第百八十四話:黒き花嫁と八千年のラベンダー、孤独地獄の中心で、赤いチューリップは咲く
八千年の孤独。
三千世界の試練。
神話級の衝突。
すべては、この瞬間のために。
力では届かなかった。
全知でも、全能でも、埋まらなかった。
だが――
たった一つの言葉が、
神を超える。
欲望ではなく、
支配でもなく、
独占でもなく。
それは「愛」。
孤独地獄の最深部にて、
魔王は、初めて答えを口にする。
これは勝利の物語ではない。
孤独が終わる物語だ。
毛玉たちの旅は、最後を迎える。
アポロンの矢が三千世界を超え、モリアのいる空間を裂き、彼女に向かって襲いかかる。
しかし――当たる直前、突如として虚空に現れたのは手のひらサイズの正方形。それが矢を閉じ込め、同時に空間が収縮する。瞬きの間に、正方形は厚みのあるカードへと凝縮され、ふわりと空中に浮かんだ。
表面には、まさに今封じた矢が精巧な絵柄として描き込まれている。静止した軌跡、微細な鏃の形状まで完璧に再現された二次元の世界。風切り音だけが虚空に残され、殺意は完全に無力化されていた。
いくら必中でも、矢自身にはそのカードを破壊する力はない。
故に、その結果に永遠にたどり着くことはない――ルキエルがそう望まない限り。
すべてを知る悪魔。
何でも成せる天使。
物語は、いよいよクライマックスを迎える。
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「Trick or treat! お菓子をくれないと殲滅しちゃうぞ!」
「今はハロウィンの季節じゃないわ。それに、それはお菓子をねだるんじゃなくて、かつあげって言うのよ。」
モリアは不機嫌そうに毛玉を睨む。
『何てことをしてくれているの』と、無言の抗議を送っている。
毛玉も諦めたように両手を広げた。
『私にどうしろと』と、肩をすくめて見せる。
「マオウさん!」
幸いなことに、毛玉の読みは正しかった。
セリナたちはモリアと同じ場所にいた。それに――無事だった。
「チョコ寄越せ! あれは僕のものだ!」
「今度はバレンタインかしら。あげないわ。
義理チョコはあげない主義なの、私。それに本命なら、彼一人しか送らないわ。ふふふ。」
モリアにチョコなどない。
それを言っても、ルキエルは信じないと彼女は知っている。
『悪魔の言葉なんか信じられるか!』と叫ぶだろう。
まあ――仮にあったとしても、彼女の性格では絶対にあげないだろうけど。
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「気に食わない……」
短気なルキエルの堪忍袋の緒が切れた。
ルキエルは軽く地面を蹴って空へ浮かび、ロンギヌスを取り出す。何をするかは、言うまでもない。
「セリナ、レン、私に捕まれ!」
彼女たちは即座に毛玉の意図を理解した。
セリナはエンプラの手を掴み、レンはザガンを懐に抱える。
一刻の余裕もなく、毛玉の一味は空間転移した。
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ルキエルは槍を高く掲げた。
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」
下界のありとあらゆる音が止んだ。
すべてが、槍の先端に吸い寄せられるように消え去る。世界は一瞬、完全な真空になった。生きとし生けるものの鼓動さえ、時を止められたように固まる。
腕が、後ろに引かれる。
その動作は優雅ですらあった。舞踏の開始のように滑らかで、犠牲の儀式のように神聖で、しかし確実に、終わりのための所作だった。
槍が放たれた。
音はなかった。ただ、世界を『貫いた』。
空気が悲鳴をあげる代わりに、空間そのものが引き裂かれるような感覚だけが、何の媒介もなく直接、あらゆる者の脳髄を貫いた。
槍は落ちていった。
槍の軌跡は一条の光の線となり、それは天から地へと伸びる蜘蛛の糸のように細く、しかし決して切れることのない因果の糸だった。
