喩え意味を失うとしても
一度広場に戻ってきたファジルを迎えたのはグォウ=ヴだった。
「話は終わったのでは無いのですか?」
『見聞きしたものに簡単に取り乱し、自死を選ぼうとする愚か者へ忠告をする事にした』
「見ていたのですか……」
ファジルの心に恥が浮かぶ。
『神の目が目玉の先だけを見ているとは思うな』
それもそうだとファジルは思った。どこか人間臭い振る舞いに忘れかけていたが、目の前の存在はあの蛇なのだ。幼子が蟻の群れを無邪気に弄ぶが如く、人を滅ぼす事が出来るあの爬いずる鎖なのだ。
『何処か記憶の彼方に飛んでいた様だが、失ったものは汝が勝利すれば取り戻せる』
「……あ」
――――私は何という事をしてしまう所だったのか。
グォウ=ヴの言う通りだった。ウマルが死したとしても、まだ可能性は残っている。蜘蛛の糸すら頼りに思えてしまう程に細い可能性だが。動揺のあまり、ファジルはその細い糸すら切り捨ててしまう所だったのだ。
『ただし、失った全てを取り戻せるとは考えない方がいい。神はそこまで人に都合の良い存在では無い』
それだけを最後に言い残し、グォウ=ヴはまた姿を消した。
「全ては取り戻せない……あの頃にはもう、戻れないと言うことですか」
ファジルは円卓で過ごした日々を思う。全てが上手く行っていたとは言わない。しかし、あの日々には確かな幸せがあった。この先の日々には更なる幸せが待っている筈だった。
だが、その日々はもう帰っては来ない。
ファジルは一度、心を整理する事にした。自身の行動に一本の柱を建てる為に。
敵は誰だ? 一体誰が悪い? 誰を憎めば良い? 仲間か? ヨク=ゾトースか? グォウ=ヴか?
仲間達は、巻き込まれただけだ。あのエウフォリオンでさえ、その後の所業は別としても、この異変に巻き込まれた被害者なのだ。
ヨク=ゾトースは言ってしまえば、呼び掛けに応えただけ。悪辣な遊戯を仕掛けて来ては居るが、それは変わらない今日を見かねての事だろう。ハイパーボリアを滅ぼそうとしている事については……人が靴の下の生き物を気に止めないのと同じだ。元凶とは呼べない。
グォウ=ヴはこの異変の最後の一押しをした。責任が無いとは言えないので必ず報いを受けてもらう。だが、グォウ=ヴが何もしなかったとしても、いずれこの異変は起きていただろう。何故なら彼は、何十年も、かけて準備を行っていたのだから。更に何十年をかけてでも実行したに違いない。
「そう……先生。最早、先生と呼びたくもない。アイモス……!」
儀式の為だけに弟子を集め、何百人という弟子を死なせ、十二人の弟子とハイパーボリアの全市民をこの地獄に叩き込んだ張本人。
現状、旧き神々側の代理人としてまんまと人類にとって正義の側に立ったあの老人は今、一体何処でどんな顔をしているのだろうか。
「少なくとも、あなたとエウフォリオンだけは、平穏無事では済ませませんよ、アイモス」
ファジルは血にまみれた拳を握りしめた。
◇◆◇
暫く後、ファジルは霧の柱の外に出ていた。
見慣れた暗緑と白亜のコントラストが出迎え、極北の氷河から流れる冷たい風に身をすくめる。
一度家に帰ろうとし、ふと思った。
――――あの時私が本当に死んでしまっていたら、父はどうなっていたのだろうか。
ファジルを忘れて幸せに暮らしただろうか? 否、きっと、自分が死ぬまで一人で妻と娘に祈りを捧げる事に人生を使うだろう。自死というのは、周りの人間の人生をも殺してしまう事が出来るのだ。
「あの時はそんな事、頭に浮かびすらしなかった。動揺すると考え無しになり、衝動で動いてしまう癖だけは本当にどうにかしなければなりませんね……」
そう呟いて家路を歩くファジル。
街に違和感を感じた。霧の柱に向かう時はあれだけ見かけ、四度の戦闘すら起きたあの兵士達を、ただの一人も見かけない。
「諦めた……? まさかそんな筈は……」
