22話 暗がりのダンス
翌朝。
(ハイヒール、きつかったなぁ……)
どっしりと重たい両足を抱えながら、クラリスは城の奥へと足を進めていた。
朝からさっそく、調理室での打ち合わせが予定されている。
昨夜の記憶は、まだ頭の中で色濃く揺れていた。
華やかなシャンデリアに彩られたパーティ会場。
きらびやかなドレスに身を包んだ、綺麗なお姉様方。そして――
(あの感触は……焼く前のパン生地だった……)
にやつく頬をなんとか抑えながら、クラリスはそっとおでこに手を当てた。
「じゃあ、さっそく今日の昼からお願いしますね!」
調理室の一角。打ち合わせを終えたクラリスは、次の目的地――フィーリアの居室へと向かっていた。
『姫様の食事が本当にこれでいいのか、ずっと疑問だったんですよ!』
調理師たちは口々にそう言って、むしろ目を輝かせていた。
栄養バランスの整った“普通”の食事を出せることに、理解どころか喜びすら示してくれたのだ。
さらに、栄養が不足していると思われるフィーリアのために、肉・野菜・魚などを取り入れた献立の提案まで申し出てくれた。
(しばらくは献立チェックも続けるけど……任せて大丈夫そう)
クラリスは、ふうっと肩の力を抜くように息を吐いた。
(これで、少しは貧血が良くなるかな……
でも、“歩けない”っていう本題は、まだ残ってる)
目の前には、重厚な扉と、その両脇を固める兵士。
(大丈夫。一つずつ。きっとなんとかなる)
クラリスは小さく会釈すると、取っ手に手をかけた。
「クラリスさん!お兄様から聞きましてよ!昨日は大変だったんですって?」
クラリスが姿を見せるなり、フィーリアはベッド上で身体を起こした。
(何をどう聞いたんだろう…)
苦笑しつつ、クラリスはベッドサイドに診療バッグを置く。
「まあね……なかなか……世紀のナイスファイトだったよ」
フィーリアははっと目を見張った。
「なんてこと……わたくし、聞きましたの。クラリスさんが、わたくしの食事が病の原因かもしれないと、奮闘してくださったのだと……」
そっとクラリスの手を包むフィーリアの手は、真っ白で、小さくて。
その瞳は、潤んだように揺れていた。
(可愛い〜……違う違う!真面目な話!)
クラリスは思わず緩みそうになる頬を、慌てて引き締めた。
「クラリスさん、ありがとう。そのために舞踏会に出るおつもりで、あんなに準備もがんばってらしたとは知らなかったの。……おっしゃってくださったらよかったのに」
目を伏せるフィーリアの手を、クラリスもそっと包み返す。
「いい勉強にもなったからね。お客になりそうな貴族も見つけたし。何事も、無駄になることなんてないよ。わたしは、そう思ってる」
クラリスが微笑むと、フィーリアはぱちぱちと瞬きをして、少しだけ頬を染めながらその顔を見つめた。
クラリスはそっと手を離し、診療バッグからカルテを取り出す。
「でも、せっかく練習してらしたのに……舞踏会、楽しめなかったのではなくて?」
クラリスはフィーリアの手首に指を添え、脈をとる。
眼瞼結膜も覗き込むが、そこはやはり、まだ白く――貧血の色をしていた。
「そう言われてみれば……結局、踊ってないな。ご飯も食べてない。……あれだけ勉強も練習もしたのに。あれはルスカの嫌がらせだったに違いないね」
「まあ……クラリスさんったら」
フィーリアはくすくすと笑っていたが、何かを思いついたようにぱっと笑顔を咲かせた。
「では、わたくしと踊りませんか?こう見えて、ダンスは得意でしてよ」
自信たっぷりに胸を張ったが――すぐに、フィーリアの肩が落ちる。
「……いまは、踊ることなんて、できませんでした」
小さな肩が沈んで、寂しそうに浮かぶ笑み。
(そんなふうに、無理して笑わなくていいのに……)
クラリスは、王族という存在の“何か”が、そうさせるのだろうと感じた。
そして――カルテとペンを、そっと置いた。
「よし。じゃあ踊ろう」
「……え?」
「私が支えてあげる。大丈夫、0歳のころからきつめの筋トレしてるから!」
にっこり笑って手を差し出すと、フィーリアは小さく驚いた顔のまま、そっとその手を取った。
「本当に大丈夫ですか?転倒などされては危険では……」
ベッドのすぐそばで眉を寄せるカレルに、フィーリアはにこりと微笑んだ。
「大丈夫よ」
クラリスはそっとフィーリアの右脇に腕を差し入れると、その小さな身体を抱え上げる。
(……軽い)
想像していたよりもずっと軽くて、クラリスは思わず目を見開いた。
(それに……なんか、すごく小さくない?)
