〈29〉柿沼の企て
柿沼は夏子からの知らせを聞き、安堵した。
柿沼はさっそく和香に連絡した。
「養子の件、母親は了承しましたよ。娘さんには母親が伝えると言っていました。思ったより案外早くまとまりそうです」
「そう」
「奥様も母親になる心構えをしておいてくださいよ」
「わかったわ」
柿沼は和香との通話が終わると、一仕事やり終えた、とリラックスした。
「大きな案件だが、万事うまくいきそうだな」
次の日、柿沼が事務所で仕事をしていると夏子からスマホに電話が入った。
「もしもし。柿沼です」
「柿沼さん、服部ですけど先日、申し出があった養子の件なんですけど、どうも無理そうです」
「え、どうしてですか?」
「娘が全く聞き入れてくれないんです」
「それはお母様と離れ離れになってしまうの嫌なのですか? こないだお話したように鞠子さんは養子として本庄家に入ってもらいますがお母様にはいつでも好きなときに会えるんですよ。別に引き裂かれるわけじゃない。そのことはちゃんと伝えましたか?」
「ええ、伝えました」
「では何が不都合なんですか? それとも本庄家という見知らぬ家に行くのを怖がってるだけですか?」
「いえ、違います」
「ではなぜ。実の父親の家なんですよ」
「それが、鞠子は自分にはパパがいるからと言って全く聞き入れてくれないんです」
「鞠子さんにお父様がいるんですか?」
「いえ、いません。鞠子も知っていることです。でも、どうしても聞き入れてくれないんです」
「どういうことですか? どうも話が見えてこないなぁ」
「鞠子がパパと言っている相手は鞠子の文通相手で、私が鞠子にパパと思わせてしまった人のことなんです」
「え、要は文通相手をパパと呼んでいるということですか?」
「はい」
「それだけのことですか?」
「それは、」
夏子は柿沼に鞠子がパパと呼ぶようになった経緯を説明した。
「なるほど。それで鞠子さんはその人のことをパパと言っていると」
「ええ、でも、鞠子はもうその人がパパでないことは知っていて、もう終わっていると思ってたんですけど」
「でも、鞠子さんは今でもその人のことをパパと言い張るんですね」
「はい」
柿沼はため息をついた。
「おそらく、単なる反抗期か何かでしょう。子供が駄々をこねているだけじゃないんですかね」
「わかりません」
「服部さん。私にそのパパのこと教えてくれませんか?」
「どうするんですか?」
「私が鞠子さんがパパと呼ぶ方に会いに行ってきます」
「なら、私も行きます」
「いえ、自分一人で会いに行った方がいいでしょう。その方が話が纏まると思います。ここは一つ、私に任せてくれませんか? そういう込み入った案件を纏めるのに慣れてますから」
「……」
「大丈夫。心配しないでください。みんながいい方向に進むように致しますから安心してください」
「わかりました。柿沼さんにお任せします」
「ありがとうございます」
「では、パパという人のこと、教えてください」
柿沼は机からメモ帳を手元に寄せた。
柿沼は友雪をまず調べた。
何事もまず相手を知らなければアクションのしようがない。
相手が自分の思惑通りに動くように必要なら手札を用意しなければならない。
一週間後、柿沼は興信所から友雪に対する報告を受けた。そのレポートに目を通し、ほくそ笑んだ。
「突っ込みどころ満載じゃないか。どこから突いてもどうにでもなる。戦わずして勝つとはこのことだな」
柿沼はさっそく友雪に連絡を入れた。
「もしもし、今井さんの携帯でしょうか? わたくし弁護士の柿沼というものです。服部さんから今井さんに連絡がいくかもしれないと事前に言われていたと思うのですが……。そうです。その柿沼です。ちょっと今井さんと会いたくて連絡させていただきました。わたくしの方から今井さんのもとに伺いますので、どこか都合の良い日時があるようでしたらぜひそちらにお伺いしますので教えていただけませんか」
柿沼はメモ用紙にメモを取りながら聞いた。
「はい。……場所は駅ビルにある喫茶店がいいのですね。わかりました。ではさっそく伺わせていただきます。宜しくお願いします」
待ち合わせの日。
柿沼は菓子折りをもって待ち合わせ場所の喫茶店に行った。喫茶店の前で友雪らしき人物が普段着の姿で立っていた。
柿沼は友雪に声をかけた。
「今井さんですか?」
「あ、はい」
「柿沼です」
柿沼はブランドのスーツを着ていた。いかにもやり手弁護士という風格を漂わせていた。
二人は喫茶店に入り、喫茶店奥のテーブル席に着いた。
「改めて。弁護士の柿沼です」柿沼は名刺を友雪に渡した。
「あ、どうも」友雪は名刺を受け取り、二人は席に座った。
「これ、つまらないものですが」柿沼はそういって菓子折りを友雪に渡した。
「これは?」
「チョコレートです。事務所近くに知り合いのパティシエの店がありましてね。会う人にはいつもお渡ししているのです」
「こんなことしなくても」
「いえ、本当に美味しいからぜひ味わってほしくて。それにこれがその店の宣伝にもなりますし」
