最初で最後である筈の 上
初めて本作に評価を付けて頂きました。存外に嬉しいものですね……
評価をくださった方は勿論、全ての読者の皆様に感謝を。
「あれは、一体なんだったのでしょうか……あんなものが、このウズルダロウムに……」
この世には、たかが三年魔術を学んだ程度では頭に思い描く事も出来ない未知が存在する。そして未知とは、何にも増して深い恐怖の根源なのだ……そんな真理を頭に過らせながら、ファジルは暗緑の霧の中、研究所の入り口へと向かう道を弱々しく歩く。
あの蛇はきっと、ヨク=ゾトースでは無い。ヨク=ゾトースは恐らく、空を覆ったとされる化物の方だろう。蛇も巨体ではあったが、空を覆うと表現されるには至らない様に思える。
あの脅威と驚異の化身すら、ヨク=ゾトースには及ばないのだろうか。蛇は召喚の儀式が行われた筈の塔を守護していた。もしかすると、蛇はかの神の配下なのかもしれない。そうであるならば、神格であろう存在を配下にするヨク=ゾトースは、どれだけの格であると言うのか。
いずれにせよ、このハイパーボリアには今、幾多の神が集っているらしい。人類史に、否、この惑星の歴史にすら類を見ないであろう大事件が今起きているのだ。
「あっ……」
つらつらと考えを重ねて歩くファジルの爪先に、重い物が触れた。そう言えば、この辺りはアイモスの弟子達の遺体が積み重なって居た場所だ。
確認してみれば、やはり先程の死体達だった。何も変わらず、大量に、無惨に横たわっている。最初に見た時は堪えきれずに嘔吐したその光景も、あの惨劇を見た後では目を反らすようなものでは無い。
ファジルは死体を良く観察してみる事にした。やはり全身が火膨れにまみれ、溶解して骨が露出している部分が散見している。それを為した物体は――――全身に少しずつこびりついた、玉虫色の液体だろう。今もなお沸騰し、徐々に肉を蝕んでいる。
前回は気が回らなかったが、ファジルはこの玉虫色にどこか見覚えがあった。記憶を巡らせ心当たりを探せば、思い当たったのは家の窓から見た景色。暗緑の雲の隙間から洩れる光。
「同じ玉虫色……ヨク=ゾトースの影響と思われる光と、この液体の色が……なら、これはヨク=ゾトースの仕業……?」
そこまで考えた所でふと、ファジルの頭に閃くものがあった。ヨク=ゾトースは儀式によって呼び出された。召喚の儀式には専ら生け贄が要求されるものだ。ヨク=ゾトース程の大物となれば尚更だろう。実際、ウマルも召喚には生け贄を要すると言っていた。生け贄には通常、生きたままの家畜を用意する事が多いが……
「……ここしばらく、家畜を買い取ったと言う話は聞いていない。儀式の準備を秘匿する為に隠れて夜に行ったとしても、数が多くいる弟子の中には夜中に残っている者も多い。噂の一つくらい聞こえても良い筈。家畜を生け贄にする線が無いなら……まさか」
儀式の生け贄にはアイモスの弟子達が使われた可能性がある。この死体の山は、その結果なのではないか? そしてそれは、きっとアイモスが意図せずして起きた事では無い。
ファジルは身を屈め、震える膝を、震える両腕で抱く。心の芯からの震えだった。
欠点が無いとは言えなかった。しかし、三年もの間先生と慕ってきた人だった。そんな人が、一体いつからこんな惨劇を思い描いていたのか? 自分達は、こんな死体の山になるべくして集められたのか?