途中、槍は雲を貫いた。雲は蒸発し、一瞬だけ青空がのぞいた。その青さは見た者の目を焼いただろう――なぜなら、それは希望の青ではなく、むしろ絶望の果てに現れる虚無の青だったからだ。
さらに落ちる。
槍が大気を擦過する音は、すべての周波数を同時に鳴らす不協和音となり、あらゆるものを破り、潰し、伏せた。しかし、それもほんの一瞬のことだった。
槍が地に触れた。
衝突点から広がる衝撃波は、破壊ではなく『消去』だった。万物が次の瞬間には塵となって散った。衝撃波は同心円状に広がり続ける。世界は一枚の絵が消しゴムで消されるように、跡形もなく無に帰した。
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「あの子、私がまだいるのを完全に忘れているようね……」
緊急脱出した毛玉は、先までいた世界が歴史になるのを見て、ぞっとした。
「無茶苦茶すぎるだろ……で、ザガン気絶してる。」
レンも思わず生唾を飲み込んだ。一歩遅ければ、彼女たちもともに灰と化していたところだった。
「モリアさんは! モリアさんは無事でしょうか?」
セリナは全員の無事を確認した後、モリアのことを思い出した。
「安心しろ。これだけでくたばる奴じゃない。彼女は……」
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消えゆく世界を眺めて、ルキエルは満足げな表情を浮かべた。
これまでモリアに溜め込んだ鬱憤を、少しは晴らせただろうか。
だけど、次の瞬間――
ピシャァ!
一発のビンタが、彼の頬を襲った。
明確な手応えのある音が鳴り響く。モリアからの贈り物だ。
「なっ……!」
「ざまあみやがれ~」
あらゆるものがルキエルを傷つけることはできない。そのビンタも、彼にダメージを与えることも、痛みすら与えることもできない。
だが――
侮辱性は、この上ない。
「この野郎! 神でもぶったれたことないのに!」
「そのネタはもう古いわ。――いや、この時代ならまだ新しいか。それに、野郎じゃないわ。」
ピシャァ!
ルキエルの動揺の隙に、もう一発ビンタが炸裂する。
ルキエルが拳で反撃しようとした瞬間、モリアは既に遠くへ転移していた。
「ムカつく……ムカつく……ムカつく……もう許さない……」
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空間が、音もなくねじ切れた。
ルキエルの背後、裂け目から溢れ出る光の中に、無数の槍が浮かんでいた。
ロンギヌス――一本一本がかつて世界を終わらせた聖槍。
それが今、万と連なって、虚空に整列している。まるで魚の鱗のように、隙間なく、しかし規則正しく、切っ先をモリアへと向けて。
それが彼にとっての、戦闘態勢だった。
「絶対泣かしてやる」
腕が上がる。
その瞬間、万の槍が同時に、轟音とともに放たれた。音ではなく、衝撃。空気が悲鳴をあげる間もなく、すべての分子が槍の軌跡に弾き飛ばされ、真空の帯が無数に走る。それはもはや雨ではなく、時空そのものを縫いとめる糸の束だった。
「あら、こわい」
そう言いながら、彼女はそっと隣に一歩移動した。
そこは最も避けられない場所、最も槍の届かない位置。彼女の全知が導き出した、ただ一つの特異点。
槍が、彼女を避けた――そう見えるほどに。
万の軌跡が、まるで彼女の身体を中心に川が分流するように、左右に分かれて流れていく。一本も掠めない。一本も触れない。彼女の黒いドレスのフリルさえ、風圧で揺れることもない。ただ、無数の光の線が彼女の輪郭をなぞるように通過していく。
「ドクター! あれは何でありますか!」
「あの世行きの片道切符だ。もらったら返品不可の一方通行の旅。――って、チッ!」
流れ弾ならぬ流れ槍が、毛玉たちを襲う。
十分に離れているつもりが、まだ危険は隣り合わせだ。全知の力を持たない毛玉は、必死でそれを避けるしかない。
