18話 踊る前に死にそう
「なるほど。そういうことになっていたんだね」
湯気の立つ紅茶を口に運びながら、シュヴァンは目を細めた。
「食事による貧血が、歩けない直接原因ではないと思います。ですが、一因である可能性はあります」
クラリスもまた、カップをそっと傾ける。
(とんでもなく高そうなカップしかり、この紅茶しかり……王族って怖い……)
ふわりと香る、前世でも経験のない芳香に包まれ、思わずクラリスはブルッと震えた。
空腹に紅茶が沁みる。
「マリアンヌ夫人か。やっかいですね」
隣でカップを置いたルスカが、ため息をつく。
その様子に、シュヴァンがくすりと笑った。
「そうだね。母上の"オトモダチ"だからね…」
伏せられた睫毛に、指先に触れる顎――
(顎に添えた指も、睫毛も……長い……ッ!)
クラリスが鼻息荒くした時。
「いたっ」
びしっ、と額に小さな衝撃。
クラリスが顔を上げると、横のルスカがデコピンのポーズで構えていた。
「見過ぎだ。見方も気持ち悪い」
「なんか扱い酷くなってない?」
「仕方あるまい」
二人が睨み合っていると――
向かいの席からくす、と笑い声が漏れた。
「なんだか楽しそうだね。そんなルスカ初めてみたよ」
「楽しくないです。不快なばかりです」
「ルスカ、わたしだって痛いばかりだよ?」
シュヴァンはふたりを眺めながら、楽しげに微笑み、ゆっくりと告げた。
「うん。それじゃあ…5日後の舞踏会に、クラリス嬢にもでてもらうことにしよう。ルスカ、エスコートよろしくね」
がしゃん。
クラリスのカップが、控えめながらも見事な音を立てた。
「クラ……ほんとにやるの?」
「やるよ。お妃様とマリアンヌ夫人が揃う場所は、そこしかない」
診療所の隅のテーブル。
クラリスは朝から目の下にクマをつくり、ぶつぶつ呟きながら本を読み込んでいた。
──『俺がエスコートするからには、最低限の課題はこなしてもらう。恥をかきたくないからな』
そう言ってルスカが己のやけに大きな鞄から引っ張り出したのは……
本の、山、山、山。
クラリスの目の前に積み上げられた本の塔に、彼女は思わずごくりと息を呑んだ。
──『マナーの本。この国の歴史の本。舞踏の教本。
……明後日までに全部、覚えてもらう』
満足げに微笑んだルスカの顔が思い出される。
──『まさか、できませんなんて言わないよな?俺は、当然全て覚えている』
「……あれ、絶対仕返しだよ。
わたしの台詞、まんまだったもん」
クラリスが呟くと、向かいに座るヴィルは苦笑を浮かべながら、いちばん上の本をぺら、とめくってすぐにそっと閉じた。
「今日はルスカ王子、公務なんでしょ?これ、今日中に全部……?」
「しかも、お昼はフィーリアとランチ。その後はドレスの採寸。さらにダンスの指導だって。
もうね……詰んでる」
「お前が、ダンス……ねぇ……」
隅で話を聞いていたミュラーが、ふっと吹き出した。
「アヒルの体操だな」
「うるさいなぁ!からかわないでください!」
クラリスは、ヴィルがそっと差し出したコーヒーを一気に飲み干す。
「やる。やるったらやる!そしてルスカの鼻を明かしてやるんだから!!」
「……目的変わってない?」
ヴィルがぽつりと呟いた、その時――
バタン!
診療所の扉が勢いよく開く。
「クラリス嬢。お迎えに上がりました」
「えっ!?もうそんな時間!?」
クラリスは慌てて本の山を抱えてカバンに詰め込み、診療所を飛び出した。
「まあ……あの舞踏会に、クラリスさんも?」
相変わらず薄暗い部屋の中。
クラリスは、最後の一口の野菜を口に運んでいた。
目の前のフィーリアは、まんまるな瞳をさらに大きくし、楽しそうに笑みを浮かべている。
「それで、マナーを指摘してほしいと?
でも、クラリスさんのカトラリーの使い方は問題ありませんし……ああ、でも少し、姿勢が気になりますわ」
にこりと微笑みながら、フィーリアはクラリスの肩をそっと指差した。
「たしかに、猫背かも。ありがとう、フィーリア」
クラリスは背筋をしゃんと伸ばす。
(こうして見ると、さすがは王族。
食事の仕方はもちろん、姿勢も所作も完璧)
クラリスがじっとその姿を見つめると、フィーリアはふわりと微笑んだ。
(小さいし、可愛い……)
――その時。
クラリスの胸を、ちくりと刺すような違和感が走った。
(……七歳って、こんなに小さかった?
座っているところしか見てないから?それとも、身体のほとんどが脚だったりする……?)
「あのさ、フィーリア。もしかして――」
言いかけたその瞬間。
コンコン、と扉がノックされ、カレルが現れる。
「クラリス嬢。次の予定の時刻です」
「えっ!? もう!?」
クラリスは慌てて水をガブリと飲み――ごくり、と喉に詰まって咽せた。
「クラリスさんが出る舞踏会、わたくしも行きたかったですわ……
明日もお昼、来てくださいますよね?クラリスさん」
眉を下げて微笑むフィーリアに、クラリスは咽せながらも、ぐっと頷いた。
(わたしが――
また必ず、舞踏会にでもなんでも行けるようにしてみせるから)
診療バッグを手に取り、クラリスは呆れた様子のカレルの後ろに続いた。
それから、慌ただしく時は流れていった――
何度もマナー講師に手を叩かれ、
コルセットの締め上げに日常生活すらままならず、
歴史の本は書き込みで真っ黒になり、
「ダンスの練習」と称しては、何度も講師の足を踏みつけた。
寝不足、筋肉痛、謎のノートアレルギー。
間に挟まれる野菜だけのランチ。
それに伴う空腹感。
クラリスは心の中で何度も思った。
(……脱過労死のはずでは?死なない?)
そして――
気づけば、その日は来ていた。
あの、きらびやかな舞踏会の夜が。




