尾へと爬うもの、あるいは、爬いずる鎖
足元の石畳の様相が変わったのが微かに見てとれ、アイモスの塔の目の前に設けられた広場に出た事を把握する。
途端、今までファジルの視界を阻み続けた一面の緑が薄れ、僅かながら先を見通せるようになった。広場の端を囲うように配置されたアイモスの彫刻達も見える様になったが、どうやら霧が薄れているのはこの広場だけの様で、彫刻達の背後は相変わらず暗緑の壁で囲まれている。
霧が薄れたのと時を同じくして感じるようになったのは、昨夜感じた全く未知の異臭。
――――あの黒いローブの人物がいるのか? ファジルは直感的にそう思った。しかし、視線の先、そびえ立つアイモスの塔の下に黒い人影の姿は無い。広場の隅々を見渡して見ても、やはり姿は無い。どこかに潜み、昨夜の様に襲う機会を窺っているのだろうか。
「……姿を現さないのならば、進むだけです」
ファジルは塔へと向き、一歩踏み出す。何も起きない。もう一歩踏み出す。周囲は静かなものだ。もう一歩、もう一歩…………
気づけばファジルは広場を突っ切り、塔の入り口に向かう階段の前にたどり着いていた。
「何も……してこない……?」
一度立ち止まって周りを見渡すも、動く影も無い。
「怖がっていても仕方ありませんか……」
再び足を前に進め、段差に足を掛けた。瞬間――――
ファジルの頭上に影が差し、空から漆黒の柱が落ちてきた。
「なっ――――」
身体に迸る生存本能のままに飛び退けば、死の塊は数瞬前にファジルが居た場所を正確に押し潰した。御影石を削り上げた階段が砂岩の如く木端微塵に粉砕され、階段としての役目を終える。
飛び退くと同時に尻餅を付いたファジルは、放心してその光景を眺めていた。今まさに、自分は死ぬ所だったのだ。この、漆黒の柱に押し潰されて――――否、それはどうやら柱では無いらしかった。柱のごとき重厚さの、植物の蕾を思わせる形状に折り重なった何かの集合体であった。その何かは、昨夜ファジルを溺死させんとした漆黒の流体と酷似していた。しかし、昨夜見たそれが泥の様な不定形であったのに対し、今目の前の柱を形成しているそれは、確かな流動性を保ちながらも、はっきりと鎖であると分かる形状と金属光沢を有していた。
漆黒の柱とは、絶えず蠢き続ける漆黒の鎖で形作られた蕾の様な物であったのだ。
ファジルは空を見上げる。目の前のその異様な塊は、塔に巻き付く巨大な何かに繋がっていた。
それは、蛇の様に見えた。決して蛇では無いと分かりきっていても、それを形容するには、蛇という言葉が最も適切である様に思えた。その身が天を貫く尖塔すら覆い尽くさんばかりの巨躯だとしても、その身に纏うのが鱗の鎧では無く、漆黒の鎖で編み上げられた鎖帷子だったとしてもだ。ファジルを踏み潰さんと地に叩きつけられた蕾の様な物は、かの蛇の尾であったのだ。塔の上部に巻き付いている、頭と思わしき部分は霧に隠されているが、霧の深奥から、赤く光る双眸だけが地上を覗いていた。
「……ぁ…………ぇ……?」
この怪物が自身に殺意を向けている。そう理解した途端、まさに蛇に睨まれた蛙の如くファジルは硬直し、言葉を思い浮かべる事すら出来なくなった。骨の中枢までをも恐怖が染み渡り、最早震える事すら出来ず、ここで自分は死ぬのだという確信に絶望した。
ファジルは魔導師として幾多の怪物を呼び出し、目にしたことがある身の上である。とはいえそれらは、歩く蛆虫だとか、翼を持つ甲殻類の様な、人類の常識では量れない姿であるというだけで、本能から恐怖が込み上げて来る程の絶対的な格の差を感じる者達ではない。
――――あれは、神だ。ファジルは言葉にならない思考の中で、それだけは明確に感じ取っていた。
ファジルは呆然と蛇から目を反らす事が出来ないまま、神が下す沙汰を待つ。しかし、いくら待てどもその尾がファジルに振るわれる事は無い。怪物はただ静かにファジルを見据えている。
だんだんと思考を取り戻し、困惑しながらも、ファジルは考えた。この怪物は、アイモスの塔に入ろうとする輩を取り締まる者なのではないか、と。
ならば、かの存在がこの塔の入り口を守護している以上、一度ここは退くべきなのではないか? だが、入らなければウマル達の安否を確かめられない。行くしかないのか……そう考えるファジルの思考を乱す様に、にわかに背後が騒がしくなった。
「忌まわしい霧が晴れた! アイモスの塔は目の前である! 進めぇい!」
