1話 王国の名医と死の呪文
本作はフィクションです。登場する疾患名や医療行為は現実の医療知識を参考にしていますが、実際の診断・治療とは異なります。現実の患者様や医療機関とは一切関係ありません。
パストリア王国。
王城を囲むように水路が巡り、小舟がすれ違うたびに水面がきらめく。
岸辺には花と笑顔が溢れ、歌声や呼び声が途切れることはない。
絵画のようなその光景を、城の高窓から見下ろせば、誰もがこう口にしてしまうだろう。
――「平和だ」と。
その一言を、王城の広間でやらかしたのは、金髪碧眼の姫、フィーリアだった。
「今日は、随分と平和ですわね?」
鈴のような声に、場が凍る。
紙をめくる音も、茶を注ぐ音も、ぱたりと止む。
動きを止めた1人、クラリスはぎぎぎ、と音がなりそうなほどゆっくりと首を上げ、目の前に座る少女を恨めしげに見つめた。
「フィー…言ってしまったね…?禁断のワードを…」
「えぇっ?わたくし、事実を述べただけ、ですけれど…?」
フィーリアは、その大きな瞳を丸く見開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返し小首を傾げる。
「その言葉はね、脱過労死っていう観点からはね、“死の呪文”なんだよ。みててごらん、すぐに…」
クラリスはじとっと広間の入り口にある大扉を見つめる。
その時。
バァン!!
「先生!!助けてくれ!!妻が、苦しそうなんだ!!」
轟音と共に大扉が弾け飛び、熱気と共に男が飛び込んできた。
背にはぐったりとした女。
長い髪は乱れ、額には玉の汗。
男の顔は蒼白で、息も荒い。
「ほらね…」
クラリスは短く呟くと立ち上がり、口布を引き上げた。
その背後の青年ヴィルと、ルスカ王子は目を見合わせ、同時に歩を進める。
「このベッドに寝かせて?」
クラリスは男に声をかけながら、女の手首をそっと握る。
「呼吸促迫、橈骨は触れてるけど湿潤あり」
クラリスの指示に、男は必死の足取りで女を運び、中央のベッドへ横たえた。
ベッドの周りにいたヴィルとルスカも手を添える。
「胸が…苦しいの…」
か細い声。クラリスはすぐに聴診器を胸に当てた。
「大丈夫ですからね」
女性のすぐそばにしゃがんだフィーリアが、その手をそっと握り優しく微笑んだ。
「肺かな?僕が見ようか?」
ヴィルが小さく声をかけるが、クラリスは首を横に振る。
「いつ発症した?どんなふうに痛む?」
「20分くらい前…ふ、踏みつけられているみたい…」
「ほかに痛いところは?」
「あ…肩…」
クラリスが顔を上げると、ヴィルは小さく頷いた。
「心臓の動きからお願い」
「うん…」
ヴィルはそっと目を閉じ、女性の肩に右手を添え、左手の手のひらを天井へ向ける。
ぱぁ、と光が溢れ、左手の手のひらの上には心臓が浮かび上がり、脈打っていた。
ルスカが覗き込み、
「…ここ、動き止まってるな」
と低く呟き、心臓前面を指差した。
クラリスは頷くと、心臓を走る血管を指差した。
「前壁梗塞だね…左冠動脈にうつって前下降枝いける?」
「やってみる」
ヴィルが眉を寄せると、冠動脈内部が浮かび上がる。
「…えーっと、seg8に血栓が詰まってるね…」
「オーケーヴィル、ありがとう」
ヴィルが手を離すと、映像は消えた。
代わり様にクラリスが女性の胸にそっと手を当てる。
「今治すからね…」
静かに目を閉じると、その手から光が漏れる。
次の瞬間。
「あれ…痛くない…」
女は瞬きを繰り返し、男の手を探すように握った。
男は嗚咽をこらえきれず、ただ頷いた。
「よかった」
クラリスは優しく笑みを浮かべた。
「さすがはお姉様ですわ!」
フィーリアがクラリスの首に手を回して抱きつき、クラリスは息をつき笑う。
その瞬間――
バァンッ!!
