第百九十話:神の名を持つ虐殺、祈りは届かない、ルキエルという災厄
――ここから先は、引き返せない。
これまでの戦いが“戦争”だったとするならば、
この一話は、もはやそれではない。
これは――終わりだ。
十万の天軍。
神の名を冠する天使たち。
絶対と呼ばれた力。
そのすべてが、たった一人によって否定される。
救いはない。
奇跡もない。
ただ、圧倒的な力が、すべてを塗り潰す。
そして、あなたは目撃する。
“最強”が、“何を壊すのか”を。
最初に動いたのは、東だった。
聖弓アポロンを手にしたルーが、ただ一度、弦を引いた。引き絞る動作すら、そこにはない。弦が引かれた瞬間、矢はすでに放たれていた——そう錯覚させるほどの速さだった。
放たれたのは、一本の矢ではない。
「…………!」
ウリエルの軍勢が空を埋めていた東の領域。そこに、光の雨が降り注いだ。
一本一本の矢が、それぞれ異なる軌道を描く。曲線を描くもの、直進するもの、弧を描いて背後から襲いかかるもの。しかし、全ての矢に共通することがあった——
避けられない、ということだ。
「な——!」
最初の天使が矢に触れた瞬間、その体が光の粒となって散った。矢の威力は、ただ貫くだけではなかった。触れたものの存在を、分子のレベルで消滅させる。
一瞬で、千を超える天使たちが、跡形もなく消えた。
矢は止まらない。降り注ぐ光の雨は、逃げ場を失った天使たちを次々と捉える。防御魔法も、盾も、鎧も——何の意味も持たない。ただ、触れた瞬間、そこにあったものが「無」になる。
十秒と経たないうちに、東の空にいた軍勢の半数が、蒸発した。
残されたのは、呆然と立ち尽くすウリエルと、数えるほどしか残っていない部下たちだけだった。
西の空では、第二のルーが静かに槍を掲げていた。
ロンギヌス——万物を貫くと言われる聖槍。そのオリジナルを手にしたルーが、前方の天使たちを一瞥する。
そして、槍を、前に向けた。
瞬間。
ルーの背後に、無数の光の槍が出現した。その数——万を優に超える。空を埋め尽くす槍の林は、まるで銀色の壁のようだった。
「…………」
ルーが、手を前に押し出す。
その動作に呼応して、万を超えるロンギヌスが、一斉に解き放たれた。
轟音が、空を震わせた。
槍の雨が、西の軍勢を呑み込む。一本のロンギヌスが、三人、四人、五人と、串刺しにして突き進む。天使の鎧など、紙よりも脆い。肉体など、存在しないのと同じだ。
貫く。
貫く。
貫く。
絶対に貫くという槍の概念そのものが、具現化して襲いかかっているかのようだった。
ある天使は、十数本の槍に同時に貫かれ、そのまま串刺しの状態で雲海に落ちていった。またある天使は、槍の衝撃で上半身と下半身が分離し、そのまま光の粒になって消えた。
槍の雨が止んだ時、西の空に立っていた天使は、一人もいなかった。
ただ、槍に貫かれ、雲の上に転がる死体の山だけが、そこにあった。
北の空。
ラジエルの周囲に展開していた軍勢が、異変に気づいた時には、すでに遅かった。
全能神の要塞〈エルシャダイ・バスティオン〉を纏ったルーが、ただ、そこに立っている。五十メートルの巨人カシエルをも凌ぐ威容ではない。しかし、その体から放たれる光が——違った。
光は、波のように広がった。
最初は優しい、温かな光のように見えた。しかし、その光に触れた瞬間、天使たちの体が崩れ始める。
「あ……ああ……!」
悲鳴すら、長くは続かない。光に触れた部分から、天使の肉体が灰になっていく。腕が、脚が、胴体が、頭が——すべてが、風に舞う灰となって散っていく。
逃げようとした天使もいた。しかし、光の広がる速度は、彼らの逃亡速度をはるかに上回る。
光の波が北の空を覆い尽くした時、そこにはラジエル一人だけが残されていた。彼の周りには、かつて存在した数千の天使たちの灰が、雪のように静かに舞い落ちていた。
南の空。
