15話 初めての約束
そうして、少し時間が経ち――
部屋のドアが開き、クラリスが中から姿を現した。
「どうだったの?随分長かったね?」
ヴィルが心配そうに声をかけると、クラリスはぐっと親指を立てた。
「明日のランチの約束してきた!」
「……おまえ、なにしてたん?」
ミュラーのぼやきは、ドアが閉まる音にかき消された。
診療所に戻った四人は、机を囲むようにして頭を突き合わせていた。
「……ってなわけで、神経学的には異常なし。“歩けない”って訴えに関係してるとしたら、せいぜい足の筋力が低下してることくらい。でも――ひとつだけ、引っかかることがあって」
「引っかかること?」
ヴィルが顔を上げ、メモを取る手を止めた。
「多分、重度の貧血があるんじゃないかなって。年齢的に血便は考えにくいし、ルスカのことだから……もう“顕現”で視たんでしょう?」
ルスカは腕を組んだまま、淡々と頷く。
「腫瘍や出血病変など、視認できる異常はなかった」
「さすが尻が軽い」
「せめて手が早いだろう。表現を改めろ」
ぽす、とルスカが手近な紙の束を丸め、クラリスの頭にぽこ、と軽く叩きつけた。
クラリスは頭を押さえながらも、どこかうっとりとした笑みを浮かべる。
「食事のことも聞いてみたけど――」
『皆様とそう変わらないと思いますけれど…』
(あの時のフィーリアちゃん……可愛かったなぁ……)
思わず頬が緩んだ瞬間、またしても「ぽすっ」。
今度は明確な“警告”の音だった。
「いてっ。……いや、ちゃんと聞いたよ?」
クラリスが頭をさすりながら小声で抗議する。
「“患者の言葉は、当てにならない。自分の目で確認しろ”って、昔のボスが言ってたの。だから、ランチをご一緒する約束をしてきたってわけ」
「なるほどな。王族の食事……そりゃ豪華なんだろうなぁ」
ミュラーがどこか羨ましげにぼやくと、自然と全員の視線がルスカへ向かう。
彼は軽く咳払いをひとつ。
「王族の食事は、専属の栄養師によって厳格に管理されています。兄上は魔力向上のため、毎食大量の肉を摂取している。……俺も同様ですね」
さらりと告げたその言葉に、クラリス・ヴィル・ミュラーの三人は同時に天を仰いだ。
なんせ――肉は高い。
庶民にとっては、祭りの日のご馳走だ。
「はぁ〜……でもいくら肉が食えても、王族は俺には無理だな。マント、あれが無理」
ミュラーは手を頭の後ろで組み、ふうっと息を吐いた。
「そんな理由ですか?」
ヴィルが思わず笑う。
「一番の理由だ。吸い殻落としたら、マントごと燃えそうだしな」
「……なんでまだ吸うつもりなんですか?もう一生吸えませんよ」
「……お、おう。そうだなヴィル。そうだ」
流れるようなやりとりに、一瞬ぽかんとしていたルスカだったが、すぐにふっと目を細めて笑った。
(そうやって笑っていれば、年相応の男の子なのに。ほんと、生まれって大変だ)
クラリスはふぅ、と小さく息を吐き、肘をつく。
ひとつ。気になっていることがあった。
『兄上は魔力向上のため、毎食大量の肉を摂取している』
(摂取、ね……。食事のこと、そんな言い方……するかな?)
クラリスは目を伏せた。
(嫌な予感がするなぁ……きっと、簡単な話じゃない)
肩をすくめて、気を紛らわすように首を振る。
(シュヴァン王子、ほんとに毎食お肉食べてるなら…あんな可愛い顔してすごいのかな……でかそうよね……肝臓)
頬を染め、知らぬ間に笑みが溢れていたクラリスの頭を、3回目の「ぽこ」が襲った。
その夜。
満月の光が、静かに城を照らしていた。
窓際の椅子に、フィーリアはひとり腰かけていた。
カーテンは開け放たれ、夜気とともに、白い月光がゆるやかに部屋を満たしている。
そのとき、
コン、と小さなノック音。
続けて扉が開かれ、真紅のマントが月に照らされて揺れた。
「ふふ、お兄様ですね?」
フィーリアがゆっくりと振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべたシュヴァンと、その背にカレルの姿があった。
「具合はどうだい?フィーリア」
「変わりありませんわ。でも今日は、とても素敵なことがあったんですの」
にこにこと両手を合わせ、首を傾げるフィーリアの隣で、シュヴァンは静かに膝をついた。
「お兄様が紹介してくださったクラリスさん。……わたくし、あの方、とても気に入りましたの」
「彼女は医者見習いだろう?何かあったのかい?」
「ええ。でも……あの方、わたくしの名前を呼んでくださいました。"フィーリアさん"って。そして――明日、ランチをご一緒にと、誘ってくださったのです。そんなこと、初めてですから」
フィーリアの頬が、ほんの少し染まっていた。
シュヴァンは目を細め、そっと彼女の手を取る。
「それは……よかったね。たとえ医者として使えなかったとしても、話し相手には、いいかもしれないね」
「シュヴァン王子殿下、それは……」
背後のカレルが、わずかに声を荒げた。
「おや、カレル。なぜそんなことを言うんだい?」
「……平民です。姫様に悪影響を及ぼしかねません」
不穏な静けさが、部屋に落ちた。
シュヴァンとフィーリアは、そっと目を合わせたのち、視線を伏せる。
(食事も、生活も、睡眠時間さえも。
そして、友人すら……すべてを制限されて生きてきた)
それでも。
シュヴァンは再び目を上げ、フィーリアの手を、ほんの少し強く握った。
「……明日のランチ、楽しめるといいね」
「……ええ」
二人の唇に、そっと微笑みが浮かんだ。




