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【検索除外設定中】【リメイク前バージョン】龍人族の公主様

作者: 火乃玉

 西方龍聖せいほうりゅうせい学園。


 西方文化の影響を強く受けた校舎は、龍人族りゅうじんぞく伝来の木造ではなく、人間族の好む石造りの建築物となっている。生徒の制服に至っても、女子はブラウスに長めの蝶ネクタイ、短い丈のスカートに革靴。男子は簡素なシャツにネクタイ、長ズボンに革靴という西方文化を色濃く受け継いだスタイルが採用されている。


 中庭には大きな時計塔がそびえて立ち、緑の庭園の中央部には、白龍石はくりゅうせきと呼ばれる硬質な石材で作られた、闘技場と呼ぶほど立派ではないが、訓練場とするには上等な舞台がしつらえられている。


 そのような西方文化一色の世界の中で、全てを拒絶するかのような異質な特異点が一つあった。

 容姿からしてすでに異質ではある。美形揃いの龍人族の中にあってさえも、決して埋没することのない圧倒的な美の存在感。目鼻立ちが整っているなどという形容では到底足りない完璧な美貌がそこにはあった。夜闇より深い黒髪と白磁はくじのように白く透き通った肌の対比が美をより一層際立いっそうきわだたせている。男女の別なく見る者をとりこにするその容姿は、明らかに浮世離うきよばなれしていた。


 ただでさえ目を引くその少女が一際ひときわ異質に見えたのは、派手な民族衣装にその身を包んでいたからだろう。それは龍衣りゅういと呼ばれる民族衣装で、他種族からは東方の着物と呼ばれている。彼女の着ている龍衣は、赤と白を基調としたデザインでえりそでに金糸の刺繍が施されいる。これでも龍衣としては控え目なデザインなのだが、西方文化の中に突如出現した東方文化の代名詞は、生徒たちに少なからず衝撃を与えた。そしてそれは、成り行きをのんびり眺めていた麒翔きしょうも同様だった。


 年の頃は、十六の麒翔きしょうと同じぐらいと思われる。

 絶世の美女であることに間違いはないが、まだ幼さが抜け切っていない。


 舞台の中央には女教師と、くだんの少女が立っている。

 集められた二学年の生徒総勢百九名は、舞台観覧用の長椅子に腰掛け、固唾かたずを呑んで成り行きを見守っている。

 女教師が口を開いた。


「諸君、紹介しよう」


 女教師によれば、彼女は後学のため中央龍皇学園――通称、中央から一日限りの見学にやって来たらしい。中央は龍皇りゅうこう――人間でいうところの皇帝――直轄ちょっかつの学園で、通えるのは貴族階級の令息、令嬢の中でも特に能力に秀でている者だけだという。例え貴族であっても、実力がない者の入学は許されない。真の実力至上主義を標榜ひょうぼうしている。


 生徒たちのざわめきが大きくなる。


「ってことは、あの龍衣は中央の制服ってことか」


 得心がいったように麒翔は呟いた。

 短い栗色の髪を揺らして、隣に座る少女・桜華おうかが呆れたように返す。


「つっこむとこそこなの? あの子エリート中のエリートだよ」

「興味ないな」

「えー、周りの男子見てみなよ。あの美貌で能力も申し分なし。興味ないわけないでしょ男の子なら!」


 龍人族は基本的に男女ともに美形揃いである。従って、容姿が整っていることは大前提であり、顔の良し悪しは恋愛感情には直接結びつかない。だが、あのレベルに突き抜けた美の化身ともなれば話は別である。

 とはいえ。


「俺は身の程をわきまえてるからな」


 では、容姿の良し悪しが恋愛に結びつかないのだとしたら、恋愛を構成する要素はなんだという話になる。簡潔かんけつに答えるなら、それは『力』である。あるいは、学園内に限定して言い換えるなら成績となる。