フィーリアの背は、12歳のクラリスの胸元に届くかどうか。
狼狽えながらも、クラリスはそっと右手でフィーリアの左手を取った。
その手を握るフィーリアの瞳は、ぱっと花が咲くように輝いている。
「音楽はどうなさいますか?ワルツにします?わたくし、録音機に色々持っていましてよ!」
「録音機!?」
この世界で初めて聞く単語に、クラリスの声は裏返った。
「ええ。クラリスさんも、お持ちではなくて?」
「い、いや……はじめて聞いたよ……」
ぽかんと口を開けるクラリスと、きょとんと首をかしげるフィーリア。
その後ろで、カレルが静かに目配せをする。
「フィーリア様。その件は……」
「あら。そうでしたの……。でも、クラリスさんなら構わないのではなくて?」
「いけません。この者が“信用できる”とは限りません」
カレルが冷静に返すと、フィーリアはふくれっ面で口を尖らせた。
「わたくしは、信用しています。だって……わたくしのために、ここまでしてくれた方が、これまでにいまして?」
じとりと睨むフィーリアに、カレルは小さくため息をついてから棚の奥に手を伸ばし、何かを操作する。
すると、部屋の中にやわらかなワルツの旋律が――まるで空気から生まれたかのように、ふわりと流れ始めた。
(な、なにか仕組みがあるんだ……これさえあれば、夢の“シュヴァン王子ボイス目覚まし”が……!あと、“あれ”も……!)
クラリスが妄想に飛び立ちそうになった、その時。
「クラリスさん?」
ふいに呼びかけられ、クラリスは我に返る。
「あっ、ごめん!さあ、踊ろう。……って言っても、回ることしかできないけど!」
クラリスは照れくさそうに笑いながら、フィーリアを支え、ゆっくりとステップを踏み始めた。
流れる優雅な音楽と、ぎこちない二人のダンス。
足に力の入らないフィーリアのために、クラリスは自分の両足の上に、そっと彼女の足を乗せていた。
身体をぴたりと寄せ合い、前へ一歩、戻って、くるりと回る。まるで子どもと母親のダンスのようだった。
それでも――
「クラリスさん、ステップはそう、そうですわ!ふふ、楽しい……!」
フィーリアは、曲が流れ始めてからずっと、嬉しそうにクラリスへ指示を出したり、旋律を口ずさんだりしていた。
(本当に、好きなんだな。ダンス)
楽しそうなフィーリアを見ていると、自然にクラリスの口元もほころんだ。
「こんなに楽しいのは、久しぶりですわ……!」
「ふふ、私も楽しいよ」
クラリスがそう笑いかけたその時だった。
「あっ!」
足元で何かが引っかかり、クラリスの身体がゆっくりと後ろへ傾く。
(転ぶ……!)
とっさに、フィーリアをかばうように抱きしめる。
ポケットから何かが落ち、カシャンと硬い音を立てた。
けれど、次の瞬間――
「大丈夫ですか…っ!」
クラリスの背中を、強い腕がしっかりと支えていた。
目を向ければ、カレルが真剣な顔で二人を支えている。
「気をつけてください。フィーリア様に何かあれば、大変なことになります」
「すみません……暗くて、足元がよく見えなくて」
クラリスはフィーリアをそっと立たせ、支える手を緩める。
ぽーっと赤くなった顔で、フィーリアは見上げていたが、クラリスは気付くことなくきょろきょろと辺りを見渡した。
「あれ…?どこだろ…ペン、落ちたと思ったんだけど…」
そう言いながら、フィーリアをベッドへと戻し、再び床を探す。
「暗くて見えないや。ちょっと、ごめんね」
カーテンに手をかけた、その瞬間。
「あっ……!」
フィーリアが驚いたような声を上げた。
クラリスは手を止め、慌ててカーテンを戻す。
「あ、ごめん…なにかまずかった?もしかして、日光アレルギーとかある…?」
フィーリアは首を振って、やわらかく微笑んだ。
「違うのです。ただ、わたくし……日光に当たってはいけないと、言われているのです」
「どうして……?」
クラリスはフィーリアの足元に跪き、その顔をそっと見上げた。
フィーリアは、どこまでも澄んだ瞳でまっすぐに答える。
「だって……“白く美しい姫は、国の宝”だと、そう言われてきましたもの」
その一言に、クラリスの胸を何かが鋭く貫いた。
"白雪姫"と称される異様なまでに白い肌。
いつも閉ざされた薄暗い部屋。
栄養価の低い野菜中心の食事。
小さな手、そして伸びない身長。
(やはり貧血は随伴症状なんだ……!!もしかしたら、この"歩けない"という主訴の原疾患は…!!)
クラリスの目に、確かな光が宿っていた。




