日記
この物語は、偶然の出会いと小さなノートをきっかけに、誰かの「見えない世界」に触れた青年の話です。
第1章 はじまりの席
尾川実は、喧騒から少し離れた裏通りにあるカフェ〈山猫堂〉が好きだった。
木の扉には真鍮の猫の取っ手がついていて、中に入るとコーヒーの香りとスロージャズが静かに漂っている。店内の照明は控えめで、窓際の席だけが自然光に満ちていた。
大学三年。就活の準備やゼミ発表に追われながらも、実はできるだけこのカフェに通うようにしていた。
理由は、静かだから。ただそれだけだった。
自分の部屋はワンルームで、壁一枚隔てた隣人のくしゃみが聞こえてくるほどだった。友人たちと過ごす時間も楽しくはあったが、どこか疲れる。無駄な会話に笑うより、ひとりでコーヒーを飲みながらノートを開いていた方が、心が落ち着いた。
その日も、いつものように〈山猫堂〉の奥の窓際の席に座り、コートを脱いでノートを開いた。
内容は英文学の講義で扱う予定のトマス・ハーディの小説『テス』についての下書き。筆記具の音だけが静かに響く午後だった。
ふと顔を上げると、外では小学生くらいの女の子が、盲導犬を連れた女性の手を引いて歩いていた。
白い杖ではなく、犬。ゆっくりとした足取りに、女の子が「段差あるよ」と小声で伝えていた。
実はその光景を、なぜか目が離せずに見つめていた。
どこかで見たような、けれど、どこでも見かけるような風景だった。
——誰かと誰かが、世界を分け合って歩いている。
思わずスマホを取り出し、メモにこう書いた。
「人は見えない世界を、誰かに伝えるために言葉を使うのかもしれない。」
その日、帰り際にうっかりノートを忘れてしまったことに気づいたのは、電車に乗ってからだった。
急いで引き返そうとしたが、店はすでに閉店時刻を過ぎていた。
「まあ、明日でいいか」と自分に言い聞かせ、眠りについた夜。
それが、全ての始まりになるとは思っていなかった。
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第2章 見知らぬ返事
翌日の午後、講義を終えた実は真っ直ぐ〈山猫堂〉へ向かった。
店の扉を開けると、カウンターの奥でマスターが手を振った。
「昨日のノート、預かってるよ」
そう言って出されたのは、実が置き忘れたままの大学ノートだった。何の変哲もない、表紙に名前も何も書いていないB5サイズのノート。
「誰かが届けてくれたのかもしれないね。夕方の閉店間際だったけど、カウンターの上にそっと置いてあったよ」
実は礼を言い、いつもの席に座ってノートを開いた。
自分が最後に書いたページの次に、見慣れない文字が綴られていた。
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こんにちは。ノート、勝手に読んでしまってごめんなさい。
でも、あなたの文字がとても丁寧で、綺麗だったから、どうしても気になってしまいました。
私はこのお店に、ときどき来ています。
親の介護の合間とか、少しだけ息抜きしたくなったときに。
実は、母が目が見えません。
父はいなくて、ふたり暮らしです。
小さい頃から、私はよく「見たもの」を母に話してきました。
晴れた空とか、道に咲いた花とか、スーパーで見かけた面白いPOPとか。
でも、最近ふと思ったんです。
母にとって、それって本当に「見えて」るのかなって。
私が見たままを伝えることが、母にとっての“世界”になってしまうのなら、
それはとても責任のあることなんだなって。
だから、ちょっとした夢があります。
一度でいいから、自分の見ている景色を、母に“そのまま”見せてあげたい。
——こんなことを書いて、きっと迷惑ですよね。
もし嫌だったら、このページを破って捨ててください。
でも、もし話し相手になってくれるなら、
ノートを来週の土曜日、このお店の“ポスト”に入れてもらえませんか?