――しかし、孤独地獄の三千世界の一つ一つが、それぞれに静かな午後を閉じ込めた硝子細工の箱庭だった。無数のロンギヌスは、それらを貫いた。
硝子が割れる音は美しい。だが、これはもっと醜い破滅の響きだった。
三千の世界が、槍の軌跡に沿って内側から破裂する。花園が、紅茶が、永遠の午後が、一瞬の閃光とともに弾け飛ぶ。それはまるで花火だった。華麗で、はかなく、しかしそこに命の温かみは一切なく、ただ虚無が美しく炸裂するだけの、悪夢の祝祭。
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「私はあなたのことが大――嫌い。」
モリアの声が、静かに響く。
「神に過度に甘やかされ、自尊心だけ膨大化した子供。神の寵愛をいいことに好き勝手やらかす迷惑な存在。それなのに……」
彼女の指が、微かに動いた。
「私が愛した彼にまで甘えて、愛を求めるとか――欲張りすぎだわ。」
残った世界のひとつが、ルキエルに向かって飛んだ。
それはもはや花園ですらなかった。ただの球体、モリアの力のかたまり。質量を持った怒り。それが天使めがけて、一直線に迫る。
「僕もお前のことが大大大大大嫌い!!! 」
ルキエルは、拳を握った。
そして、振り抜いた。
たった一撃。それだけで、世界は砕けた。核から亀裂が走り、一瞬のうちに無数の欠片となって、虚空に霧散する。天使の拳には、傷一つつかない。ただ、かすかにこぼれた世界の残骸が、彼の翼の煤けた銀色に、一瞬だけ色を添えた。
「好きなら側にいればいいじゃない。くだらない試練を設けて、その者の愛を試す――これだから女は気持ち悪い。」
「一番彼を殺したあなたがそれを言うの?」
モリアの声が、冷たく刃のように返る。
「私がどんな気持ちで、彼が何千回もあなたに殺されるのを見ていたと思う? 断腸の痛みだったわ。だけど――いいエンディングの為に我慢した。ご自分のことばかり考えるあなたと違ってね。」
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まだ終わらない。
二つの世界が、左右から挟み込むように迫っていた。
挟撃――モリアの最後の一撃。左右から押しつぶす質量の壁。どんな天使も避けられない、完璧な軌道。
ルキエルは両手を広げた。
世界が、彼の掌に触れた。右の手のひらに一つ、左の手のひらに一つ。彼はそれらを、まるで子供が遊び半分でボールを掴むように、ただ掴んだ。
「知らない。最後はちゃんと生きてるじゃん。女々しい奴。」
そして――
握りつぶした。
世界は灰になった。指の隙間から、かつて存在した何かのかけらが、細かな塵となって零れ落ちる。それは音もなく、風もなく、ただ虚無に吸い込まれて消えた。
*
二人の戦いを止めなければならない。
しかし、誰にその間に入る勇気があるのか。
「私が行こう。いくらモリアでも、ルーが相手じゃいずれ持たなくなる。プロトタイプが抜かれる前に、何とかしなければ。」
先に戦場へ戻ることを決めたのは、毛玉だった。
今の危険を重々承知している。だが――モリアへの愛が、彼をそう駆り立てた。
「いいえ、マオウさんが向き合う相手はモリアさんです。
天使様のことは、私たちに任せてください。」
しかしセリナは、その提案を却下した。
それはさすがの毛玉も面食らう一言だった。
「明けの明星だぞ。君たちが相手にできるものじゃない。
一度彼によって、全員が死んだだろう。迂闊なことをするな。
君たちの依頼も達成している。大人しくここで待っていればいい。」
「お断りします。」
「俺も嫌だね。」
「吾輩もまだやれるであります!」
「う……ちだって……」
全員一致。
誰一人として、安全地帯でただ待つことを選ばなかった。
ベリアル戦の時も、リバエル戦の時も、折れた彼女たち。
だが、今回は――折れなかった。
「どうしてだ……言ったはずだ。君たちを守りながら戦えるほど、敵は甘くない。
死ぬぞ。それも――百パーセントで。」
「マオウさんにとって、モリアさんは敵ですか?