ファジルは振り返り、霧に隠された、そこにある筈の塔の頂上を見つめる。
「先生……あなたは一体、何を」
何より気になるのは、仲間達の顛末。
「祈祷文を配られ、わざわざ塔の頂上に呼び出された円卓派は恐らく、生け贄用の弟子では無かったという事でしょう。なら……きっと生きてる」
とは言え、アイモスの塔はあの蛇に守護され入る事が出来ない。逆に言えば、中にいるかもしれない仲間達が外からの脅威に脅かされる事は無い、と言えるだろうか。ならば、皆が塔には居ない可能性を考えて外を探してみるべきだろうか。
「とりあえず一度、家に戻るべきですか……父も心配しているでしょうし」
自身の体験を話せばきっと仰天し、家から出してはくれないだろうな。秘密にしておこうか。そんな事を考えながら、ファジルは外を目指した。
◇◆◇
入り口にまた兵士が集まっているのではないかと危惧し、ファジルは再び地下の坑道を通って外に出た。空は変わらず暗緑に染まり、裏路地には浮浪者がたむろしていたが、息の詰まる霧の柱の内部よりは遥かにましであった。思わず呑気にも伸びをし、肺一杯に空気を吸ってしまった程だ。
必死に駆け抜けた行きとは違い、帰りは歩く事にした。建物の陰に仲間達の姿が現れるのではないかという夢のごとき淡い期待を胸に、街の状態を観察し歩く。
街の住民のほとんどは当然ながら、家の中に籠っているようだ。窓の外扉を厳重に締め切り、暗緑の霧も空の怪しい光も一切合切を遮断している。
中には僅かに窓を開け、隙間から外の様子を窺っている者も居たが、血走った目で徘徊する兵士や浮浪者を目にすると直ぐに窓を締め、二度と開く事は無かった。
正気の人間は恐らく、ほとんど外には出てこないのだろう。道で出くわす人間は全て警戒をした方が身のためのようだ。
街の様子に目を配りながらも、ファジルは次に取る一手を考える。
アイモスの塔への侵入は望めない。仲間達を探すにしても、自分だけで広大なウズルダロウムを探し回るのは現実的では無いだろう。そもそもウズルダロウムに居るのかすら定かでは無いのだ。ヨク=ゾトースの影響は空を見る限りウズルダロウムの外にまで、ひょっとすると、ハイパーボリア全土に及んでいるのかもしれないのだから。
「そう言えば……」
ファジルは思い出す。霧の柱の前で演説していた男は、ヨク=ゾトースがイホウンデー達によって留められていると言っていた。ヨク=ゾトースとイホウンデーが敵対関係に在ることは明白だ。であればその信奉者も同様の筈。イホウンデーの神殿に赴き、自分が知る情報を伝えると共に協力を要請するのはどうだろうか? しかし、街で見た殺気だった様子の聖職者の姿を考えると、今の教団に近づくのは危険な賭けになるかもしれない……
ファジルはあれこれと次に取る行動に頭を巡らせた。だんだんと街の観察は疎かになり、思考に耽り、気も漫ろになる。背後から迫る微かな足音を聞き逃してしまうくらいには―――――――
「――――っ!」
直前で漸く足音に気付いたファジルは咄嗟に背後を振り返ろうとする。しかし、背後の人物はそれを許さなかった。下手人はどうやらそこそこ体格の良い男の様で、ファジルに容易く組み付き、羽交い締めにする。そしてそのまま、両腕をへし折った。
「がぁっ!」
だらりと垂れる両腕、その痛みに絶叫を上げようとするファジル。しかし、絶叫は声にはならなかった。代わりに喉から飛び出たのは、赤い鮮血の飛沫。
ファジルの喉は、男の手に握られた鋭利なナイフによってぱっくりと切り裂かれていたのだ。
灼熱のような、むしろ冷たいような痛みに襲われながら、ファジルは何が起きたか全く把握出来ず、ただただ声を上げようとし続ける。だがやはり、喉から吹き出るのは多量の血液のみ。叫びは誰にも届かない。誰にも……
身に降りかかる血液の温かさと対照的に凍えていくファジルの意識。徐々に力を失い崩れ行く身体に対し男は、だめ押しとばかりにナイフをファジルの左胸に向ける。
(や、やめ……)
ファジルの声なき懇願が届く筈も無く、男はナイフを肉に沈みこませていく。
胸を貫く異物を感じながら、ファジルの視界は漆黒に染まった。




