21話 額に、熱を残して
一気に騒がしくなった大広間を抜けて、クラリスは誰もいないバルコニーへと出た。
夜風がドレスの裾を揺らし、手すりにかけた手が、ほんのり冷たくなる。
(パニエの下……信じられないくらい足震えてるや)
風が髪をそっとそよがせる。
さっきまで怒鳴り合っていた熱の残る頭に、夜気がひんやりと気持ちがよかった。
「おい、お前……やるじゃないか」
笑いを堪えて声を震わせたような"誰か"の声に、クラリスはむっと口を尖らせ振り返る。
「見てるだけなんて、ひどかったんじゃない?」
ルスカは、笑みを浮かべた口元を手で覆っていたが、こらえきれずにくつくつと笑っていた。
(……笑うんだ、こういうふうに)
クラリスがじっと見つめると、ルスカはすぐに気づいて、わざとらしく咳払いをひとつ。
「俺が口を出せば、王子の命になってしまう。お前の"理屈"に誰も耳を貸さなくなるだろう。そうなれば、いずれは元の木阿弥だ」
「……わかってるけどさ。ほら、見てよ」
クラリスは胸元をつまんで見せる。
「この素敵なドレス、胸のとこ伸びたし。ブローチ取れたし。マジで怖かったよ」
「夫人の手首も、なかなか赤くなってたがな」
ルスカは思い出し笑いを漏らしながら、クラリスの肩にそっとストールをかけた。
「……ありがとう」
クラリスはその端をぎゅっと握りしめる。
ルスカはクラリスの隣に立ち、手すりに手をかけて夜空を仰いだ。
さっきまでの音楽やざわめきが、今はほんの遠くに霞んでいる。
静かに、漆黒のマントが風に揺れる。
「……おまえ、どうしてそこまでするんだ?」
まっすぐに空を見上げたまま、ルスカがぽつりと問うた。
「フィーリアは、おまえと出会ったばかりだろう。医官たちでさえ、夫人とあそこまでもみくちゃになるほど力を尽くさなかった」
その声には、ほんのかすかな躊躇が滲んでいた。
クラリスは笑って、そっと空を仰ぐ。
「だって、わたしの患者だもん」
ひと呼吸、置いて。
「――それ以外に、理由いる?」
ルスカがはっと息を呑む。
ゆっくりと視線を空から下ろし、隣に立つクラリスへと向けた。
「おまえ……」
ルスカが何かを言いかけた、その時だった。
「やぁ、ここにいたんだね。探したよ」
凛とした、けれどどこか甘い声が空気を割いた。
二人ははっと声のした方を振り返る。
「し、シュヴァン王子…!」
にこやかな笑みを浮かべたシュヴァンと、その背後に騎士服を身に纏った、どこか不機嫌そうなカレルがいた。
シュヴァンは真紅のマントを揺らしながら、するりとクラリスの前に立った。
「さっきは、本当に驚いたよ。痛くなかった?せっかく可愛いドレス姿だったのに、可哀想に」
シュヴァンはクラリスの手を取ると、そっとその手を包んだ。
(て、手が…!!あったかいし、意外にかたい!)
クラリスはかぁっと頬を染め、一歩後ろによろめいた。
「ふふ。君は可愛いね。本当に面白い」
そっと頬に添えられる指。
その顔が、だんだんと近づいてきて――
(えっ!?これ、キスくる……!?)
思わず目をぎゅっと閉じたその額に、柔らかな感触。
それは一瞬で、すぐに離れていった。
クラリスは震えながらゆっくりと瞼を開く。
「疲れたでしょう。ゆっくり休むんだよ」
シュヴァンはくすりと笑みを残し、踵を返すと真紅のマントを揺らしながら広間へと戻っていった。
カレルは目を見開いていたが、すぐに小さく頭を下げると、その背につづく。
ひゅう、と風が吹き抜ける。
クラリスはゆっくりと手を額に当てた。
「……わたし、おでこ一生洗わない…!」
その横から、盛大なため息が響いた。
「……くだらない」
そう呟いたルスカは、けれど顔をそらしていた。
「シュヴァン王子殿下」
広間を抜け、機嫌よく歩いていたシュヴァンは、背後からかけられたカレルの声にふと振り返った。
「……まさか、あの庶民に――」
「まさか」
シュヴァンは口元をほころばせる。
「だって彼女、僕に好意があるようだったろう? 使える駒は、繋いでおかないとね。あれで繋げるなら、易いものだ」
「それでしたら、よいのですが……」
カレルは小さく安堵の息を吐いた。
シュヴァンは歩を止め、少し顔を伏せると、すっと目を細める。
「僕はね、信用できる手駒を増やしたいんだ。たとえそれが、誰かのものだとしても」
その脳裏に、さきほどのルスカの顔が浮かぶ。
(唖然としていたね……いや、あれは、怒り……?)
くすりと、喉の奥で笑う。
そして、くるりとカレルの方へ振り返ると、肩にぽんと手を置いた。
「君だってそうさ、カレル。今はフィーリアに貸しているけれど……いずれは、戻ってきてもらわないと困るよ」
「こ、光栄にございます……」
思わず背筋を伸ばし、深く頭を下げるカレル。
だがその背を見送りながら、彼はふと、眉をひそめた。
(……こんなにも、王子殿下が上機嫌なのは……滅多にない。何も、起きなければよいのだが……)
ざわめく胸を押さえ、カレルは静かにその場を後にした。