戦わなければならない相手ですか?」
「それは……違う。だけど、試練がある。
私は彼女と一緒にいるために、彼女より強い男だと証明しなければ……」
言葉は濁り、決意も鈍る。
毛玉はそれだけを信じて、ここまで戦ってきた。
戦い以外の道を、彼は想像したこともなかったのだ。
「バーカ。」
レンはしゃがみ込み、毛玉と視線の高さを合わせた。
そしてそっと、毛玉の手を取って、自分の心臓の位置へと置く。
「感じているか? あんたと見つめ合っているだけで、俺はこんなにもドキドキしてるんだよ。
女を落とすには、力じゃないと――俺は思う。」
「え? 吾輩は白色矮星が見たいであります!」
「空気を読め。」
エンプラが戦いがないと聞いて失望を露わにすると、隣のザガンが無理やりその口に綿を詰めて黙らせた。
「凄いな……モリアも、そうな風になるのかな。
人の心は、力では動かせないか……
ルーにあれだけ偉そうなことを言ったのに、私もまだまだ人の心を理解していないや。」
「ちょっと、なんであんたがドキドキしないのよ!
俺の……触ってるんだから、ちょっとくらい顔を赤らめなさいよ! こんなの不公平じゃない!」
「ドキドキしているよ。なんだか初めて、モリアとシンクロした気分だ。でも――」
毛玉の、少し和らいだ表情が、再び引き締まる。
「ルーを落ち着かせないと、何も始まらない。だから、やはり――」
「セリナたちを、任せてください。」
後ろから、セリナが毛玉を強く抱きしめた。
「マオウさんは、モリアさんに専念してください。
私たちを――信じてください。」
――迷いの末に。
毛玉は、諦めたかのように息を吐き出した。
「……わかった。
でも、絶対に生きて帰ってくれ。
もう、あの時の悲しみを味わいたくない。」
ルキエルと最初に遭遇し、彼女たちが全滅したシーンが蘇る。
それは毛玉にとって、あまりに痛い、痛すぎる記憶だった。
「あまりの痛みで、君たちを忘れてしまう。
それはモリアを失うのと同じくらい、つらいことだ。だから――お願いだ。」
――死なないで。
最後の言葉は、言えなかった。
それを言えないほど、今の毛玉は弱っている。
そして、それが彼が一番人間らしい時でもあった。
「約束します。
だって――まだモリアさんに借りがあるだけですから。
マオウさんは、セリナだけのマオウさんですから。」
最後に、毛玉の頬にキスを残して。
セリナは、毛玉以外の他のメンバーと共に、戦場へと向かった。
*
「あの悪魔はどこへ行った。ちょこまかと。いっそプロトタイプで逃げられなくしてやろうか。」
ルキエルはあちこち逃げ回るモリアを追いかけ、さすがにうんざりし始めていた。
全能の彼なら、聖剣プロトタイプで世界のルールを書き換えれば、モリアはもう逃げられなくなる。
でもそれはちょっとチートじみている。ルキエルのプライドで、最後までしないと決めた――それが自分に課したルールだ。
今こそ、それを使う時じゃないか――ルキエルは本気でそう思っている。
が、その時。
「降参であり……じゃなかった。降参ですわ。」
モリア?らしい人物が、白旗を振り回している。
顔は完全一致。服もさっきと同じ。だけど、どこか雰囲気が違う。
強いて言えば――
アホっぽい。
「は?」
さすがのルキエルも何が起きたのか理解できず、満天のアテナ状態。
「吾輩、じゃなかった、私は全てを知っているので、あなたに勝てないことも知っているわ。だから、無駄に疲れたくないの。」
必死にモリアの話し方を真似しているが、誰が見ても一目でそれがエンプラだとわかる。
――でも、ルキエルはそんなことを気にするほど繊細じゃない。
彼を騙すには、これで十分だった。
これはセリナが考えた策である。
エンプラはモリアの子供として製造され、顔はそのまま彼女とそっくりに作られている。
髪色は違って灰色だが、それは染めればいいだけのこと。ロボのエンプラにとって、お茶の子さいさい。
さらにザガンとセリナが頑張って、モリアと同じ服を短時間で縫い上げた。
見た目だけなら、見分けがつかないほどできている。
――見た目だけなら。
二人の争い。別に、どちらかが死ななければ解決できない憎しみなどない。
だから、どちらかが折れれば解決できる。
しかし、全知のモリアにそんなできの悪いおままごとが効くはずがない。
だから、ルキエルの方でなんとかするしかないのだ。
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「でも、僕のことビンタで殴ったよね。『降参です』で許せると思ってるの?」
――いきなりの予想外な展開。
モリアがルキエルに攻撃を入れた? 誰もそんなこと、思わなかった。
無線機の向こうで、セリナは頭をフル回転させる。
なんとかしないと、エンプラが危ない。
「ならば、わが……じゃなくて、私の顔を殴ってください。」
だが、その先に――エンプラが既にアドリブを入れ始めていた。
(エンプラちゃん?!)