プロトタイプを手にした本尊が、ただ、立っていた。
彼の前には、ミカエルの直属部隊——白銀の軍団が、整然と槍衾を構えている。その数、優に一万を超える。
ルーは、何も言わない。ただ、手にしたプロトタイプを、空に向かって掲げた。
そして、剣が、伸びた。
千メートル。それはもはや剣ではない。光の柱だ。雲を貫き、空の果てまで届かんばかりの、光の刃。
ルーが、その剣を、横に薙いだ。
何が起きたのか、理解できた天使はいなかった。ただ、一瞬の閃光の後、自分たちの体が上下に分離していることに気づいただけだ。
千メートルの刃が描いた軌跡。その線上にいた全ての天使が、何の抵抗もできずに、両断された。
上半身だけになった天使が、まだ生きている。自分が斬られたことに気づかず、腕を動かそうとする。しかし、指令を送るべき胴体は、もうそこにはない。
下半身だけの天使が、まだ立っている。一歩を踏み出そうとするが、バランスを崩して倒れる。
血ではない。天使の体は光の粒子となって消えていく。しかし、消えるまでにはわずかな時間がある。そのわずかな時間が、彼らに自分の死を認識させる。
恐怖が、南の空を支配した。
プロトタイプを振り回すたびに、数十、数百の天使が両断され、消えていく。それはもはや戦闘ではなかった。一方的な、虐殺だった。
天軍の残存兵力が、ただ呆然と立ちすくむ中——最も巨大な影が、動いた。
カシエル。
五十メートルの巨人が、その全身を震わせながら、一歩を踏み出す。灰色の長い髪が、怒りで逆立つように揺れた。大きなマスクの奥から、押し殺した獣のようなうめき声が漏れる。
彼女の腕の中には、二度も殺された妹——カマエルの、まだ温もりの残る死体があった。
「…………ル……キ……エル…………!」
マスクの下から絞り出された声は、もはや言葉ではなかった。怒りそのものが発する咆哮。巨人の全身が、憎しみで紅潮する。
妹を抱いていた腕が、ゆっくりとその体を地面に下ろす。そして——巨人が、立ち上がった。
その巨体が、ルー目がけて拳を振り上げる。五十メートルの体躯から繰り出される拳は、もはや質量兵器そのもの。拳圧だけで、周囲の空気が悲鳴を上げる。
振り下ろされた拳は、まるで隕石の落下のようだった。
しかし。
ルーは、ただそこに立っていた。避けようともしない。防御の姿勢すら取らない。
ただ、その左手を、軽く握っただけだった。
そして——拳を、返した。
カシエルの巨大な拳と、ルーの、人間と変わらない大きさの拳が、正面からぶつかった。
その瞬間、世界から音が消えた。
次の瞬間、轟音と共に、カシエルの右腕が——肩から先が、粉々に弾け飛んだ。
拳だけではない。手首も、前腕も、肘も、上腕も。ありとあらゆる部分が、まるで硝子細工のように砕け散った。骨の破片が、肉片が、血飛沫が、巨人の周囲に花のように咲く。
「…………ぁ…………?」
カシエルは、何が起きたのか理解できなかった。自分の拳が、腕が、消えた。ただそれだけが、現実としてそこにあった。
痛みが、一瞬遅れてやってくる。
巨人の悲鳴が、ヴァルハラ・ピークの山々を震わせた。五十メートルの巨体が、痛みでよろめき、膝をつく。右肩からは、血が滝のように流れ落ちる。その一瞬——彼女の動きが、完全に止まった。
ルーは、拳を握っていた左手を、開く。
掌が、カシエルに向けられる。
何の予告もなく、その掌から、純白の光が放たれた。
光は、一直線にカシエルを捉えた。巨人の全身を、包み込む。抵抗する間もない。悲鳴を上げる間もない。
光の中で、カシエルの体が、輪郭を失っていく。あの巨大な体が、あの圧倒的な質量が、光の中に溶けて——消えた。
後には、何も残らなかった。
マスクも、髪も、血も。すべてが、光の中に消え去った。まるで、最初から存在しなかったかのように。
ルーは、開いた手を、静かに下ろした。