再び大扉が弾け、怒号が飛び込む。
「先生!うちの妻を…!」
「バカ言うな、会長が先だ!」
「そうだ、わしを誰だとおもっとる!庶民なんか後回しにしろ!」
扉口で取っ組み合いになりかけた二人を、カレルが無言で割って止める。
若い女を背に抱えた男と、大の大人二人に支えられた怒鳴る老人――混沌の見本だ。
「おそるべし、死の呪文…」
「ごめんなさいお姉様…」
フィーリアはそっと手を離し、おずおずとクラリスから身を離した。
クラリスは一瞬だけ視線を走らせ、若い女に目を留める。
苦しそうに汗を流し、両腕で腹を押さえている。
「ルスカとアニー、男性行ける?」
「あぁ…」
ルスカは眉を寄せ、アニーは穏やかに笑みを浮かべながら老人とその付き添いの方へと歩みを進める。
クラリスはヴィルとともに女性をベッドに横たえさせ、そっと手首に触れる。
「どうしたの?」
「お腹が、いたくて…」
クラリスはそっと女性の服の裾をまくり、腹部に手を当てる。とたんに女性が呻き声を上げた。
「かたいね…いつから?妊娠してる?」
「朝から…妊娠、してない」
「そう」
クラリスが左下腹部を押すと、特に女性は顔を顰める。
「ヴィル、子宮、卵管、卵巣みれるかな?」
「了解」
ヴィルはそっと女性の腕に触れ目を閉じる。
光が溢れ、左手には血溜まりに沈む子宮が描写されていた。
フィーリアは小さく息を呑み、カレルがその肩を支える。
「腹腔内は血がたまってる。卵管は腫れたりはしてないかな…左の卵巣は血塗れみたい。でも血は止まってるんじゃないかな…」
「卵巣出血でよさそうね。さすがはヴィル、わたしの歩く腹腔鏡ね!」
「相変わらず意味わからないけど…」
目を開けたヴィルにクラリスがにこりと微笑むと、ヴィルの頬が赤く染まり、さっと目を逸らした。
「経過観察ね。ミュラー先生!鎮痛頼めますか?」
「あいよ。おじさん使いが荒いねぇ…」
少し離れたところに座って様子を見ていたミュラーはゆっくりと腰を上げ側の椅子にどかっと腰掛ける。
「卵巣出血で周囲の腹膜に炎症が波及してる。そこだけお願いしたいです」
「はいはい。やらせていただきましょう」
ミュラーは女性の腹に手を当てるとちかっと光が走る。
次の瞬間。
「あ…痛くない…」
女性は涙を浮かべお腹をさすった。
女性の夫が涙を浮かべ、その肩に顔を埋める。
「よかった。出血が増えないか、少し様子を見ましょうね」
クラリスは優しく微笑むと、すぐさま立ち上がり隣のベッドへと足を進めた。
「遅い!なぜわしが庶民の次なんだ。早く治療しろ!」
隣のベッドからはずっと喚き声が響き続けていた。
「ルスカどう?」
「熱がある。呼吸器症状、右呼吸音ごろごろ、見ての通り、元気な肺炎」
聴診器をさげ、ぶすっとふくれたその様子に、クラリスはくす、と笑みを浮かべた。
「顕現いける?」
「もうしてある。肺炎球菌」
「さすが」
ルスカの指差す先を見ると、老人の右胸部に光るものとその中に可愛らしい細菌像が浮かんでいる。
「さらにいうと、もうあれやっといた」
「手が速いな〜」
「変な言い方するな」
ルスカはふん、と腕を組む。
クラリスはちらりと老人の胸元を見たあと、けらけらと笑みを浮かべた。
「身体どうですか?あとはよくなるばかりですよ」
「……なんかしたのか!?よくわからんぞ…?」
「ふふ。悪さしてた細菌消えましたから。でも炎症残ってるから静かにじっとしててくださいね」
クラリスはにこ、と笑みを浮かべると立ち上がった。
「これで3人とも落ち着いたかな。まったく、フィーの死の呪文のせいで過労死しそう」
クラリスは笑みを浮かべ、さらさら、と患者それぞれの名前が書かれた紙にペンを走らせていく。
その時、ふっと紙に影が落ちた。
「姫様のせいにしないでいただけますか?」
きり、とした声でクラリスに声をかけたのはカレル。
「相変わらず熱いねぇ…」
クラリスが肩を揺らすと、カレルは目を伏せ、こほんと咳払いをひとつ。
「…忠誠を誓っておりますから」
「はいはい」
「それに、わたしは信じておりません。そのような、死の呪文だとかなんとか…」
ぴしり、と空気が止まる。
クラリスの視線がじわじわとカレルに向けられる。
「あっ!言ったね?とどめ刺したね?!」
クラリスが絶望に満ちた顔でちら、とカレルに視線を移した、その時。
バァン!!
