最初で最後である筈の 下
ファジルは飛び起きた。辺りを見回せば、薄暗い中でも見える見慣れた家具の数々。どうやら、ファジルの自室のようだ。ファジルは自室にあるベッドでローブを着たまま寝ていたのだ。息は荒く、全身は汗で湿り、直ぐにでも着替えなければ不快で堪らない。
「え……? あ、あれ……?」
――――自分は死んだのではないのか? 彼に殺されたのではないのか?
困惑するファジルはそっと自身の左胸に、喉に手を当てて見る。切り裂かれ、貫かれた感触は肉体にこびりついていると言うのに、傷も、生温かい体液のぬめりも、何処にも無い。
「あれは……夢? でも、まさか……」
夢であると結論付けるのが最も真っ当な感性なのだろう。しかし、自分の精神があんな夢を――――変わり果てた街、人々、おぞましき蛇や積み重なる死を――――見てしまう程の狂気に冒されているとは思えない。それに、今の状況には信じがたい程の近似感がある。
――――そうだ、直ぐに確かめる方法があった。カーテンを開けば良いだけなのだ。
ファジルは窓に飛び付き、カーテンを開け広げる。
「……あぁ」
目に飛び込んで来たのは、やはり一度見た景色。暗緑の雲、霧、アイモスの塔を覆う霧の柱……
あれは夢では無いのだ。
――――ならば、何故私は生きている?
そんな当然の疑問にファジルが行き当たった瞬間、部屋の扉が開いた。
ファジルは身を縮めて開く扉を見守る。これもまた近似感だった。果たして、入ってくるのは父か、それとも……
「ファジル? いつ戻ったんだい?」
幸いな事に、入ってきたのは父の方だった。部屋の中に居るファジルを見て目を丸くしている。ファジルは大きく息をついた。
「いや、とりあえず君が無事で良かった。アイモス殿の塔から異常が始まったと聞いて生きた心地がしなかったのだよ」
「…………?」
ふと感じた違和感にファジルは首を捻る。父の言葉は、今朝も聞いたものだ。それも、一言一句違わない。
「今日は塔で儀式をするのでは無かったのかい? いや、君があの霧の柱の中に居なかった事は大変喜ばしいのだが、この異常事態だ、知れる事は知っておきたい。君の知る事を教えてくれないか」
違和感はますます膨れ上がる。ファジルは一つ、父に尋ねてみる事にした。
「あの……さっきも、話しましたよね……? この異変について」
「何を言っているんだい? 少なくとも、空があんな事になってからは一度も君と話してはいないよ」
「……!」
これはどういうことだ? ファジルの困惑は最高潮に達した。自分が経験した様に感じた事はやはり夢、それも予知夢の類いだったのだろうか。それとも、もう一つ可能性があるとするならば――――
時間が巻き戻っているのではないか?
それは、あまりにも現実離れをした思い付きだった。しかし、神々が集う異変の中では、そんな事もあり得るのかもしれない。確かめるならばやはり、再びあの霧の柱の中に向かうべきか。
そうと決めたファジルの行動は素早かった。前回の様に、疾風の如く駆け出し、マンガイの脇をすり抜ける。
「ファジル! どこへ行くんだ! ええい追いつけん! いいか――――」
また一言一句違わぬ忠告を送るマンガイを背後に、ファジルは外へ飛び出した。
流れ行く光景はやはり見覚えのあるものだった。気分が悪くなる空模様、弱々しい松明の灯り、尋常では無い人々に変わりは無い。
道中、記憶にある市民を見かけた。兵士と揉め、切り殺された市民だった。今まさに、兵士と揉めている場面であった。まるっきり同じだ。少なくとも、自身が夢か現か体験した出来事達は、また自身の目の前で起きる事は確からしい。
兵士が剣を抜いた。今まさに市民が切り殺されようとしている。
「今なら、助けられる……?」
ファジルには何の見返りも無いどころか命を落とす危険すらある選択であるが、助けられる命を見捨てる程非情にはまだなれなかった。
兵士の背後に陣取り、ローブの裾から鎖分銅を取り出し、構え、分銅を回すファジル。市民がファジルに気付き、あっと声を上げた所でファジルは分銅を投げ、兵士の脇の石畳に叩きつけた。
「なんだ!?」
地面に跳ね返され、重々しい音を発する分銅を、そして、分銅に繋がっている鎖の先に居るファジルを、兵士は憤怒の目で凝視する。
一瞬にして鎖分銅を引き寄せ、回収すると、ファジルは裏路地へと全力で疾走した。背後から兵士が追ってきているのであろう獣の様な怒声と鎧の各部がぶつかり合う騒音が聞こえる。
逃走の最中、ファジルは背後の地面を指差した。
「壁!」
叫びと共に指を空へと振り上げれば、地面から炎の柱が立ち上ぼり、壁を形成する。壁の横幅は大したものでは無かったが、人一人が漸く走れる程度の裏路地を塞ぐには十分であった。これで兵士は諦めるだろうとファジルは思った。しかし……
「ヌゥアァァァッァ」
兵士は咆哮を上げて炎の壁に突入した。まるで認識すらしていないかの如き躊躇いの無さであった。分かりきっていた筈だったが、やはり正気の人間の行動では無い。
「ひっ」
油断していたファジルは硬直し動きを止めてしまう。しかし、ファジルの魔術は至極真っ当に自身の仕事を果たした。通り抜けようとする不埒者を焼き殺す壁は、例え対象が燃えにくい鎧を着込んでいようとも、その炎で侵入者を包む。
「アァァッ! 熱いッ!熱いッ!」
