのおかげで、わたくしはこうして今ここに立てています」
わっと歓声が沸く。
言葉に静かな力を宿して、フィーリアは身体ごとクラリスに向き直る。
そして、その両手を取った。
「……今日、わたくしは証明したいのです。
わたくしの“好き”を取り戻せたと。
クラリスさん。
わたくしと……踊っていただけますか?」
クラリスが驚いて瞬きをする。
「えっ……!でもわたし、踊りは、あれ以来全然……!」
それを見届けてから、フィーリアはちらりとカレルに目をやった。
カレルが楽団に小さく合図を送ると、
ほどなくして、アコーディオンと笛の奏でる楽しげな音楽が、再び広間に満ちていった。
戸惑うクラリスの手を、フィーリアがしっかりと握る。
そしてそのまま、輪の中央へと導いていった。
フィーリアはクラリスと両手をつなぎ、ゆっくりと一歩、また一歩と踏み出す。
音楽に合わせて身体を預け、優雅にくるりと回るたび、彼女のワンピースの裾がふわりと舞った。
まるで、雨の日の傘のように。
クラリスはただ、うろたえているだけ――
……だったのに、そのダンスは、どうしようもなく美しかった。
曲が終わると、会場に大きな拍手と歓声が起こった。
フィーリアは皆へと振り返る。
「さあ、皆様も!型にはまったダンスでなくとも、お好きなように身体を動かしてくださいまし!今日のドレスコードのように!」
笑顔のフィーリアが声をかけると、グラスを置いた人々が輪を崩し、次々と踊りはじめた。
フィーリア自身も、近くにいたメイドの手を取る。
近くの誰かと手を取り合う人、一人でリズムを刻む人――
その夜の広間は、音楽と笑い声に包まれた。
そんな中、ぐい、とクラリスの片手が再び引かれた。
振り向けば、そこにいたのはルスカだった。
「……妹の企画した催しだ。乗らない方が、無粋というものだろ」
そう呟いた彼は、どこか恥ずかしそうに目を逸らしている。
(……何も言ってないけど)
クラリスはくすりと笑う。
「じゃあ……一年前のスパルタ教育の成果をお見せしましょうか」
「ふん……」
ルスカは視線を合わせぬまま、音楽に合わせてクラリスを導き始める。
先ほど、クラリスが“男性役”となったフィーリアとの踊りとは違い、
今回はルスカがリードを取り、彼の手がクラリスの腰に添えられる。
軽く手を引かれるたび、くるりと身体が回る。
クラリス自身は何もしていないというのに――
(こいつ……リードが上手い……!?)
呆然とするクラリスに気づいたのか、ルスカはほんのわずかに口角を上げた。
そして、ふっと――
クラリスの指先を包む手に、微かな力が宿った。
ちょうど音楽が止まった瞬間、クラリスの手がそっと引かれた。
振り向くと、そこにいたのは――頬をほんのり染めたヴィル。
真っ直ぐにクラリスを見つめながらも、その手はかすかに震えていた。
「僕とも踊ってくれる?ルスカみたいに、うまくはできないけど……」
最後の方は恥ずかしさに負けたのか、視線を落とし、声もか細くなる。言葉はよく聞き取れなかった。
けれどクラリスは、にこりと笑ってその手をしっかりと握り返した。
「大丈夫!一緒に踊ろう!」
二人は、これが“ダンスっぽい”のか、どうなのか……と試行錯誤しながら、ぎこちなく身体を動かしていく。
それは、先ほどのルスカやフィーリアとの優雅な踊りとはまるで違っていたが――
「ふ、ふふ、クラ、それはさすがにないよ…!」
「ヴィルだって、生まれたての子鹿みたいじゃん!」
ふたりは、曲が終わるまでずっと笑い合っていた。
そうして、ちょうど曲が終わったころ――
「……あの。わたしと、踊っていただけますか。……姫様の、ご命令なので」
しぶしぶといった風に手を差し出すカレルに、クラリスはぱちりと瞬きをする。
その視線の先をたどれば、遠くでフィーリアがにこにこと笑みを浮かべていた。
「大変ですね? 宮仕えってやつも」
クラリスはくすっと笑いながら、その手を取った。
二人はそっと両手をつなぎ、ただ揺れるように身体を動かす。
カレルは口を開いては……また閉じ、開いては……また閉じていた。
「……?」
クラリスが首を傾げる間に、曲が終わる。
一礼をして顔を上げたカレルは、まっすぐな目で彼女を見つめた。
「……やり方は、正直、無茶苦茶ですが。
あなたのおかげで、姫様は……ずいぶんと、笑うようになられました。……感謝しています」
クラリスが息を吸う前に、カレルはもう背を向けていた。
城の人たちともひとしきり踊り終えると、クラリスはそっと輪を抜けた(ミュラーは恥ずかしいとかで、最後まで頑なに踊らなかった)。
やがて彼女は、ひとりバルコニーへ出て、グラスを傾けていた。
(涼しい……)
クラリスはグラスの中の冷えたジュースをひとくち飲むと、遠くで響く楽しげな音楽に耳を澄ませた。
(楽しい時間って、あっという間だ……)
そんなことを思いながら、彼女はふっと小さく笑った。
(過労死してこの世界にきて12年……フィーを助けることができて、本当によかった)
救急医として働いていた頃。
高梨の病院では、救急医達はチームで入院患者を担当していた。
そのため、自分のシフトが入っていない日に、気づけば患者が転科なり退院していることも多かったのだ。
(あんなに感謝を伝えてもらえたのって初めてかもしれないな……嬉しい……)
思わずにやけた頬を、手のひらでそっと隠す。
(がんばって、よかった……)
冷たい風が頬の熱気を冷ます。
室内からは、わっと歓声が上がっていた。
……その奥で、ひとりの女がじっと彼女を見ていた。
光の消えた瞳で、爪が食い込むほど強く握った拳を、震えさせながら。