また来ます。
名前は書きません。でも、あなたの返事がもらえたら、きっとそれだけで十分です。
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ページの下に、小さな猫のイラストが描かれていた。
——それは、〈山猫堂〉の看板に似ていた。
実は一瞬、いたずらかと思った。だが、その文字は丁寧で、どこか誠実だった。
そして、何よりも——彼女の言葉には“本気”が宿っていた。
思わず指でその文章をなぞってみる。
視覚のない母に、景色を“そのまま”見せたい。
それは叶わない夢かもしれない。でも、心からの願いであることが、文章からにじみ出ていた。
実は迷った末、鞄からペンを取り出し、ノートの次のページに返事を書くことにした。
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はじめまして。ノート、確かに僕のです。
でも、こうやって誰かが書き加えてくれたのは初めてで、ちょっと驚きました。
あなたの夢、とても素敵だと思いました。
“景色をそのまま見せたい”という言葉が、ずっと心に残っています。
僕は誰かと日記を交換したことがないけれど、もしよければ、
またこのノートでやり取りしませんか。
土曜日、〈山猫堂〉のポストに入れておきます。
名前は書かなくてもいいですよ。たぶん、言葉だけで十分ですから。
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ノートを閉じ、実はふうっと息を吐いた。
心が、少しだけ温かくなっていた。
もうすぐ、春が来る。
けれど、カフェの窓から見える空は、まだどこか冬の匂いが残っていた。
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第3章 交わる文字たち
それから数週間、土曜日になると実は決まって〈山猫堂〉のポストを覗いた。
ノートは必ず返ってきていた。彼女の字は最初よりもずっと落ち着き、少しずつ長くなっていった。
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先週の返事、ありがとう。
実さん、こんにちは。
交換日記を始めてから、少し気持ちが楽になりました。
母は目が見えないけど、よく笑います。
私が小さい頃、母と一緒に歌った歌を今も覚えていて、よく口ずさんでいます。
でも、最近は母の記憶も薄れてきて、少し寂しいです。
私はまだ大学生で、将来のことも考えなければいけないけど、母のことが心配で、なかなかうまくいきません。
実さんは、大学ではどんな勉強をしていますか?
もしよければ教えてください。
また来週。
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実は、自分のことをあまり話していなかったことに気づき、次のページにこう綴った。
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ありがとう。
君の母親との思い出、とても大切なんだね。
僕は文学部で英文学を勉強している。
特にトマス・ハーディの作品に興味がある。
彼の物語は、時に残酷だけど、どこか温かさもある。
母親のこと、心配なのはすごくわかる。
僕の家族は両親とも健在だけど、忙しさにかまけてなかなか話せていない。
君の話を聞いて、自分のことをもっと大事にしようと思ったよ。
また来週。
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やり取りが続くうちに、実は自分の殻が少しずつ剥がれていくのを感じていた。
彼女の言葉は、見えないけれど確かな「存在」として、ノートのページから伝わってきた。
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その週のニュースでは、安楽死をめぐる議論が取り上げられていた。
「尊厳死の選択肢を広げるべきか」というテーマに、実は特に心を揺さぶられていた。
自分の母親がもしも苦しんでいたら、どんな決断をするのだろうか。
彼女の母親のことを思い、答えのない問いが頭の中を巡った。
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窓の外では、まだ冬の寒さが残っている。
けれど、日差しは少しずつ力を増していた。
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第4章 笑顔のない写真
交換日記は続いていたが、実は彼女の文章にわずかな違和感を感じ始めていた。
それは、小さな空白のページだったり、いつもより短い返事だったり。
ある週のノートには、こんな一文があった。
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最近、写真を撮る気力がなくなってしまった。
お母さんの笑顔も、カメラに収められない。
どうしてだろう。
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その言葉が、実の心に重くのしかかった。
彼女が写真を撮るのは、自分の見ている景色を母親に伝えたいから。
けれど、その手が止まってしまったということは、何かが起きているのだろう。
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その頃、テレビやネットでは安楽死のニュースが連日報じられていた。
尊厳を持って生きるための選択。苦痛からの解放。
実は、彼女の境遇と重ねて考えてしまった。
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不安が募る中、実はマスターに尋ねてみた。
「最近、あの辺りで何かあったのか、何か知らない?」
マスターは首をかしげる。
「特に変わったことは聞いてないけど……まあ、あの子はよく一人で来てたし、話すわけじゃないからなあ」
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彼女の存在が徐々に遠のいていくようで、実の胸は締め付けられた。
ノートに向かって、次の返事を書きながらも、その不安は消えなかった。
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大丈夫。どんな時も、あなたの味方だよ。
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第5章 安楽死という選択
その週のニュース番組では、安楽死をテーマにした特集が組まれていた。
重い病に苦しむ人々の声、医師の見解、法的な議論。画面には病院の静かな廊下や、患者と家族の微笑みが映し出される。
実は、画面の向こうの彼らの思いと、彼女の母親の姿を重ねて見ていた。
彼女が何を考え、どんな苦悩の中にいるのか。想像するだけで胸が痛んだ。
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ある日、実は交換日記の返事の最後に、こんな一文を書いた。
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もしも、あなたがどんな選択をしても、僕は否定しません。
どんな時も、あなたの味方でいたいから。
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返事が来るかどうか、不安に思いながらも、その言葉だけは伝えたかった。
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しかし、次の週、ノートは返ってこなかった。
空のポストを見つめる実の胸は締めつけられた。
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日々の喧騒の中で、彼女の影はだんだんと薄れていった。
けれど、心の奥底で、実は彼女のことを忘れられなかった。
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そんなある日、実は図書館のニュース記事アーカイブで、ひとつの見出しを目にした。
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都内のアパートで親子死亡 事件性なし
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記事には母親が視覚障害者であったこと、娘が写真家志望だったことが書かれていた。
それが、まるで胸に突き刺さるようだった。
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第6章 夢の続きを君へ