鎧の上に炎の外套を着る羽目になった兵士は漸く人間らしい感性を取り戻したのか、もがき苦しむ。どうにか炎を消そうと手足を振り回し、地を転がるが、炎は兵士にまとわりつき続けた。熱されやすい金属の鎧は既に、兵士の身体を焼く焼きごてとなって兵士の肌を肉を焦がす。
殺すつもりはファジルには無かった。壁を警戒して退いてくれればと軽い気持ちで放った魔術だった。それが、相手が正気では無かったばかりにこんな結果になるとは! ファジルは急ぎ魔術の炎を消し去るも、最早手遅れ。
兵士の肌が見える部分は、変色した鎧と肉が一体となっていた。兵士は最後の力を振り絞るようにファジルへと手を伸ばし、届くこと無くその手は地に堕ちた。そして二度と動く事は無かった。
ファジルは初めて人を殺した。
「あ……ぁ……」
人の死体を使った魔術儀式を行う事はあった。多くの死体を見てきた。しかし、確実に自身の行動が原因で人が死んだ事は初めての経験だった。
「わ、私は……人を助けようとしただけ。自分を助けようとしただけ。あなたが悪いのですよ! 魔術の炎に自分から入っていくなんて愚行をするから!」
叫び捨て、ファジルは死体に背を向け走る。そうだ、自分は悪くない。悪いのは兵士だ。自分は市民を救ったのだ。狂える兵士から……
◇◆◇
四半刻程走り、ファジルは霧の柱の近辺まで来ていた。殺人は尾を引いて居たが、止まるわけにはいかなかった。自身に何が起きているのかを、仲間達に何が起きているのかを、世界に何が起きているのかを、解き明かさねばならない。使命感に突き動かされファジルは歩いた。
アイモス研究所の入り口にたどり着く。随分と騒々しい。見れば、あの蛇に殺戮の限りを尽くされた筈の混成軍達だった。やはり、指導者が一言一句違わぬ演説をしている。
ファジルは混成軍から目を離し、地下通路へと続く裏路地に入った。見覚えのある浮浪者達の間を通り過ぎ、通路の入り口の廃墟の前に立つ。
破壊した扉は元通りだった。扉を蹴り破り、中に入るファジル。そのまま指に火を灯し、坑道に入った。
何の変化もない坑道を通り、跳ね上げ扉を開き、暗緑の霧を一杯に吸い込む。壁を伝って倉庫から脱出し、少し歩けば爪先にぶつかる何か。
アイモスの弟子の死体も変わらずそこにあった。最早多少の胸の悪さしか感じず、ファジルは死の河を通り過ぎる。
広場の前に立った。霧に侵入してからここに至るまで躊躇い無く歩いてきたファジルだが、ここに入るのは勇気が要った。入れば、きっとまたあの恐怖の象徴に出会う事になるのだ。
「大丈夫……入り口に入ろうとさえしなければ襲われない」
意を決して踏み込む。霧が薄れ、視界が利く様になる。そして……例の異臭。前回は自身の周りしか見渡さず、上に注意を払っていなかった。思い切って塔を見上げてみた。
やはり、それはそこに居た。全身に漆黒の鎖を纏った蛇の様な何か。爬いずる鎖とも言うべきそれは、霧の中から無機質にファジルを見下ろしている。
――――恐ろしい。
ファジルはただそう感じた。混じりけの無い純粋な恐怖。心を鷲掴まれ、直接揺さぶられている様な、身体の芯から来る震え。自身など人にとっての地を這う虫にも満たないのだと理解させてくれる、絶対的な存在としての差。
――――前に感じたものと、全く同一だ。
もう、良いだろう。ファジルは思った。自身が時間溯行をした事は逃れようの無い事実だ。きっと予知夢でも無い。夢と呼ぶには全くもって現実的すぎた。認めよう。そして、そうと理解したからには、この先の惨劇をわざわざ見届ける必要は無い。
広場へと近づいてくる鬨の声に背を向け、ファジルは霧の中に戻る。暫くして、背後から耳をつんざく金属音と悲鳴が聞こえてきた。
◇◆◇
ファジルは街を歩いていた。腕を組み、うつむき、自身の現状に頭を悩ませながら、歩いていた。
時間溯行、にわかには信じがたい、しかし、そうとしか考えられ無い。出会った筈の人間はその事実を忘れ、死んだ筈の人間は蘇り、総じて人々はファジルが介入しなければ記憶と同じ行動をする。そしてそれは、彼にも適用されるのか……?
ファジルが今歩いている道は、自身が死を迎えた路地に続く道であった。ファジルは、自分を殺した男が再び自身を殺しにやってくるのかを確かめる気でいた。
我ながら、正気の沙汰では無いとファジルは思う。世界の狂気は自身をも蝕んできているのかもしれない。
生き残りたいのであれば、別の道を通るべきであろう。時間溯行がまた起きる確証も無い。しかし、ファジルにそうするつもりは無かった。それは、自身を殺した男の身体で唯一見えた部分、彼の腕に気がかりを覚えた為であった。その気がかりは、ファジルにとって、自身の命を賭けてでも解明したいものだったのだ。
かくしてファジルは再び、自身の死地を歩いた。何の因果か、全ての生命にとって本来、最初で最後である筈の生を終え、死を迎え、そして、また生を歩んでいる。
ここでまた死を迎えるかもしれない。そこで終わりかもしれないし、また繰り返すのかもしれない。
ファジルの背後に、足音が現れた。
背後を振り返るファジルが見た人物は――――
「お? 振り返られたのは初めてだ」
その人物は、暗緑の曇天の下にはそぐわない、能天気な声を出した。
「…………エウフォリオン」
「よう、ファジル。くそったれな天気だな」
ファジルの視線の先では、前回見た腕と同じ衣服――――アイモスの弟子に支給されるローブを着こんだエウフォリオンが、その青い瞳を爛々と輝かせ、不敵に笑っていた。