ルキエルの力は強力だ。拳の一撃は、先のように世界一つを潰す威力がある。
下手に殴られたら、エンプラが粉微塵に……
(大丈夫であります! ちゃんとデータをバックアップしたのであります。予備の機体にデータを入れれば、大丈夫であります!)
前回の教訓を踏まえ、エンプラは人格データをクラウドに毎日アップロードするようになった。
予備の機体も準備してある。もし今の機体が破壊されても、記憶と人格をそっちにインプットできる。
ポンコツが、少し賢くなったのだ。
「さあ、殴ってください! 思いっきり殴って! さあ、遠慮はいらないから! さあ!」
「もういい、キモすぎる……近寄りたくもない。」
元気よく「殴ってください」アピールするモリア(エンプラ)に、ルキエルすら引いている。
彼にとってモリアは決していい印象を持っていないが、倒すべきライバルとして、それなりに認めていた。
それが――今のギャップで、今まで信じていた何かが壊れていく。
でも、エンプラは逆にガッカリした。
せっかく準備して、活躍できるのに、それを無駄にしたくない。
なので、さらにしつこく迫る。
「そんなこと言わずに、ね? 殴り心地はいいですよ。ドクター、じゃなかった……彼からも評判なんです。騙されたと思って、一つ試してみてはいかがでしょうか?」
「キモイキモイキモイ! 来るな!」
ルキエルは今すぐ、目の前のモリア(エンプラ)をどうにかしたい。
だけど彼は思う――陰湿なモリアのことだ。ダメージは負わせられなくても、嫌がらせはできる。
これもきっとその罠の一つ。破壊しようとすると、とんでもなくグロいものを見せて、SAN値を減らしに来るに違いない。
そんな硬直状態の時――
「ルキエル様。そんなつまらない相手を構っている暇はないでしょう? お菓子などいかがでしょうか。」
現れたのは、執事服で男装したレンだった。
ルキエルが女を極度に嫌っているため、近づきやすくするために、レンは男に偽装したのだ。
「誰だ、お前?!」
「ルキエル様がお覚えになるほどの者ではございません。
この度は地獄へお越しくださり、誠にありがとうございます。
同伴の毛玉様から仰せつかりまして――『お菓子の家』へご案内せよ、と。是非ご堪能くださいませ。」
「お菓子の家!? ふん~マスターからの? ……あれ、マスターは?」
ようやく毛玉の不在に意識が向いた。ルキエルは周りを見渡す。
「毛玉様は後ほど参ります。ルキエル様の方で先にお越しいただき、共に食事をする準備を整えたいとのこと。
お可愛い方ですね。」
「マスターなら、別にいいのに……まあ、僕は心が広いから許してやる。
で、それは嘘じゃあるまいな。」
――完全に引っかかりそうでいるが、ルキエルはまだ完全にレンを信じているわけじゃない。
次の行動で、彼からの信頼を得られなかったら……
約束を守らないと。
(レン、早くそれを……)
無線機で、セリナから次の指示がレンに下る。
プランC、起動。
「ははは、お戯れを。
毛玉様もおっしゃっておりました。『悪魔モリアが秘蔵する絶品チョコレート――これは私が前日、偶然手に入れたそのおこぼれだ。お先に品定めしてみてはどうか』と。」
レンは、用意した箱を開いた。
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その箱は、まるで宝石を収めるための小さな宝物庫のようだった。
深いワインレッドのベルベットを張った内装に、12個のチョコレートがそれぞれに与えられた小部屋で静かに眠っている。
最初に目を引くのは、金箔をあしらった漆黒の正方形。
墨のような黒い艶やかな表面に、線香花火のような細かな金の線が走り、その中心では本物の金箔がひとかけら、そっと置かれている。まるで真夜中の空に浮かぶ一番星のように。