 その点、注目の少女は容姿・実力共に申し分のない完璧な才女さいじょである。桜華の言う通り、興味のない男など存在しないだろう。


 しかし、麒翔は落第すれすれの落ちこぼれ学生という身分にある。彼のような落ちこぼれを相手にしようなんて奇特きとくな龍人は桜華ぐらいなもので、学園に入学してから一年が経つが、桜華以外の女子と話したことはおろか、挨拶を交わした覚えさえない。高嶺たかねの花に手を出すなど骨頂こっちょうである。


「えー! つまんなーい」


 桜華の抗議を黙殺もくさつし、おしゃべりな口を手でふさぐ。

 直後「静粛せいしゅくに!」と女教師が荒れ始めた場を一喝した。桜華の身体からだがビクリと跳ねる。女教師がその場をぐるっと一瞥いちべつし睨みつけると、場は一瞬で静まった。若干涙目の桜華から手を離し、頭を撫でてやる。


 静寂に満足したのか女教師は一度頷き、少女に自己紹介するよう促した。


 少女が一歩前へ出る。

 春風が強く吹き、長く伸びた黒髪が少女の白い首筋に絡みつくように舞う。


「紹介に預かった通りだ。中央の二学年首席、名を黒陽こくようという。今日一日という短い期間ではあるが、よろしく頼む」


 一旦は静まった場に激震が走った。


「嘘だろ? 首席って女でなれんのか!?」

「中央って名だたる貴族のご令息もいらっしゃるのよね。信じられないわ」

「二学年に男がいないのかもしれないぞ。そういうことだってあり得る」


 男は女より優秀であって当たり前。これが龍人族の共通認識である。

 多くの種族において、男の方が戦闘に特化して生まれてくるという傾向はあるのだが、中でも特に龍人族はその傾向が強いのである。

 無論、男勝りな女というのは存在するし、例外も山ほどあるにはある。しかし、最高峰さいこうほうの教育機関である中央において、女の身でありながら、名だたる男たちを抑えてトップに君臨くんりんするというのは、彼らの理解の範疇はんちゅうを超えていた。


 疑いを向ける者も少なくない。むしろ、手放しに信じている者のほうがまれだ。

 そしてその希少な天然おバカさんが麒翔の隣にもいた。


「すごいね、翔くん。わたしサイン貰っちゃおうかな」


 はいはい、と適当に返した麒翔の腕を不満げにぐいぐいと引っ張ってくる。胸が当たっていることに本人は気づいているのだろうか。いや、気づいていまい。麒翔は内心でため息をついた。


「まぁ確かに、嘘をついてるようには見えないな」


 虚言きょげんを吐いたにしては堂々としすぎている。女教師からの訂正も入らない。とすれば、彼女の言葉は事実なのだろう。と、麒翔は推測した。

 麒翔の同意を得て、桜華の機嫌も直ったようである。

 渦中かちゅうの黒陽は、疑念を向けられていることに怯む様子を見せない。


「本当に首席なんですかー? 証拠見せてくださーい」


 男子生徒から投げられた野次に、眉一つ動かさすことさえない。少し首を傾げ、何事かを思案し、そして満面の笑みを浮かべた。


「たしか今は剣術の授業中だったな。そこでどうだろう。私と模擬戦もぎせんをするというのは。ここにいる全員を叩き伏せれば、証明になるんじゃないか。もっとも、君たちのレベルが中央に届いていればの話だが」