霧の前に集まっていた混合軍が侵入し、ここまでたどり着いたのである。
ファジルは慌てた、目の前には神、背後には混合軍、ひとまず、身を隠す他無い。薄れて尚、身を隠すには十分な霧に紛れ、ファジルは側にあった彫刻の裏に隠れた。そして、少しでも怪物の情報を得る為に、この先で待つ惨状に向き合う事にした。
想像を絶する恐怖が待ち受けているとも知らずに進行する混合軍が広場の中央に差し掛かった頃、怪物が動きを見せる。空気を震わす轟音と共に、塔の壁面を身を被う鎖で削り取りながら、怪物は尾を先頭にして這いずり、地に向かって動き出す。霧の中から隠れていた頭が現れた。その巨体に反して随分と貧弱で、なすがままに引き摺られる様に尾の動きに追従していた。
「なんだ!? こいつは!?」
「ば、化物っ!」
「魔術師よ! この蛇はなんだ!?」
「知りませんよ! 見たことも、聞いたこともない!」
突如として眼前に現れた脅威に喚く人類を尻目に、怪物は雄大に地に降り立つと、尾を上にしてとぐろを巻く。頭部は、とるに足らないものであるかの様に、とぐろの端に粗雑に配置された。あまりの不遇にファジルは、実はあれは頭では無く、あの尾に見える鎖の塊の中に本当の頭部が隠されているのではないかとすら考えた。所詮、人の稚拙な想像力で行う妄想ではあるが。
「魔導師アイモスが呼んだ化物の一つか? なんにせよ立ち塞がるなら討つまで! 放てぇ!」
指導者の号令により、勇気ある者達が怪物への攻撃を開始する。剣士達は指導者の周りを固め、弓兵は矢を、魔術師達は火球を、聖職者達は、いかにも神聖そうな何らかの光線を放った。しかし、怪物は全く意に介する素振りも見せない。矢は鎖帷子に弾き返され、火球は直撃するも儚く霧散し、光線は漆黒の中に吸い込まれるのみ。混成軍は息を呑んだ。
今度はこちらの番とでも言うのか、怪物は尾をゆっくりと鎌の様にもたげた。そして、鎖の塊を激しく震わせる。幾重にも折り重なった鎖が擦り合わされ、人の絶叫にも似た凄絶な金属音が撒き散らされた。混成軍の参加者達は、堪らず耳を抑えてしゃがみこんでしまう。
ファジルも同様に耳を抑えた。鼓膜を自ら破りたい衝動に駈られ、指を耳の奥深くに突き刺すが、すんでの所で踏みとどまる。どうやら混成軍には踏みとどまれなかった者も居るようで、耳から激しい出血をしている者が何人か見受けられた。
「う、狼狽えるんじゃぁないッッ! たかが音だッ! たかが蛇だッ!」
指導者がなんとか兵達を鼓舞しようとするものの、兵達は耳を抑えて地を転がる者達か、鼓膜を破った為に鼓舞も届かず、痛みに呻く者達ばかりという有り様で、とても怪物に立ち向かえる状態では無い。
人々が広場に這いつくばっている間に、怪物に変化があった。絶叫を響かせている鎖の蕾から何本もの鎖が次々に千切れ、開花した彼岸花の如く放射状に広がったかと思えば、それぞれの鎖の花弁が別個の意思を持つ蛇であるかの様に混成軍に襲い掛かったのである。
地を這う人々へと伸びる漆黒の鎖蛇達は、無慈悲にも殺戮を開始した。首に巻き付き、そのままねじ切られる者、頭を叩き潰される者、身体を持ち上げられ、振り回され、他の兵士に激突し、赤い二つの肉片になる者、幼児に乱暴に扱われる人形の様に、戦士達は死んでいった。
「なんだ! なんだこれは! なんなのだ! ――――ぶっ」
遂に指導者にも蛇が伸びた。鎖が首に巻き付いたのだ。宙に持ち上げられ、もがく手足を封じる様に、加えて四本の鎖が指導者の四肢に巻き付く。そして、鎖達はそれぞれ別の方向へと指導者を引っ張ろうとする。当然、人体が五方向に伸びて無事でいられる訳もなく――――哀れな程に引き伸ばされた悲鳴と共に、指導者の身体は鎧ごと五つに引き裂かれた。混成軍は絶滅したのだ。
広場に静寂をもたらした怪物は、解放した花弁達を再び蕾の中に閉じ込め、天を仰ぐかの様に尾を掲げる。
彫刻の陰に潜み、ただ一人惨劇を見届けたファジルはどうしようも無く理解してしまった。
――――あれには勝てない。勝とうと考える事すら、烏滸がましい。
ファジルは逃走を決める。仲間達の安否は何よりも重要だったが、果たして、かの神を出し抜く事を諦めた自分を一体誰が責められようか? 無理を押し通そうとした所で、命を無駄に散らすだけなのだから……
震える足に、手に、心臓に鞭を打ち、ファジルは広場を離れ霧の中へ戻る。
神は、追っては来なかった。




