12話 漆黒悪態王子と大声クソ女
井戸を訪れた翌朝。
診療所の隅の机で、クラリスとヴィルは肩を並べていた。
ふたりとも、手元の書類をぱらぱらとめくりながら、なんとなく会話を交わしている。
「ねえクラ…ルスカ王子、本当にくると思う?」
「うーん。どうせ来るなら、あの金髪の王子様がいいな〜。…あの人、目に優しいじゃない?」
クラリスは頬杖をついたまま、うっとりと宙を見上げる。
ヴィルは苦笑しながら、手元の紙をめくった。
そのときだった。
バァン!!
診療所の扉が勢いよく開かれる。
ヴィルがびくりと肩を揺らす。
扉の向こうに立っていたのは、昨夜と同じ漆黒のマントに身を包んだ少年だった。
その碧い瞳が、ゆっくりと室内を見渡している。
「ほ、ほんとに来た……」
ヴィルの声が、誰にも聞かれないほど小さく漏れる。
少年――ルスカは、まずクラリスとヴィルに視線を流し、それから奥の診察椅子に座っていたミュラーに目を留めた。
ミュラーは「やば」とでも言いたげに、ぎくりと腰を浮かせる。
ルスカは何も言わず、つかつかと歩み寄ると、そのままミュラーの前に立った。
そして――
深々と、頭を下げた。
「今日から、よろしくお願いします」
その一言に、室内の空気がぴたりと静止する。
ミュラーは一瞬目を見開いたが、その迫力に圧されたのか、なぜか反射的に、こくこくと首を縦に振ったのだった。
幸いにして患者の来ない朝。
四人は、診療所の片隅で椅子を輪にして並べていた。
背筋をぴっと伸ばしたルスカが、真面目に頷く。
「あー、じゃあ……一人ずつ自己紹介していくか。……なあ?」
ミュラーが妙に気まずそうに、クラリスたちに視線を向ける。
(……気まずい新歓コンパか?)
クラリスは、ごくりと唾を飲んだ。
最初に口を開いたのは、やはりルスカだった。
「ルスカ・パストリアです」
……簡潔。以上。
かえってその人となりを表しているような、無駄のなさだった。
クラリスとヴィルは顔を見合わせる。
「パン屋のクラリスです」
「宿屋のヴィルです」
「ミュラーだ」
沈黙。
……妙な空気だけが、残った。
(いや、この空気感は……オフ会…!!)
クラリスの背中を汗が流れていく。
なんとなく居心地の悪い沈黙が続く中、ルスカがミュラーに向かい口を開いた。
「わたしが王子という立場上、接しにくいかとは思いますが、他の2人のようにお願いします」
その目はどこまでも真っ直ぐで、冗談の気配は微塵もなかった。
ミュラーはぽりぽり、と頭を掻く。
「あー…じゃあ…こいつらと掃除からやってもらおうか…?」
「はい」
ルスカが立ち上がると、クラリスたちもしぶしぶたちあがった。
待合にはクラリス、ヴィル、そしてルスカ。
ヴィルは箒とモップを抱えたまま、しばし迷ったあと、箒をルスカに手渡した。
「……これはなんだ? どうやって使う」
「えっ……」
クラリスとヴィルは顔を見合わせる。
「なんかさっきと雰囲気違いません?」
「当たり前だろう。お前たちは“師”ではない」
ルスカはふん、と息を吐くと、クラリスが床を拭いている様子をじっと観察し、ぎこちなく箒を動かし始めた。
「掃除の順番が……」
ヴィルはひとり、むずむずと口を動かしていた。
しばらくして、クラリスが何気なく問う。
「で、結局なにが目的で来たんです? まさかほんとに勉強しに?」
「そうだが。……それにしてもお前は、無駄口が多いな。大声女」
「お……!?」
クラリスは目を見開いた。
ルスカはヴィルのモップをひったくると、勢いよく床をこすりはじめる。
「先に言っておくが、“前世”がどうのという話は一つも信じていない。
昨日の井戸の件も、師であるミュラーの指導によるものと見ている」
(こいつ……いい度胸してるな)
クラリスはニヤリと笑った。
「俺は一刻も早く知識を身につけなければならない。わかったらさっさと手を動かせ」
ルスカは吐き捨てるように言い放った。
クラリスはきっとその背をにらむ。
(ふふ……王子だろうが、城下に降りてきたからにはただのクソガキ。上下関係ってものを、しっかり叩き込んでやる……!)
