第六十二話:妹分へ、ごめん――再び家族になる日
あのとき私は、妹分を見捨てた。自分の弱さと怖さに負けて……。でも、今度こそ――
頬を叩かれ、鋭い音が響く。
「今朝はよくも吐いたね。誰が掃除したと思ってるの??」
今日もまた――“躾”と称した暴力が、静かに始まった。
「やめなさい。顔は目立つでしょう? もっと見えにくい場所にしなさい。あくまで“家事で負った怪我”に見せかけるのよ」
そう。怪我が目立てば、公爵家の“体裁”に関わる。
いじめの事実など、表沙汰にはできないのだ。
私は、ただ耐えることしかできなかった。我慢すればいつか終わる。
痛みに慣れたわけじゃない。ただ、それでも――こうしていれば、彼のそばにいられると思った。
たとえシエノ様が、いずれ別の誰かと結ばれたとしても――
私は、それでも彼に仕えることができれば、それだけでいいと、そう思っていた。
やがて、手を振るう者たちが飽きたように去っていく。
「いい? 告げ口なんてしないでね。この屋敷にあんたの味方なんていないのよ。誰に言っても、皆で“妄言”だと突っぱねてあげるから」
……分かっている。
誰がやったかを証明することなんてできない。
なにより、“大旦那様”と執事セバスが後ろに控えている限り、
シエノ様が私を庇えば、私の立場がさらに危うくなることも。
彼は、私を辞めさせようとしてくれたこともあった。
でも、私は首を横に振った。
彼と離れたら――もう二度と、会えない気がしたから。
「そういえば、今この屋敷には、もう一人“勇者様”が来ているんじゃなかったっけ?」
……セリナ。
その名前を聞いた瞬間、朦朧としていた意識が一気に覚醒する。
「大丈夫。あの時、あなたを捨てた娘が、今さら助けに来るわけないでしょう? ねえ、“マリさん”」
そう。私は――
あの時、セリナを裏切った。
誰よりも助けが必要だった妹分を、私は、見捨てた。
「それに、せっかく“メイドから勇者に”のし上がったのに、使用人に暴力なんてふるったらどうなるかしら? 公爵様にとっても、都合がいいでしょうね」
そう言って、彼女は笑った。
私は、それ以上、何も言えなかった。
苦い涙が、口の中に滲んだ。
*
「マリさん、どこに行っていたんですか? 探しましたよ」
部屋に戻ると、そこにはセリナがいた。
変わらない、優しい笑顔で――
「……勇者様を煩わせるようなことではありません。私のような、ただの使用人には」
「私も使用人です。それに、マリさんの“友達”ですから。マリさんを、助けたいんです」
「――助けたい、ですって?」
やめてよ。
「そんなの、頼んでない!」
やめてよ、セリナ。そんなふうに、優しくしないで。
「私は……私は、あなたを裏切ったのよ!
我が身かわいさに、あなたを見捨てた。
あんな、最低な女なのよ……!」
あなたが優しいほど、
私がどれだけ醜いか、思い知らされる。
「もう放っておいて……あなたは勇者。私はただのメイド。
これで、全部――収まってるじゃない……」
……どうして。
どうして、私はこんなにひどい言葉を投げつけてるの。
セリナは、何も悪くないのに。
そんな私を、セリナは――そっと抱きしめてくれた。
ちいさな腕で、ぎゅっと。
それは、あの頃の温もりと同じだった。セリナの体温だ。
「セリナはセリナです。たとえ勇者になっても、天使になっても……マリさんの“妹分”です。
お姉ちゃんがどんなに拗ねても、この絆は切れません。だって、私たちは――家族ですから」
……セリナ。
……セリナ!
「セリナ……!」
もう、我慢できなかった。
私は声を上げて泣いた。
「ごめん……ごめんよ。あなたを一人にして……!」
「はい。許します」
「知らないふりをして、ごめんよ……!」
「はい。許します」
「……あなたの“お姉ちゃん”をやめようとしたこと、ほんとうにごめん……!」
「それは――仲直りできるまで、許しません!」
その言葉に、私はとうとう崩れ落ちた。
セリナの胸で、思いきり泣いた。
ありがとう。
私なんかを――それでも、家族だと言ってくれて。
私も、もう一度……歩き出さなきゃいけない。
セリナのためにも。
そして、私自身のためにも。
ついに、マリとセリナが涙の再会を果たします。赦しと絆の物語は、ここからまた新たな一歩を踏み出します。