暗緑の空
ファジルは飛び起きた。あの黒い法衣は今どこにいるのかと目を回せば。薄暗い中でも見える見慣れた家具の数々。どうやら、ファジルの自室のようだ。とはいえアイモス研究所にある自室ではなく、実家の自室だった。ファジルは自室にあるベッドでローブを着たまま寝ていたのだ。息は荒く、全身は汗で湿り、直ぐにでも着替えなければ不快で堪らない。
そっと口元に手を当ててみる。自身の気道を塞ぐ黒い泥はそこに存在しなかった。あれは、夢だったのだろうか? 夢だったのならどこから? あの宴は、仲間達の決意は、ウマルとの……接吻は、それも夢だったのだろうか。もしかすると、そもそもウマルとの恋路も、ムーサとの和解も、やはり全てが夢であったのかもしれない。だとしたらとても……言葉では言い表せない程には残念だ。咽び泣きたいくらいだ。
現実と夢の区別がつかずファジルはあれこれと頭を悩ませた。そのうち、とりあえず今がいつであるのかを確認しようと考えた。
部屋は随分と薄暗いが、夜にしては明るい。夜明けか夕暮れか、はたまた空が曇っているだけか? 窓の外の光景を予想しながら、ファジルは外を隠すカーテンを開く。
窓の外に見えたのは、予想した光景のどれでも無かった。
「なに……これ……」
まず目に飛び込んできたのは、地平線の彼方まで空を覆い尽くす重厚な雲。しかし、ただの雲でない事は一目で分かった。通常、白や灰色で形付くられる筈の雲は、陰に生える苔を思い切り陰惨にした様な暗緑色に染まっている。それだけではなく、暗緑の雲の節々から身の毛がよだつ玉虫色の光が洩れ出ていて、苔の中から奇妙な虫が這い出てきた時の気分の悪さを存分に味あわせてくれる。
続いて目に入るのは、白亜のウズルダロウムをうっすらと覆う、これまた暗緑色の霧。街中の大理石に苔むす霧は、壮麗なウズルダロウムを陰鬱極まりない様相に変貌させていた。
そして、見える景色で最も異様なのは、ウズルダロウムのある一点を地面から雲まで覆い隠す、霧の柱。その一点とは――――
「アイモス研究所……」
本来、ファジルの自室から良く見えた筈のアイモスの塔と、それを囲む十二の建造物は、霧の柱によって覆い隠されていた。遠くに見える王城も、イホウンデーの神殿も、時計塔も(丁度時刻を知らせる鐘が鳴った。今は夜明けから少し経った頃のようだ)その他、街に建ち並ぶ多くの尖塔達も、霧に完全に覆われている物は一つも無い。アイモスの研究所のみが、このウズルダロウムで唯一、姿形も分からない程に霧で隠されていた。それをただの偶然と考える程、ファジルの頭はおめでたくは無い。
この異常現象はアイモスの塔から起きている。ファジルはそう結論付けた。
――――ならば一体、何が起こっているのか? 答えは一つしかない。
「まさかこれは……ヨク=ゾトース召喚の影響……?」
そうとしか思えない。逆に、他に何があると言うのか? ファジルは人知れず呟いた。そして、このほぼ確定したと言える仮定を元に状況を分析していく。
まず、自分が体験した事は全て、実際に有ったことなのだろうと思った。今日は、あの黒い人影に気絶させられた翌朝であり、(二日以上経っている可能性もあるが、あまり信じたくはない)儀式は予定通り、自身が気を失っている間に行われてしまったのだろう。家で寝ていた理由や、現れないファジルに仲間がどう動いたのか等、疑問は尽きないがこれには間違いがない様にファジルは思った。
「そうだ……!ウマル、ムーサ、皆は……!」
これが儀式の影響ならば、彼らは一体どうなってしまったのだろう。あの黒い人影がその後どう動いたのかも分からない。
何はともあれ、あの霧の中に向かうしか無い。そう思い、ファジルがベッドから飛び出すと、自室の扉が開いた。
「――――っ!」