その瞳に、怪しげな炎が灯った。
診察室の隅。
いつもならクラリスとヴィルが勉強に使っている場所に、今朝はもう一人。
ルスカが、そこに座らされていた。
彼の目の前の机には、ノートの山。
すべて、ヴィルが手書きで仕上げた人体の骨格図だった。
「本気で学ぶつもりなんですよね?だったらまず、これ。全部の骨の名前を覚えてもらいます!」
クラリスは、どこか誇らしげに胸を張る。
「ぼ、僕が……勉強したときに……描いたやつです。王子は、僕みたいに“見えない”でしょうから……線が汚くて、申し訳ないですけど……」
クラリスの背後からそっと覗き込みながら、ヴィルがぱらぱらとノートをめくる。
「ヴィルはね、何の資料も文献もない状態から、独学でこれを描き上げたんです。すごいでしょ?」
クラリスの言葉に、ルスカはノートをゆっくりと視線でなぞる。
左から右へ、右から左へ。
まるで兵の並びを見定めるように、一冊ずつ、じっと。
「――ということで、まずは全部、覚えてもらいます!」
クラリスが声を張ると、
「クラ……それ、さっきの鬱憤ぶつけてない……?」
ヴィルが小声でぽつりと呟いた。
クラリスはにやりと笑って応える。
「まさか、できませんなんて言いませんよね?わたしは、当然全て覚えていますよ」
その様子に、ミュラーがソファの奥からぼそっと呟いた。
「……なんか、巷で流行ってる悪役令嬢みてぇだなお前……」
そのときだった。
ルスカが――笑った。
「……ククク……」
バンッ、と机に手を叩きつける。
「いいだろう、大声クソ女。1週間で全部、覚えてきてやる」
彼は立ち上がり、真正面からクラリスを睨みつける。
その気迫に、クラリスも一瞬だけ目を見開いたが――
すぐに笑って、ノートの山をどさっと押し出す。
「期待してますよ、悪態王子」
ふたりがバチバチと火花を散らすその横で。
「……お前ら、気が合いそうだな……」
隅っこの椅子で小さくなっていたミュラーが、誰にともなくつぶやいた。
それから、一週間が経った。
あの日、大量のノートを持ち帰って以来、ルスカはぴたりと姿を見せなかった。
「ねえクラ……ルスカ王子、また来ると思う?」
「うーん。来ないんじゃない?それに、どうせ来るなら金髪の王子様がいいな〜。目に優しいし」
「なんかその会話、一週間前にも聞いた気がする」
ヴィルが苦笑いを浮かべた、まさにその時――
バァン!!
診療所の扉が勢いよく開いた。
漆黒のマントが風を巻き上げる。
目の下にくっきりとした隈、ぎゅっと寄せられた眉。その少年は、たしかに、そこに立っていた。
「……覚えたぞ、大声クソ女」
「なっ……」
ルスカはズカズカと歩み寄り、クラリスの目の前に立った。
その視線は真っ直ぐ、挑むように彼女を射抜いている。
「口先なら、誰だって言えますからね……じゃあ、確認しましょうか」
クラリスが自身の身体を指差しながら、出題していく。
が――
「腓骨!」
「立方骨!」
「有頭骨!」
ルスカは一拍の間もなく、食い気味に全てを答えた。
しかも、正確に。
(こ、こいつ…!わたしが半年かけて覚えた骨の名前を一週間で覚えた…だと…!)
クラリスはよろよろと後ずさる。
「クラ、出題に悪意あるよね…?」
(悪意しかなかったのに……!まさか真正面から叩き潰されるとは……!)
ヴィルがそっと囁いたが、クラリスは目を見開いたまま固まっていた。
「どうだ。わかったか。この俺にかかれば、こんなもの――」
「次は臓器です」
「……は?」
クラリスは立ち上がり、腕を組んだ。
顎をくいと上げると、ヴィルが慌てて本棚からさらにノートの山を運び出す。
「まさかここまでとは……ですが、臓器までマスターできたら合格でしょうか。ちなみに、私は当然、覚えてますよ?」
鼻で笑うように言い放つクラリス。
ルスカはその新たなノートの山を見つめ、ふんと鼻を鳴らした。
「……いいだろう。こんなもの、俺にかかれば赤子の手をひねるより容易い」
そう言うと、ルスカは再び大量のノートを抱え、高笑いを浮かべながら診療所をあとにする。
訪れた静寂。
「……俺のこと、忘れてない?」
ミュラーの寂しげな独り言が、虚しく響いた。
それから、半年が経った。
診療所の一角。
並んだ机に、クラリスとルスカがいつものように頭を突き合わせていた。
「クラ、さっきの患者はなぜ神経に潜むものを顕現させたんだ?」
「この帯状疱疹ウィルスはね、神経節に隠れてるんだよ。で、免疫が落ちると再活性化して皮疹になるの。……ルスカの能力、ほんと便利だよね〜」
「ふむ。なるほど……おい、俺を道具扱いするな。それでクラ、皮疹の見分け方はあるのか?」
「ええと、見分け方はね……」
ギャーギャーと騒ぎながらも、二人の手は止まらない。
「……なんだかんだ、仲良しだよね?」
その様子を見ていたヴィルが、ポツリと呟く。
「そうだな〜。負けるなヴィル、俺はお前派だ」
「……な、何の話ですか」
新たな仲間を加えた診療所には、今日もまた、悩める患者がその扉を叩こうとしていた。