ノートのやりとりが途絶えてからも、実は彼女のことを忘れられなかった。
ある晩、ふと思い立って〈山猫堂〉のカウンターに置かれたノートを改めて開いた。
そこには、彼女が最後に書いた言葉があった。
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夢を見ます。目が見える夢。
お母さんと一緒に海を見ている夢。
青くて、どこまでも広がっていて、静かで、あたたかい。
でも、目が覚めると、また暗い部屋に戻ってしまう。
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その文章を読むと、胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。
彼女の願いは、まるでその海のように広大で美しいけれど、儚くもあった。
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実はその夜、初めて彼女の夢の風景を想像してみた。
澄んだ青空、波音、母と娘の笑い声。
そこには、見えないはずの母の目が、確かに輝いていた。
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自分にできることは何か。
彼女の夢の続きを、誰かに伝えたい——そんな気持ちが強くなった。
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そして実は、新しいノートを買い、最初のページにこう書いた。
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君の夢は僕の中で生き続ける。
だから、ここからは僕の“夢の続きを”綴っていくよ。
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その瞬間から、実の新しい物語が始まった。
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第7章 終わりの予感
あれから数週間が過ぎたが、ノートはもう一度も返ってこなかった。
実は〈山猫堂〉のポストを訪れるたびに、心のどこかで期待を抱いていたが、その期待は毎回裏切られた。
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ある日、ノートの最後の彼女のページに、薄く書かれた一文を思い出した。
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もし返事が途絶えたら、私のことは忘れてください。
さようなら、とは言えないけれど。
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その言葉が、実の胸に重くのしかかる。
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彼女の声はどこへ消えてしまったのか。
返事を待つ日々が、まるで無限に続くように感じられた。
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実は自分に言い聞かせた。
「まだ終わっていない。諦めてはいけない」と。
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しかし、その夜は特に冷え込み、窓の外を吹き抜ける風が一層寂しさを増幅させた。
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それでも、彼女の願いを忘れず、実はペンを握りしめた。
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第8章 消えた声
ノートの返事が途絶えてから、実は彼女のことが気になって仕方がなかった。
〈山猫堂〉のマスターに尋ねたり、周辺を歩いてみたりしたが、手がかりはなかった。
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ある日、街の図書館で古い新聞記事を探していると、ひとつの見出しが目に飛び込んできた。
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都内のアパートで親子死亡 事件性なし
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記事には母親が視覚障害者であること、娘は写真家志望だったことが書かれていた。
アパートの住所と写真も載っていた。
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それは、彼女が住んでいたと思われる場所だった。
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実はそのアパートを訪れた。
外壁は古びており、静かな住宅街にひっそりと建っていた。
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玄関の前には花束が供えられており、誰かが手を合わせていた跡があった。
胸の奥が締め付けられ、実は静かに手を合わせた。
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彼女の声はもう、戻らない。
けれど、彼女の願いは、確かにここにあった。
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第9章 名前のない報道
あの日訪れたアパートのことが、実の胸から離れなかった。
彼女と母親の存在は、新聞の一行のように淡く、しかし確かな事実としてそこにあった。
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図書館の資料でさらに調べると、彼女の名前が「川原」と書かれていることを確認した。
ただ、名前の詳細や背景はほとんど明かされていなかった。
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周囲の人々は口を閉ざし、彼女のことを語らなかった。
誰もが、あの親子の静かな生活を尊重していたのだろう。
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実はノートを開き、空白のページを見つめた。
そこには、何も書かれていなかったが、彼女の残した言葉が響いていた。
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「人は忘れられた時、本当に死ぬのかもしれない」——そんなメモがどこかにあったことを、実は思い出していた。
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彼女の言葉は、今も実の中で生き続けていた。
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第10章 日記
季節は冬から春へと移ろうとしていた。
実は新しいノートを買い、表紙に「日記」と大きく書いた。
そして、最初のページにこう綴った。
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川原さんへ
あなたに出会い、僕は変わりました。
あなたの夢を、僕はこれからも綴っていきます。
見えない世界を見ようとしたあなたの勇気が、
ここに残っています。
人が本当に死ぬのは、忘れられた時。
だから僕は、あなたを忘れません。
この日記は、あなたの続き。
僕の物語でもあります。
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ノートを閉じ、実は深呼吸をした。
外の空は澄み渡り、どこまでも高く、青かった。
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窓の外の街路樹が風に揺れ、薄桃色の花びらがひらひらと舞った。
それは、新たな始まりの象徴だった。
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彼女の願いを胸に、実はゆっくりと歩き出した。
見えないものを信じる力を胸に抱きながら。
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ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
次回作も楽しんでいただけるよう、精一杯書いていきますので、どうぞよろしくお願いします。