その表情には、何の変化もない。妹を殺された姉の怒りも、巨人を一撃で消し去った誇りも——何も。
ただ、そこに、立っているだけだった。
あまりにも簡潔で、あまりにも絶対的なその力の差に、誰もが言葉を失った。
ルキエルの視線が、ゆっくりと動く。
次に捉えたのは——ハニエルだった。
彼女は震えていた。全身から放つ黄金の光が、恐怖で歪んでいる。あの誇り高き美貌が、今はただ恐怖に引きつっていた。
「かかってらっしゃい、このわたくしがお相手ですわ!」
ハニエルの手が、懐から一つの鏡を取り出した。
神器『八咫の黄金鏡』。あらゆる攻撃を反射すると謳われる、彼女の象徴とも言うべき神器。これまで数多の敵の攻撃を跳ね返し、彼女自身に傷一つ負わせた者はなかった。
鏡が、黄金に輝く。
ハニエルの瞳に、わずかな希望の光が宿る。
——ルキエルの手に、ロンギヌスが握られている。さっきまで西の空で無数の天使を貫いていた、あの槍だ。
ルーは、何も言わない。ただ、槍を前に向ける。
そして——
放った。
ロンギヌスが、一直線にハニエル目がけて飛翔する。光の軌跡を描くその槍は、まさに絶対の貫徹そのもの。
ハニエルは、鏡を掲げた。
「ご自分の槍を味わいなさいな!」
黄金の鏡が、まばゆい光を放つ。その表面に、ロンギヌスの姿が映り込む。
——反射する。反射する。反射する。
そう、彼女は信じた。これまで通り、どんな攻撃も跳ね返すと。
しかし。
ロンギヌスは、反射されなかった。
いや——反射の概念そのものを、貫いたのだ。
鏡の表面に、ひびが入る。そのひびは、一瞬で全体に広がる。黄金の鏡が砕け散る——その瞬間より先に、ロンギヌスの穂先は、すでに鏡を貫通していた。
「な……ん……ですの……?」
ハニエルの声が、途切れる。
ロンギヌスは、砕けた鏡の破片をまき散らしながら、そのまま進む。彼女の胸部——心臓の位置を、正確に捉えて。
音もなく、槍が彼女の体を貫いた。
黄金の光が、一瞬、激しく輝いた。まるで最後の抵抗のように。しかし、その輝きも、すぐに消え去る。
ハニエルの体が、ロンギヌスに貫かれたまま、空中に停止する。彼女の顔には、まだ驚愕の表情が貼りついていた。自分が持つ最強の神器が、何の意味も成さなかったことへの——理解を超えた驚愕が。
血が、口から流れ落ちる。黄金の衣を染める。
彼女の瞳が、ゆっくりと、虚ろになっていく。自分を貫く槍を、信じられないものを見るように見つめたまま。
やがて、その体が、光の粒となって崩れ始めた。
まずは指先から。次に腕が、脚が、胴体が——そして、あの誇り高き美貌が、最後まで驚愕の表情を残したまま、光の粒となって散っていった。
ロンギヌスだけが、そこに残された。彼女を貫いた後、空中で静止している。
ルキエルが、手を差し伸べる。ロンギヌスは、呼び寄せられるようにして、静かに彼の手の中に戻っていった。
四つの空の内、ただ一つだけ——戦場でありながら、戦いの気配がなかった場所があった。
南の空。
ザドキエルは、そこに立っていた。
彼女の周囲には、かつて数千の天使たちがいた。しかし今は、誰もいない。彼女だけが、ただ一人、月色の長い髪を風に揺らせて、そこに立っている。
武器も持たない。戦装束すら纏わない。ただ、白い衣のまま、ルーの前に立っていた。
ルーが、彼女を捉えた。
手には、まだ聖弓アポロンが握られている。先ほどまで、無数の天使たちを蒸発させた、あの弓だ。
ザドキエルは、逃げなかった。構えもしなかった。
ただ——両手を、静かに開いた。
掌を、ルーに向けて。
それは、戦いの構えではなかった。防御の姿勢でもない。ただ、彼を止めようとする——いや、違う。
「……もう、やめてください……」
ザドキエルの瞳が、ルーを見つめている。その目には、恐怖も、怒りも、憎しみもなかった。ただ、静かな悲しみと——それ以上に、深い哀悼の色が浮かんでいた。