「すみません」
「どうぞどうぞ」
「それで話というのは」
「おそらく、大体のことは服部さんから伺っているとは思うのですが」
「ええ。聞いてます」
「どこらへんまで?」
「鞠子さんを養子にという話を。それで鞠子さんが断っていると」
「交通事故で亡くなられた代議士の本庄実巳さんが父親だったということは聞いているのですね」
「はい。聞いています。びっくりしました」
「本庄家は、実巳さんの忘れ形見の鞠子さんをぜひ跡取りとして迎え入れたいと本気で思っています」
「はい。それは夏子さんから聞きました」
「では、鞠子さんがパパがいるから断っているということも」
「一応、それも聞きましたが、こうして僕に会っても僕には何も出来ないと思うんですが」
「そんなことはありません。今井さんにしか出来ないことがあります。そのお願いに今日、会いに来たのです」
「僕に何を?」
「とっても簡単なことです。鞠子さんに自分はパパでもなんでもないということを伝えて欲しいのです」
「鞠子さんは、自分がパパではないことはもう知っているはずですが」
「ええ、存じてます。ですが今、鞠子さんは自分にはパパがいると言い張っています。だからそこで、今井さんの口から改めてパパでも何でもないことをはっきり伝えて欲しいのです」
友雪は柿沼の言葉にショックを受けた。
鞠子も自分がパパでもなんでもないことは分かっている。分かっているけどいざ柿沼にはっきり伝えてくれと言われて友雪は動揺した。
「念を押せっていうことですか?」
「まぁ、そうです」
「……でも、伝えるも何も、あったこともありません。手紙でしか伝えられませんよ」
「面会する場をセッティングします。そこで伝えて欲しいのです」
「面会ですか?」
「そうです。私の事務所にご足労いただきます。そこには服部さん親子と本庄家の方々、そして私も同席します。そこではっきり伝えてほしいのです」
「僕の口からパパでも何でもないと言うのですか?」
「はい」
友雪は動揺した。
初めて鞠子に会うのに自分がパパでないことをはっきり伝える。
〈たとえ鞠ちゃんが知っているとしてもあまりに酷い面会、あまりにも酷い仕打ちではないのか?〉
しかし、それは友雪にとって避けては通れないことでもあることも重々承知していた。
お互いにはっきりさせなければいけないことと分かっていた。
それでもいざ、そのときが来たと思うと、後ろめたさと罪悪感に苛まれた。
柿沼は苦悶の表情を浮かべている友雪を見た。
「別にそれほど悩まれることではないと思いますよ。鞠子さんも知っていることですから」
「わかってます。わかってますけど」
「躊躇いがあるのですか?」
「はい」
「そう深く考えることはありませんよ。お互い親子でも何でもないことはわかっているのですから。それを今になってパパがいると言い張るのはただ大人を困らせたいだけです。兎に角、逆らいたいのです。子供が駄々をこねてるだけですよ」
「……」
「今井さんは真面目だなぁ」
「……」
「でも、考えてください。鞠子さんはあの本庄家の跡継ぎになるのです。鞠子さんの将来は約束されたも同然です。何の不安もありません。前途洋々です。たとえ今、こうして抵抗しても、鞠子さんにとってもお母様の夏子さんにとっても、これ以上ない話です。何せ何の苦労も心配もないのですから」
「……」
「勿論、それは服部さん親子に関わらず、この件で協力をお願いする今井さんもそうです」
「僕も?」
「そうです。鞠子さんにパパでないことをはっきり伝える重要な役割を担っているのですから」柿沼は友雪に渡した菓子折りの手提げ袋を見た。
「その手提げ袋の中に、もう一つ包みがあります。前金として二百万包んであります」
友雪は手提げ袋を見た。
「いや、こんなことされては困ります」
「いえいえ、それは本庄家からのお礼です。前金として二百万。事が済み、鞠子さんが本庄家の養子になりましたら、千八百万。合わせて二千万お支払いいたします」
友雪は絶句した。
絶句する友雪をよそに柿沼はたたみ掛けた。
「当然のことです。パパとして鞠子さんを支えてきていただいたお礼です。それにお金があるとこれからの人生、色々選択肢が持てます。第一、お金があると気持ちに余裕が生まれますよ」
「いや、でも」
「ああ、今井さんはシナリオライターになるのが夢なんですよね。自分の知り合いでテレビ局のプロデューサーをしている人がいますので、もしよかったら今井さんのこと紹介しましょうか?」
「えっ」
「ああいう世界も結局、人脈がモノを言う世界ですから。どうですか? もしよかったら話付けますよ」
「人脈、ですか」
「遠慮なく自分に言ってください。今井さんの夢がいい方向に進むように協力させて頂きますから」
「はぁ」
「人生これからですよ。何度でも仕切り直せます」
「いやぁ、でも」
「でも、どうしました? 何か不都合でもあるんですか」
「不都合というか、急にそんなこと言われても」