その隣では、マーブル模様の円形チョコが、まるで小さな抽象画のようだ。
純白のホワイトチョコに、ビターなダークチョコが墨流しのように混ざり合い、一本一本の模様が二度と同じ形を作らないことを主張している。
真紅のハート型は、ベルベットのようなマットな質感で、表面に繊細なバラの花びらのエンボスが施されている。
光の加減で浮かび上がるその模様は、まるで本物の花びらを押し花にしたかのようなリアルさだ。
球形のチョコは、磨き上げられた宝石のように艶めいている。
深い琥珀色のグラサージュが、内部のフランボワーズのコンフィチュールをほのかに透かせ、まるで小さな万華鏡を覗き込んだような神秘的な輝きを放つ。
一見すると無造作に置かれた金平糖のような小さな粒も、実は一つ一つが手作業で作られた芸術品だ。
紫芋のパウダーをまぶしたもの、抹茶の微粒子的なざらつきが美しいもの、柚子の皮の細かな粒が表面を飾るもの――
それぞれが異なる質感と色彩のハーモニーを奏でている。
最後に目に留まるのは、一枚の「キャンバス」。
正方形のチョコレートの上に、カカオニブがまるで点描画のように散りばめられ、さらにその上にドライフラワーの花びらが、まるで風に舞うがままに落ちたかのように配置されている。
――これらすべて、ザガンが石で変えたものである。
彼女の能力は、ものの本質を変えない。
だが、見た目、匂い、食感――それらは完璧に再現できる。
「これは……チョコなのか?!」
ルキエルの目が、煌めいた。
早速、そっと一つを手に取る。口に運べば――
まずパリッという繊細な音とともに、薄いシェルが割れる。
次第に、中のガナッシュがとろけるように広がっていく――
時間さえも忘れさせる、至福のひとときへの誘い。
「美味い!!!」
そう、味まで完璧に再現できる。
チョコとしての栄養はない。
だが、食事を道楽の一種として、食べる必要すらないルキエルにとって――
見た目と味こそが、一番重要なのである。
「お気に召していただけて、幸いでございます。
しかし、ここにあるのは、ほんの海から出る氷山の一角。
本当のお楽しみは『お菓子の家』で……ごゆっくり堪能いただけますよ。」
「あ?!」
気づけば、チョコの箱はもう一掃されていた。
しかし、ルキエルの口はまだ寂しい。チョコの味で頭がいっぱいだ。
「でも……マスターが僕を見つけられるかな……」
モリアのことは、もう完全に忘れている。
彼の唯一の心残りは、まだ現れていない毛玉だけだ。
「毛玉様は、後ほど必ず参ります。ご安心くださいませ。
それに、彼が全能のルキエル様から逃げられるはずもございませんでしょう?」
「そうだね、そうだよね。うん。
じゃあ――お菓子の家へ、出発!」
「はい、ご案内いたします。」
執事のレンが、エンプラにサインを送る。
撤退せよ――の合図だ。
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一方、三千世界の一つの世界で。
セリナとザガンは、忙しくお菓子の家を構築していた。
セリナが材料を集め、ザガンが能力でそれをお菓子に変える。
ルキエルが来るまでに、十分に彼を足止めするためのお菓子の家を作らなければ。
*
一方、もう一つの世界に――本物のモリアはそこにいた。
ここは、彼女と毛玉が最初に出会った世界と同じように、ラベンダーの花で埋め尽くされている。
彼女はその上に、ラベンダーの冠を作っていた。
「演技の才能がないのね、あの子。私はあんなにアホくさくないもの。でもまあ、今回だけは許してあげる。何せ――お母さんだもの。なのに、あの子は純粋なパパの娘私には懐かないもの。ふふふ。」
――いらっしゃい。