彼女は、何かを言おうとした。唇が、わずかに動く。しかし、声にはならなかった。
風が、彼女の長い髪を撫でる。月色の髪が、夕暮れの光を受けて、淡く輝く。
ルーは、その姿を見ていた。
表情は変わらない。何も語らない。
そして——彼は、弓を引いた。
弦が、静かに引き絞られる。アポロンが、光の矢を生み出す。その矢先は、ザドキエルの心臓を正確に捉えている。
ザドキエルは、それでも動かなかった。
両手を開いたまま。掌をルーに向けたまま。ただ、そこに立ち続ける。
矢が、放たれた。
光の軌跡が、空を裂く。一直線に、彼女の胸を目がけて。
ザドキエルの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
それは、恐怖の涙ではなかった。悔しさの涙でもない。
ただ——彼女の心の中にある何かが、溢れ出しただけだった。
涙が、頬を伝う。その涙が、夕暮れの光を受けて、一瞬、虹色に輝いた。
そして、彼女は微笑んだ。
矢が、彼女の胸を貫く。
その瞬間、彼女の体が、淡い光を放った。矢の衝撃で後ろに倒れるのではなく、ただ、その場で、光の中に溶けていくように。
まず、つま先から消え始めた。次に足が、腰が、胸が——そして、両手が。
両手は、最後まで開かれていた。ルーに向けたまま。何かを伝えようとするかのように。
消えゆく中で、彼女の唇が、もう一度動いた。
声にはならなかった。けれど、その形は——
「…………ご…………め…………な…………さ…………い」
——そう、見えた。
涙が、まだ頬を伝っていた。しかし、その顔には、微笑みが浮かんでいた。苦しみの表情ではない。安堵にも似た、穏やかな微笑み。
彼女の瞳が、最後までルーを見つめていた。
そして——彼女の全身が、光の粒となって、散っていった。
風が吹いた。
光の粒が、風に乗って舞い上がる。月色の髪の最後の一筋が、夕日に輝きながら、空の彼方へ消えていった。
後には、何も残らなかった。
武器も、衣も、涙の跡さえも。
ただ、風だけが、その場所を吹き抜けていく。
ルーは、弓を下ろした。
その表情には、何の変化もない。殺した相手が、抵抗しなかったことも、涙を流していたことも、微笑んでいたことも——何も。
ただ、彼は、その場に立っていた。
風が、彼の銀色の髪を揺らす。
遠くで、残された天使たちの悲鳴が聞こえる。しかし、この場所だけは、静寂に包まれていた。
まるで、彼女の存在が、最後の最後まで、この戦場に一筋の平和をもたらしていたかのように。
北の空。
灰が、まだ舞っていた。かつて数千の天使が存在した場所に、今はただ、静寂と、降り積もる灰だけがある。
その中心で、ラジエルが立っていた。
彼は、何も見ていなかった。周りで起きたことなど、目に入っていないかのように。ただ、膝の上に開いた『ラジエルの書』だけを見つめている。
黒い長髪が、灰の混じる風に揺れる。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、何の感情も映さない。
彼の指が、ゆっくりと動いた。
ページを、捲ろうとしている。
次のページには、何が書かれているのか。この戦いの行方か。あるいは——ルーの弱点か。彼の情報を操る能力ならば、もしかしたら、あの絶対的存在に対抗する術を見出せるかもしれない。
指が、ページの端にかかる。
捲る——その、一瞬前だった。
「まずい!?」
ラジエルの首筋に、冷たい感触が走った。
それは、指だった。
ルーの手が、いつの間にか、彼の首の後ろを掴んでいた。音もなく彼の背後に立っている。
ラジエルの瞳が、わずかに見開かれる。
「……詰み、ですね……」
ルーは、何も言わない。
ただ、その手に、力を込めた。
次の瞬間、ラジエルの視界が、激しく回転した。
掴まれたまま、彼の体が地面に叩きつけられる。衝撃——岩石が砕ける音。背中に、激痛が走る。