「そうですね。ですがこういうことは早い方がいい。こと鞠子さんの実の父、実巳さんが亡くなられた以上」
「はあ」
「いいですね」
「いや、でも」
「でも、どうしました?」
「僕が鞠子さんにパパでないことを言うにしても、一体どう言えばいいのか、色々考えることはあります」
「そうですね。確かに言いにくいかもしれませんね」
「はい」
「ならこうしましょう。質問形式で私が今井さんに質問しますから、今井さんは『はい』か『いいえ』で答えるだけというのはどうですか? それなら今井さんも簡単でしょう」
「ええ、まぁ」
「そうしましょう。その方が今井さんも気が楽でしょう」
「まぁ、それなら」
「大丈夫です。万事上手く行くよう進めますから。それでいきましょう。今井さんは当日、身一つで来てください。あとは全てこちらで上手く行くように致しますから」
「はい。わかりました」
柿沼は微笑んだが、友雪はそんな気分にはなれなかった。
友雪は一抹の不安を感じていた。
その夜、夏子からスマホに電話があった。
「ほんと、変なことに巻き込んでしまってごめんなさい」
「別になっちゃんが謝ることないよ」
友雪もままごとから始まった偽りのパパとの手紙のやり取りがこんな大事になったことに戸惑いを感じていた。
「でも、これで良かったのかな。もう鞠子に何もかもはっきりさせることが出来るんだから。それに鞠子ももう分かっていることだから。これで良かったと思う」夏子は自分に言い聞かせるように言った。
「そうだね。これでままごとから始まった嘘も、全てに対して終止符が打てると思えばちょうどいい機会かもしれない」
一瞬、沈黙が過った。
友雪も夏子もこの機会がちょうどいいんだと受け止めるのに少し時間が必要だった。
「じゃぁ、面会のときに会いましょう」
「そうだね。俺もそこで鞠ちゃんに初めて会うのかな。なんかそこでパパと初めて会うなんてやっぱおかしいよね。ほんと、これがいい機会なんだよ」
「そうね」
そうして夏子との通話は終わった。
友雪は改めて一人思った。
これで良いんだ。
パパでも何でもない男に固執するより、本庄家に、実の父親の家に入る方がいいに決まってる。
それに本庄家に入れば将来に何の不安もないんだ。
本当のパパが本庄実巳で良かったんだ。
友雪は机の引き出しを開けた。
中には柿沼から前金としてもらった二百万の万札の束が入っていた。
友雪はそれを手に取った。
分厚い。
その二百万の束を掴んだとき友雪の心はどこか安心感に包まれた。
柿沼の言葉が脳裏に浮かんだ。
『お金があると気持ちに余裕が生まれますよ』
友雪は万札の厚みを感じながら呟いた。
「確かにお金があると気持ちに余裕が生まれる。気持ちに余裕が出来た気がする」
今までシナリオコンクールに応募しては一次審査で落とされてきた。
友雪の人生は未完成な人生。いや、未完成どころかまだ何も始まってない。
友雪は机に置いた万札の束を眺めた。
「夢には叶わぬ夢もある。それに目覚めるときが来たのかもしれない……」
万札の束が友雪に現実を見させた。
人生は一度きり。
夢が叶うかどうかなんて誰にも分らない。
自分の選択が正しいかどうかなんて誰にもわからない。
生きてみなければわからないんだ。
しかし、俺は尽く負けてきた。
勝てる見込みも一度もなかった。
チャンス一つ掴むことも出来なかった。
なのに柿沼さんは俺にシナリオライターとしてのチャンスを与えることが出来ると言った。
俺は間違っていたのかもしれない。
間違いを間違いと認めず、そこから目を背け、果てしなく続けてきたのかもしれない。
鞠ちゃんのことだってそうだ。
シナリオライターになってからサプライズで驚かす形で伝えたいと思っていたけど、シナリオライターになれてないから今の騒動を呼び込んだんだ。
全部俺のせいだ。
俺の失態が招いたことだ。
そうだ。
これは俺にとってのラストチャンスだ。
この間違いだらけの選択を正す最後のチャンスなんだ。
夢に固執し追い続けることも、鞠ちゃんのパパでいることも、間違いだらけのこの人生を終わらせるラストチャンスなんだ。
そして、ここから出直すんだ。
このお金は鞠ちゃんのパパ役であった俺への退職金だ。
このお金は新しく人生をやり直すお金だ。
全てを清算し、新しくやり直すんだ。
友雪は自分自身に笑った。
自分は夢を追い、何一つ手に入れることも出来なかった。
しかし、鞠子のパパに成りすました果てに大金を手に入れようとしている。
「ほんと、えげつないな、俺は」
ドアがノックされた。友雪は万札を慌てて引き出しにしまった。
ドアから純子が顔を出した。
「友ちゃん。ご飯よ」
「わかった」
友雪は改めて引き出しを開けて万札を見た。
「でも、これでみんなウィンウィンになれる。別に悪いことじゃない。鞠ちゃんも収まるところに収まるんだ。しかもそれが本庄家という誰もが羨む一番望ましい場所。この引き際だけは決して間違えないようにしよう」