あの黒い人影かもしれない。全身の毛を逆立たせて扉の先を見るファジル。しかし、入ってきたのは父、マンガイだった。ファジルはほっと息をつく。考えて見れば、真っ先に予想すべきはマンガイだったのだが。
マンガイは部屋の中にいるファジルを見て目を丸くする。
「ファジル? いつ戻ったんだい? いや、とりあえず君が無事で良かった。アイモス殿の塔から異常が始まったと聞いて生きた心地がしなかったのだよ」
「っ! やはり、あそこが? 一体何が起こっているのですか?」
マンガイは申し訳なさそうに首を振る。
「私にも何がなんだか分からない。知っているのは、日を跨いだ頃に、いつの間にか外があんな光景になっていたと言う事だけだ。私よりも君の方が何か知っていそうなものだが、どうだい? 確か、儀式をするから明日まで帰ってこないと言っていたではないか」
「私が知っているのは……」
改めて自分が知る情報を洗い出そうとして、ファジルは気付く。実のところ、ファジルの有している情報も上部だけの中身が無いものばかりであった。彼らは正体不明の神を呼び出そうとしていて? 自分はと言えば参加する前に謎の人物(あれが人であるとも思えないが)に気絶させられ、いつの間にか家に帰っていた。何も分かっていないに等しい。
――――やはり、自分の目で確かめるしかない。
決意したファジルはマンガイに止められぬよう、彼の脇をすり抜け、疾風の如く駆け出した。
「ファジル! どこへ行くんだ!」
マンガイの必死の制止の声に耳を塞ぎ、ファジルは駆ける。マンガイも追いかけるが、そこそこ歳の行った肥満体の男が年若い少女に追い付ける訳もない。
「ええい追い付けん! いいかファジル!外は兵士達が巡回している! イホウンデーの神官達もだ! あまり目立つ事はするんじゃないよ! それと、危険を感じたら直ぐに逃げるんだ! 分かったね!」
マンガイは息を切らしながら、遠ざかる娘に叫んだ。胸の内で父に詫びながら、ファジルは外に出て、霧の柱を目指して走る。
自らの足で行く今のウズルダロウムは、窓から見た景色よりも、一層不気味さを増して見えた。どうやら朝であるらしいのに夜中の様に暗い道は、松明によってぼんやりと照らされている。普段は頼もしい松明の灯りも、暗緑の霧に包まれてしまえば酷く弱々しい。
人通りはほぼ皆無と言って良く。たまに人が居たかと思えば、道端に座り込んで空に向かって手を合わせ、ぶつぶつと訳の分からない言葉を呟き続けている正気とは思えない者達か、抜剣して霧の中を慎重に歩く恐ろしい形相の兵士、虚空に向かって罵詈雑言を投げつけながら徘徊する聖職者等、関わって良い結果にはならないだろう者達ばかりであった。
彼らを避ける為、ファジルは度々進行方向を変えなければならなかった。一度、兵士と正気に見える市民が言い争っている場面に遭遇したが、その末路は兵士が市民を切りつけるという結果であった。倒れ付した市民を兵士は執拗に刺突し続ける。どう見ても助からない。ファジルは心を痛めながらもその場を早急に離れた。
女帝が兵士達にどのような命令を与えているかは知るよしも無いものの、今の兵士は市民を軽率に殺傷しうる存在であることは明白である。正気の沙汰とは思えない。きっと、聖職者達も似たような状態なのだろう。
一体、何が人々を狂気に駆り立てているのか? 異常な雲や霧だけでは説明しきれないとファジルは思う。自身が気を失っている間に何が有ったと言うのか。
「皆……どうか、無事でいてください……!」
一変した世界で彼らが全くの無事である事は細すぎる可能性であると分かっていたが、せめて取り返しがつく状態であって欲しいとファジルは願う。
半刻程走り、遂にファジルは霧の柱の前に、アイモス研究所の前に立った。