しかし、それで終わらない。
ルーの手は、彼を放さない。そのまま、地下へ——一直線に突き進む。
岩盤が、砕ける。砕ける。砕ける。
速度は、まるで落下する流星のようだった。いや、流星ですら、ここまでの速度は出せない。ルーの推進力は、物理の法則を無視していた。
ラジエルの体が、岩盤に叩きつけられ続ける。一瞬ごとに、岩石が彼の体を削る。皮膚が、肉が、引き裂かれる。
「が……っ……!」
声にならない声が、喉の奥から漏れる。
しかし、ルーは止まらない。
さらに深く。さらに速く。
地殻を貫く。マントルに向かって、一直線に。
ラジエルの左腕が、不自然な方向に曲がった。上腕骨が、皮膚を突き破って飛び出した。しかし、次の瞬間には、その腕ごと岩盤に押し潰される。
肋骨が、一本、また一本と折れる。折れた骨の破片が、肺を刺し貫く。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打つ——いや、もう破裂していた。内臓が、次々と機能を停止する。
血が、全身の穴という穴から吹き出す。口から、鼻から、耳から、そして皮膚の裂けた箇所から。しかし、その血も、高速で通過する岩盤にすぐに拭い去られる。
ラジエルの意識が、遠のきかける。
しかし、まだ、止まらない。
温度が、急激に上がり始めた。周囲の岩石が、赤く輝き始める。マントルだ。地球の内部、溶岩の海が、目前に迫っていた。
ルーは、そのまま突入した。
灼熱が、ラジエルの全身を包む。皮膚が、瞬時に炭化する。肉が、溶け落ちる。眼球が、熱で破裂した。視覚は、もうない。
それでも、彼はまだ生きていた——いや、生きているというより、死ぬ間際の苦痛を、これでもかと味わされていた。
溶岩の中を、さらに進む。
ラジエルの体が、溶けていく。足が、溶けて骨だけになり、その骨も溶けて消える。胴体が、半分以下になる。内臓は、とっくに存在しない。
残っているのは、頭部と、わずかな胸部だけだった。それも、溶岩の熱で、ゆっくりと、確実に、溶けていく。
眼鏡は、とっくに消えていた。黒い長髪も、燃え尽きた。
そして——ついに。
光が、見えた。
世界の、反対側。ルーは、文字通り、星を貫いたのだ。
ラジエルの残骸——もはや、それだけのもの——が、地表に放り出される。溶岩の滴る、人型をかろうじて留めた塊。
そこに、初めての光が差した。
夕日だった。反対側の世界の、夕日が、彼を照らし出す。
ラジエルの、最後の一片が、その光の中で、静かに灰となって散っていった。
ルーは、その光景を一瞥した後、再び空へと舞い上がった。
彼の体には、傷一つない。溶岩の中を突き抜けたのに、その白い肌には、焼け焦げた箇所すら存在しない。
東の空に、ただ一人、ウリエルが立っていた。
彼の周囲には、かつて数千の天使たちがいた。しかし今は、誰もいない。光の矢の雨によって、その全てが蒸発した。残されたのは、軍勢を失ったウリエルだけだ。
それでも、ウリエルは膝をつかなかった。
太陽のような温和な雰囲気は、もうそこにはない。代わりに浮かぶのは、戦士の表情——獲物を前にした緊張と、そして微かな誇り。
彼の手には、一振りの槍があった。
グングニル。
運命の槍とも呼ばれる、必中の神器。アポロンと並び称される、天界最強の射撃武器。しかし今、ウリエルはそれを投げようとはしなかった。
目の前の敵は、投擲で倒せる相手ではない。それを、彼は理解していた。
ルーが、ゆっくりと降り立つ。手には、ロンギヌス。万物を貫く聖槍と、運命の槍が、ついに相対する。
「……俺は間違っていませんでした。あなたは、この世界にとって災厄そのものです……」
ウリエルが、構えた。
グングニルの穂先が、一直線にルーを指す。その構えは、無駄がなく、洗練されていた。天軍団長として、数多の戦いを生き抜いてきた証だ。