毛玉も、そこへ着いていた。
探す必要はなかった。彼が隣で一番近い世界に入ると、もうモリアはそこにいた。まるで、ずっとそこで待っていたかのように。
「『あなたを待っている』――初めてこの花の海を見たとき、そんなことを思わなかった。異世界で花言葉を勉強した。だけど、その日見たのがラベンダーだってことを忘れていたんだ。ずっと、私を待っていたのか。モリア。」
「さあ、どうかしら? 偶然かもしれないわ。ふふふ。」
出来上がった花冠を頭に乗せ、モリアはまだ新しい冠を作り始める。
「それで――七十一枚のコインを集めた毛玉は、最後に、私を倒しに来たのかしら? いいわ、付き合ってあげる。何千年でも、何万年でも、あなたが気の済むまで――ずっとね。」
モリアはゆっくり立ち上がり、軽くドレスに付いた土をはらう。深呼吸をした。
「いいえ、私は戦わない。だって、君とは敵でもないし、恨みがあるわけでもない。」
「理由ならあるわ。だって、あなたは私が欲しいのでしょう? でも私は、私より弱い奴のものにはならないわ。それで――足りるかしら?」
「いや、そうじゃないんだ。」
毛玉は頭を横に振り、それを否定した。
「それは違う。あの時の私は、『愛』が何なのかを知らなかった。君を独占したら、きっと私は幸せになれると思った。だけど違ったんだ。私は『欲しい』じゃなくて、『愛している』と言うべきだった。」
「それは、どこが違うのかしら? 愛しているから、だから自分だけのものにしたい。何も矛盾していないわ。少なくとも私にとっては――両者は同じこと。」
「君は、嘘をついた。」
毛玉がこれから言うことは、全知のモリアは全部知っている。
だけど彼女は、動揺を隠すことができなかった。
結末を知っていても、人はその過程で溢れる感情を抑えられない。
彼女は『全知』であって、『全能』じゃないから。
「今のこの時刻は、正史じゃない。何せ、正史から来たセリナたちがいる。それは私が正史で君に勝ち、君を手に入れた証拠だ。それなのに、君は彼女たちを千年後から今に呼んだ。それは――君が納得できていないからじゃないのか?」
「何を勘違いしているのかしら? それはあなたが遅いからよ。もう六千年も待ったの。それ以上待てないから、永遠の命を餌に彼女たちを利用しただけ。結果、見事に千年も早めることができた。ええ、さすが私。」
なおも無理して平気を装っているが――それも長くは持たないことを、彼女は知っている。
「他の女の子を私にくっつけるくらいに? 嫉妬の王がそんなことをするくらいで、千年も待てないか? 私はそうは思わないな。」
「でもね、私は理屈で何かを証明するつもりはない。彼女たちのおかげで、私は知ることができたんだ。」
「私は――モリアのことが『愛している』。私は君の側にいたい。それも『何千年』『何万年』じゃなく――『永遠』にだ。」
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ラベンダーの花海が、彼の一言で色を変えた。
紫の波が、まるで呼吸をするように揺らめきながら、ゆっくりと、しかし確かに赤く染まっていく。
それは夕焼けが空を焦がすように、あるいは恋する少女の頬が火照るように、濃淡さまざまな赤へと変わっていった。
ラベンダーはたちまち、血を滴らせるような赤いチューリップへと姿を変え、花々は風もないのに甘やかにざわめく。
長い間閉じ込められていた時が、優しい音楽を奏でながら動き始めた。
空には、今まで存在しなかった雲が流れ、茜色に染まっていく。
「ずるいわ……こんなの、ずるいもの……」
「あなたから『愛している』と言われたら、『女の子』としての私が勝てるわけないじゃない。もう『男の子』としての私は、正史で完全にあなたに壊されていたのに。」