勢いよく大扉が弾け、冷たい風と共に怒鳴り声が飛び込んだ。
「先生!!夫が!夫が倒れて!!」
豪奢な衣をまとったふくよかな女性が泣き叫び、その背後では数人の男たちがぐったりした男性を支えている。
頬は蒼白、唇は紫色。息は浅く、掠れている。
「ほら…」
クラリスはペンを置き、困惑混じりの視線をカレルに送る。
カレルはバツが悪そうに目を逸らした。
「過労死したら、カレルのせいだからね…」
言い捨てると、クラリスは立ち上がり、男のそばに駆け寄った。
男は額に汗を滲ませ、低く呻く。
「いたい…頭がいたい…」
「意識はあるね…呼吸脈拍は問題なし、ゆっくりベッドへ。なるべく刺激を与えないで」
クラリスが指示すると運んでいた男たちが顔を見合わせ、ゆっくりと横たえさせた。
クラリスはてきぱきと問診と身体診察を終えると、ヴィルにちらと目をやる。ヴィルはすでに準備万端と言った様子で両手を患者に添えていた。
「頭アキシャル(軸位断)いける?」
「うん…」
ぱぁ、と柔らかな光が溢れ、掲げた左手のひらに透明な脳の輪切り像が、上から下へと流れる。脳と脳のその間を淡い赤が満たす。
「SAH(くも膜下出血)だ…」
後ろから覗いていたルスカが小さく息を呑む。
「鎮痛で行くか?」
「いや…この分布なら――フィー、カレル、出番」
呼ばれたフィーリアは花が咲くように笑い、カレルは少し視線を泳がせる。
「発症は30分前だそうだ。頭部を1時間前まで巻き戻せる?」
「もちろん!」
フィーリアの掌から柔らかな光が広がり、患者の頭部を包む。空気がわずかに揺れ、温度が下がる。
その瞬間。
「あれ?いたくない…」
男は瞬きを何度か繰り返す。
「さすがフィー!じゃあヴィル、今度は血管だけ見せて?左MCA(中大脳動脈)分岐部あたりじゃないかと思うんだ」
クラリスがフィーの頭を撫でながらいうと、再びヴィルは力を発揮させる。
左手掌に浮かんだ血管には、一部に大きな瘤があった。
クラリスは嬉しそうにぴょんと飛び跳ねる。
「あたりだね!じゃあカレル、この根本を塞いでくれるかな」
「わたしは姫様の御命令しか聞きません」
カレルはむっと目を逸らす。
するとフィーリアはにっこりと微笑んで口を開いた。
「命令よ、カレル」
「…仰せのままに」
カレルが掌を掲げると、ばちりと閃光が弾け、空気が焦げる匂いがした。
すかさずヴィルが映すと、瘤の根本が閉じ、先端がしぼんでいく。
「よしフィー、戻してみて?」
「はい!」
フィーリアが手をかざすと、男を包んでいた光が手に吸い込まれ、部屋の空気が一気に軽くなる。
全ての光が収まった時、男はしばらく瞬きを繰り返していた。
「どう?」
クラリスがにっこりと微笑んでその顔を覗き込む。
「痛みが、消えた…」
男の言葉に、付き添いの者たちが歓喜の声をあげ一斉に駆け寄った。
「よかった」
クラリスもまたその様子に笑みを浮かべる。
「さすがはお姉様です!」
フィーリアは嬉しそうにクラリスに抱きつき、クラリスも応えるようにぽんぽんと頭を優しく撫でた。
その様子をカレルは複雑な顔で見守る。隣でアニーが、そっとその肩を叩いた。
ふとクラリスは頭に衝撃が走り、ふ、と見ると不満げなルスカはデコピンの構えだ。
「おい、さっきの後で教えろ!」
「別料金でね」
クラリスはふにゃ、と笑みを浮かべる。
「もう、またそんなこと言って…」
ヴィルはクラリスの頬を軽くつねった。
「だってがんばりすぎたら、また志半ばで死んじゃうでしょ?!今世こそは大金持ちになって、豪邸のプールサイドのチェアに寝転んでカクテル飲んで毎日暮らすって決めたんだから!!」
「……その前に、また“死の呪文”を誰かが唱えなければいいけどな」
ルスカのぼそっとした一言に、広間の空気が一瞬ぴんと張る。
誰も口には出さないが――この顔ぶれがこうして肩を並べるようになったのは、つい最近のことだ。
あの日、あの場所で起きた出来事がなければ、きっと今もバラバラだっただろう。
クラリスは患者の名を書き終えると、ふと窓の外を見やった。
青く澄んだ水路のきらめきに、一瞬だけ遠い日々の光景が重なる。
(……あれは、忘れられない日だった)
これは、のちに医療大国として名を馳せることになるパストリア王国の医療チームリーダー、クラリスの奮闘記。
そして――物語は、少しだけ過去へとさかのぼる。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
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