ルーは、何も言わない。ただ、ロンギヌスを前に向ける。
一瞬の静寂。
次の瞬間——二つの槍が、激突した。
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衝撃波が、周囲の雲を吹き飛ばす。ヴァルハラ・ピークの山頂が、その圧力で揺れた。
ウリエルのグングニルが、ルーのロンギヌスと鍔迫り合う。槍同士が擦れ合い、火花が散る。
「はあああっ!」
ウリエルの連撃が炸裂する。一突き、また一突き。グングニルが、光の軌跡を描いてルーを襲う。その速さは、目で追うことすらできない。必中の槍は、その名の通り、放たれた一撃全てが急所を目指す。
しかし。
ウリエルの攻撃は、ルーにダメージを与えることができない。
「ぐっ……!」
ウリエルの額に、汗が浮かぶ。
当たっている。確かに、グングニルはルーの急所を捉えている。しかし——そのすべての攻撃は無駄だった。ルーには、全ての攻撃が無効なのだ。
「はあっ!」
もう一度、ウリエルが突きを放つ。グングニルの穂先が、ルーの心臓を正確に捉えた——はずだった。
しかし、穂先は、ルーの服に触れることすらできなかった。ルーの体の表面、数ミリのところで、槍の動きが止まる。見えない壁に阻まれたかのように。
「な……!」
ウリエルの目が見開かれる。
その隙に、ルーのロンギヌスが、彼の肩を掠めた。
深手ではない。かすり傷だ。しかし、そこから血が流れ落ちる。
ルーは、傷ついていない。
一撃も、受けていない。
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戦いは、続いた。
ウリエルの槍が、ルーの喉を狙う。ルーは、わずかに首を傾げるだけで避ける。
ウリエルの槍が、ルーの腹を穿つ。ルーは、体を捻って、その一撃をかわす。
ウリエルの槍が、ルーの眉間を貫く。ルーは、ロンギヌスの柄で、それを弾き返す。
当たらない。
当たらない。
当たらない。
まるで、ルーだけが時間の流れが違うかのようだった。ウリエルの渾身の一撃が、全て、紙一重でかわされ、あるいは弾かれ、あるいは——無視される。
一方、ルーの反撃は、確実にウリエルを捉えていた。
一突き目——右腕を貫く。
二突き目——左腿を貫く。
三突き目——腹部を貫く。
四突き目——右肩を貫く。
五突き目——左脇腹を貫く。
ウリエルの体が、血に染まる。白いローブが、赤く変色する。それでも、彼は槍を手放さない。
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「おおおおおっ!」
雄叫びと共に、ウリエルが突きを放つ。グングニルが、光の奔流となってルーを襲う。それは、彼の全生命力を込めた、最後の一撃だった。
ルーは、ロンギヌスを前に突き出した。
二つの槍が、再び激突する。今度は、一瞬で決した。
ロンギヌスが、グングニルを弾き飛ばした。運命の槍が、くるくると回りながら、遥か下方へ落下していく。
そして——ルーのロンギヌスが、ウリエルの胸部を、深く貫いた。
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ウリエルは、立っていた。
ロンギヌスが、彼の体を貫いている。胸から背中へ、一直線に。血が、槍伝いに流れ落ちる。滴る血が、雲を赤く染める。
それでも、彼は立っていた。
膝は、折れていない。背筋は、伸びたまま。顔は、前を向いている——ルーを、見つめている。
「…………」
ウリエルの口元が、わずかに動いた。何かを言おうとしたのか。あるいは、笑おうとしたのか。それは、誰にもわからない。
彼の体に、次々とロンギヌスが突き立つ。
二本目——右肩から。
三本目——左肩から。
四本目——腹部に。
五本目——右腿に。
六本目——左腿に。