――――嫌な予感がする。
ファジルは考えた。兵士達が自分を探していないのは何故か? もう探す必要が無いのではなかろうか。そう、例えば、自分からエウフォリオンの元に赴かなければならない様に仕向けているとか――――
「――――お父さん……!」
思い付くが早いか、瞬時に駆け出すファジル。兵士達はファジルの事をマンガイの娘だと認識していた。当然、ファジルの父であるマンガイに魔の手が伸びる事は大いにあり得る。
エウフォリオンには実際、マンガイを殺された際に激昂する様子を見せてしまった。マンガイを人質にするなど、いかにもエウフォリオンが思い付きそうな外道では無いか? 半ば確信に近い想定にファジルの足は速まる。
「何で! もっと早く思い付かなかったんでしょう! ああ! 自分の間抜けさにほとほと嫌気が差す!」
街を駆け抜け、ファジルは家にたどり着く。目に入ったのは無惨に打ち壊された玄関。
「お父さんっ!」
ふらふらと揺れる外れかかった扉を蹴り開け、ファジルは家に飛び込んだ。
玄関には兵士が二人待ち構えていた。
「ファジルだ! 捕らえぃ!」
二人の兵士は一斉に抜剣し、ファジルに斬りかかる。鎖分銅を手にし、ファジルは叫ぶ。
「お父さんを……どうしたぁっ!」
叫ぶと共に撃ち放った分銅の奇襲が一人目の兵士の頭を砕く、仲間の脳漿を浴びながら、二人目の兵士がファジルに突撃した。
「シイィィィッ!」
ファジルに剣を振り下ろす兵士。ただ愚直に振り下ろされる剣の対処は、ファジルにはもう慣れたものだった。
鎖で受け止め、捻り、絡めとる。それだけで兵士は簡単に姿勢を崩す。後は、手を思い切り蹴飛ばすだけで剣は明後日の方向へ飛んでいくのだ。これは、外で出会った兵士を相手に四度繰り返されたファジルの常套手段だった。
「単調すぎる。誰も彼もただ剣を振り下ろすだけ。舐められたものです。エウフォリオンはこの程度で私を捕らえられると思っているのですか?」
丸腰になった兵士を睨むファジル。
「お父さんをどうしたのですか? 答えなさい!」
敗北すれば情報を渡すよう仕向けられていたのか、兵士は打って変わって大人しくなり、答えた。
「城の地下牢へと連れていった。一刻後には、ウズルダロウムの展望塔前広場に連れていき、その場で処刑を執り行う」
「なんですって……!」
ファジルの全身が震える。怒りによってだ。
「お父さんは何も関係無い! 何故処刑されなければならないのですか!?」
「イホウンデーに背いた魔女を匿っていた罪だ。エウフォリオン様からの伝言を伝える。『お前のせいで父親が死ぬ。嫌なら死を覚悟して広場に来い』とのことだ」
「エウフォリオンッ……!」
激情のままにファジルは目の前の兵士を打ち砕かんと腕を振り上げる。だが、踏みとどまった。怒りのままに大した意味も無く他者を殺す事は、エウフォリオンと同じ外道に堕ちていく様なものだ。
外では散々兵士を殺した。最早、手遅れなのではないかとは思いながらも、ファジルは最後の良心を取っておくことにした。
兵士にここから去るよう手で追い払う。黙って従い、壊れた扉から外へ出ていく兵士を見送ってファジルは呟いた。
「広場……?行くもんですか、まだお父さんは牢にいるんでしょう? 連れていかれる前に、助ける。もう死なせはしない」
エウフォリオンが聞けば、どうせ次には元通りだと言うのにと嗤うだろう。しかし、だからと言って父を見捨てるのは、自分の中でまだ正常に機能している何かが壊れる。ファジルはそんな気がしていた。
ファジルも外に出る。王城はファジルの家からは霧の柱より近く、一刻もあれば地下牢に達する事くらいは出来るだろう。
霧の柱から家まで走り、兵士二人と戦ったファジルの息は既に厳しいものになっていたが、喉に血を感じながらもファジルは再び走り出した。
「死なせるもんですか……! 全て無駄になるとしても……!」