「モリア。」
毛玉は片膝を地につき、彼女の手を取った。
「私の――嫁になってくれないか。」
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彼女の黒いゴスロリドレスの裾が、揺れる。
けれど次の瞬間、その黒いフリルの波が、愛しい人の手に撫でられるかのように優しく姿を変え始めた。
幾重にも重なっていたフリルとレースが、音もなくほどけ、長く優雅なトレーンとなって彼女の後ろに流れる。腰を締めていた黒いサテンのリボンが、彼の視線に応えるようにして解け、繊細なレースのコルセットが現れる。袖が滑り落ち、今まで隠されていた白い肩が露わになった。月光のごとき淡い金の髪を飾っていた黒いヘッドドレスは、いつしか彼だけが知るティアラのように、彼女の頭を優雅に飾っている。
――黒いウェディングドレス。
先までのゴスロリドレスが持っていた愛らしさとは違う、凛とした美しさがそこにはあった。闇夜をそのまま纏ったような深い黒。光を吸い込むようなマットな質感のスカート部分と、胸元から肩口にかけての繊細な黒のレース。裾に向かって広がるシルエットは優雅で、彼女の細い肢体をより一層引き立てている。長いトレーンには夜明け前の空のような深い藍色の刺繍が施され、彼女の歩みに合わせてほのかに輝いた。
「これは、返事として不足かしら?」
『あなた以外には染まりません』――それは彼女の意志を示している。
もし恋は、先に惚れた方が負けだとするなら――彼女は最初から、負けていた。
「最高に綺麗だよ。私のお嫁さんは。愛しているよ。モリア。」
「私も愛しているわ。ずっと、ずっと、ずっと――愛しているわ。あなた。」
風が吹いた。
偽物のはずの花の香りが、初めて本物のように鼻腔をくすぐる。
甘く、切なく、胸の奥を締め付けるようなラベンダーと、情熱的なチューリップの香りが混ざり合い、彼女を包む。
「キスして。こういう時は、男の子からリードするのが決まりでしょ。」
それは囁きというより、息のように零れた言葉だった。
白い頬が、ほんのりと桜色に染まる。
この時が来るのを、もう何千年前から知っていたのに――その心臓の高鳴りを抑えられないほど、彼女は苦しんでいた。
「わかった。」
唇に、柔らかなものが触れた。
それは温かく、優しく、二人の鼓動が直接伝わってくるような、不思議な感覚だった。
彼女の冷えた唇が、じんわりと溶かされていく。
初めての感覚に、モリアの指が無意識に彼の腕を掴む。
――離れようとする彼を、彼女は追いかけた。
「キスが下手ね。あの娘たちと練習しなかったのかしら?」
そう言いながらも、名残惜しさに――もう一度、もう少しだけ、と願うように、彼女が目で訴えている。
「それは不誠実ってものじゃないか? で、うっ!」
完全に意図を組めない毛玉に、今度はモリアからキスをした。
再び、唇が重なる。
今度は――さっきよりも長く、深く。
止まっていた時間が、動き始めた。
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そして、長い試練は終わった。
依頼達成。
第184話まで読んでくださり、ありがとうございます。
この章で描きたかったのは、
「強さ」ではありません。
毛玉は負けられない存在でした。
だが本当に勝たなければならなかったのは、
ルキエルでも、神でもなく――
“孤独”でした。
『欲しい』は、独占。
『愛している』は、共有。
その違いに辿り着くまで、
八千年かかりました。
黒き花嫁は、呪いではなく祝福。
孤独地獄は、もう存在しない。
そして物語は、まだ続きます。
神話は終わらない。
愛もまた、終わらない。