七本目——心臓のすぐ横に。
八本目——喉をかすめて、首筋に。
九本目——背中から、肺を貫いて。
十本目——そして、また十本。
気がつけば、ウリエルの全身は、無数のロンギヌスに刺されていた。まるで、槍でできた鎧を着ているかのようだった。
血が、全身から流れ落ちる。立っていることすら、奇跡だった。
しかし、ウリエルは、立っていた。
槍に貫かれながら。全身から血を流しながら。それでも、彼は戦士の姿勢を崩さなかった。槍を構えることはできなくても、背筋を伸ばし、前を向いて——立っていた。
立ったまま。槍に貫かれたまま。戦闘の姿勢を崩さずに——
ウリエルは、果てた。
最後に残ったのは、ミカエルだけだった。
東の空ではウリエルが槍に貫かれて立ち尽くし、西の空にはカシエルもハニエルもなく、北の空ではラジエルの灰がまだ舞い、南の空ではザドキエルの光の粒が風に消えたばかり。そして、白銀の軍団長が、ただ一人、まだルーの前に立っていた。
ミカエルの軍服は、血と土に汚れていた。さきほどルーに投げ飛ばされ、山肌に叩きつけられた傷が、まだ生々しい。それでも、彼は立っていた。
腰の剣が、静かに抜かれる。
『天軍の剣』——神より直接授かりしと言われる、対悪魔の最強の聖剣。その刃が、夕暮れの光を受けて鈍く輝く。
「貴様はどんな悪魔よりも邪悪な存在だ……神よ、俺に勝利するための力を……!」
ルーが、最強の聖剣——プロトタイプを構えた。
しかし、その剣の大きさが、変わった。先ほどまで千メートルにまで伸びていた光の刃が、縮む。縮む。縮む——やがて、普通の長剣と変わらないサイズになった。
それは、ルーが「全力を出す」という意味だった。
これまでの敵には、ただ力を解放するだけで十分だった。だが、ミカエルに対してだけは——彼は、剣を通常の大きさに戻した。
一瞬の静寂。
次の瞬間、二つの影が、空を裂いた。
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激突。
プロトタイプと天軍の剣が、真っ向からぶつかる。衝撃波が、周囲の雲を吹き飛ばした。ヴァルハラ・ピークの山頂が、その圧力でさらに砕ける。
ミカエルの一撃が、ルーの顎を狙う。ルーは、それを最小限の動きでかわすと同時に、プロトタイプを返す。ミカエルが剣で受け止める。
火花が散る。
「はあああっ!」
ミカエルの連撃が、嵐のようにルーを襲う。天軍の剣が、光の軌跡を描いて、縦横無尽に斬りかかる。その速さはウリエルの槍を遥かに超え、重さも精度も、すべてが次元違いだった。
ルーは、それを受ける。
剣を返す。斬り返す。突く。払う。
二人の剣撃が、空気を切り裂き、衝撃波を生み、雲を散らす。一瞬の間に、数十、数百の斬り結びが交わされる。
ルーの動きが、これまでとは明らかに違った。
速い。そして——正確だった。
これまでの戦いでは、ただ力で押し潰していた。だが今、彼は「剣士」として、ミカエルと向き合っていた。それは、相手を認めている証拠だった。
しかし、それでも。
ルーの剣は、確実にミカエルを捉え始めていた。
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最初に消えたのは、左手だった。
ミカエルの斬撃が、わずかに空を切る。その隙に、プロトタイプが閃いた。
「……っ!」
声すら出なかった。ミカエルの左手が、手首から先が、綺麗に斬り落とされていた。血が吹き出す。剣を持っていない方の手——しかし、それは明らかに、ルーが「手加減した」わけではないことを示していた。
ルーは、狙ったのだ。戦闘に直接関係ない左手を。それは、余裕の証だった。
ミカエルは、歯を食いしばる。痛みをこらえ、さらに剣を振るう。
次は、右足だった。
ミカエルが踏み込みざまに放った一撃。その軸足を、ルーのプロトタイプが刈り取った。
膝から下が切り離される。ミカエルの体が、大きく傾ぐ。それでも、彼は翼で体を支え、空中に留まった。
六枚の白銀の翼が、必死に羽ばたく。
しかし、ルーは、そこを狙った。
一閃。
一枚の翼が、根本から斬り落とされる。白い羽根が、血しぶきと共に舞い散る。
二閃。
また一枚。ミカエルの背中から、鮮血が噴き出す。
三閃。
四閃。
五閃。
六枚の翼のうち、五枚が切り落とされた。残されたのは、ただ一枚だけ。歪になった背中から、血が滴り落ちる。
ミカエルは、もはや人の姿を留めていなかった。
左手を失い、右足を失い、五枚の翼を失った体は、もはやバランスを保つことすらままならない。血に染まった軍服が、体に張り付く。それでも、彼はまだ、剣を握っていた。
天軍の剣が、震えている。ミカエルの腕が、震えている。全身が、限界を超えた悲鳴を上げていた。
しかし、彼の瞳は、まだ前を向いていた。
ルーを、見つめていた。
ルーは、その姿を見つめ返した。
表情は変わらない。何も語らない。
ただ、プロトタイプを、中段に構えた。
——最後の一太刀。
ミカエルも、構えた。残った腕で、天軍の剣を、正面に掲げる。
二人が、同時に踏み込んだ。
交差。
一瞬の閃光。
ルーとミカエルが、すれ違う。
その場に、静寂が落ちた。
ミカエルは、立っていた。剣を構えたまま。前を向いたまま。
しかし、彼の体に、一条の線が走った。
腰のあたりを横に走る、細い線。
次の瞬間、ミカエルの上半身と下半身が、ゆっくりと滑り落ちた。
断面から、血が噴き出す。それは、まるで赤い滝のようだった。上半身が、下半身が、それぞれ別の方向に落ちていく。天軍の剣が、ミカエルの手を離れ、くるくると回りながら下方へ消えた。
ミカエルの顔が、見えた。
その表情は、穏やかだった。苦しみも、悔しさもない。ただ、戦い終えた戦士のような——静かな諦観にも似た、そんな表情が、そこにはあった。
彼の唇が、わずかに動いた。
何かを言おうとしたのか。あるいは、ただ無意識の動きだったのか。それは、誰にもわからない。
やがて、彼の上半身が、光の粒になって崩れ始めた。
しかし、それはゆっくりだった。他の天使たちのように一瞬で消えるのではない。時間をかけて、ゆっくりと、粒になっていく。
その間も、血は流れ続けた。
彼の体から溢れ出た血が、雲を染め、そして——地上に向かって、降り注ぎ始めた。
*
その日、空から血の雨が降った。
十万の天軍の天使たちの血が、雲を突き抜け、大気を染め、そして大地に落ちる。一滴一滴の血が、夕暮れの光を受けて、赤く、赤く輝いていた。
ヴァルハラ・ピークの山腹が、血で染まる。
麓の森が、血の雨に打たれる。
遠くの町にも、かすかな血の匂いが届いたという。
それは、天界と地獄の停戦が破られた日の出来事。
十万の天軍が、たった一人の天使に全滅させられた日の出来事。
そして——最強の天使が、その手で、己の同胞を殺した日の出来事。
人々は、語り継ぐ。
あの日、空から血の雨が降ったと。
それは、天使たちの涙だったのか、それとも——
誰も知らない。
第190話、ここまで読んでいただきありがとうございます。
――これが、ルキエルという存在です。
もはや戦いではありませんでした。
信念も、戦術も、覚悟も、
すべてが「意味を持たない領域」。
それでもなお、
ウリエルは立ち、
ミカエルは剣を握り、
ザドキエルは祈りました。
だからこそ、この戦いは「無意味」ではない。
むしろ――
ここからが、本当の物語の始まりです。
天界は崩壊しました。
均衡は消えました。
では、この“絶対”を、
誰が、どうやって止めるのか。
あるいは――止める必要があるのか。
次話より、物語は新たな段階へと突入します。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