 ビシッと模擬刀もぎとうの先端を挑むように男子生徒へ向ける。


 うわぁ、と麒翔は内心で嘆息たんそくした。

 これはかなり気の強いタイプであるらしい。麒翔の最も苦手とするタイプの女だった。


 吐いたつばみ込めない。

 挑発を受けた男子生徒は憤然ふんぜんと舞台上へあがった。


「あれは確か、学年三位の……えーと、誰だっけ」

愚呑ぐどん君」

「ああ、そうそう。それそれ」

「同級生の名前ぐらい覚えておきなよ」


 桜華の小言は聞き流す。男の名前など憶えておいても役立つことはない。とはいえ、女子生徒の名前も桜華以外はまともに覚えていないのだが。


「黒陽とか言ったな。もし俺が勝ったら、どう落とし前つけてくれる!」


 顔を真っ赤にした愚呑ぐどんが吠えた。


「そうだな。万が一負けたなら、その時はこの身体からだおまえの好きにするがいい」


 よどみなくスラスラと答える。

 そこに迷いや葛藤は存在しない。あるのは絶対の自信だけ。

 一見するといさぎよい対応だったが、麒翔は胸の奥がざらつくような不快感を覚えた。


「俺の好きに? なんでもか?」

「ああ」

「へえ。後でやっぱなしは通用しないぜ」


 愚呑の顔に下卑げひた笑いが張り付く。

 己の煩悩ぼんのうを隠そうともしない醜態しゅうたい天真爛漫てんしんらんまんな桜華でさえ、顔を引きつらせている。

 模擬戦とはいえ、決闘に近い形式を取っている。立会人の教師もいる。遊び半分の口約束だったとしても、口約を果たす義務が少なからず生まれるはずだ。ともすれば、学園側はこの件に関して合意があったと判断し、事が起こっても口出ししないだろう。


 いくら自信がある事とはいえ、負けた場合を考えるとリスクが高すぎる。しかもその上、リターンが無い。勝ったところで何も得るものが無いのだ。この事実がどうしようもなく麒翔を苛立たせる。あの女は本当にわかっているのか。そう問い詰めたくなる。

 ちらりと隣へ視線を向けると、桜華が心配そうに勝負の行方ゆくえを見守っている。大きな瞳に薄っすらと涙がにじんでいるのは気のせいか。無類のお人よしめ。同性としてのよしみか、完全に感情が入ってしまっている。


 舞台上で両者が構える。

 それだけで麒翔には勝敗が見えた。


「心配はいらねえよ。あの女の勝ちだ」

「え? なんで?」


 龍人族の使う剣術はただ剣を振るうだけではない。

 体内を巡る《気》を練り上げ、増幅させた《気》を剣にまとわせることで、剣の切れ味・破壊力を増幅し、戦うのである。当然、剣士として大成するためには、剣の技巧に加えて《気》の練度が重要になってくる。

 そして《気》の練度が達人の域に達すると、《気》は《剣気けんき》へと昇華される。それはしばしば「炎が揺れるように立ち上り、煙のように立ち消える」と表現される。今までは剣をただコーティングするだけだった存在が、剣から立ち上る高次のエネルギー体へと変わるのだ。


 しかし、桜華への説明は難しい。なぜなら《剣気》は同じ領域へ達した者にしか見ることができないからだ。麒翔の知る限り、この学園で《剣気》を扱える者は、自分を除いてはいない。話したところで証明のしようがないのだった。

 そして今、この学園に入学して以来初めて、他者の操る《剣気》を目の当たりにした。群青色ぐんじょういろの《剣気》が黒陽の持つ模擬刀から立ち昇っている。美しいと思った。目を奪われた。この女ならもしかして、と一瞬だけ妙な考えにとらわれてしまった。


 勝負は一瞬だった。

 《気》と《剣気》では質の桁が違う。まともに受ければ模擬刀を吹き飛ばされるか、真っ二つに破砕されるかの二択。力をうまく流そうとしても、腕にかかる負荷に耐えられないだろう。

 結果、開始から間もなくして、愚呑は舞台に横たわっていた。気を失うだけで済んだのは、運が良かったわけでも神のご加護が働いたわけでもなく、黒陽の卓越した技巧によるものだった。


 黒陽は勝利の余韻よいんひたることもなく「次は誰だ」と言った。

 学年三位が瞬殺されたのである。軽々と出られる者などいるわけがない。

 重苦しい空気が場を支配する。

 沈黙を破ったのはやはり黒陽だった。


魅恩みおん教諭、他の成績上位者と手合わせしてもよろしいだろうか」

「ああ、構わんよ。盛館せいかん舞台にあがれ」


 盛館と呼ばれた大柄な男が舞台に上がる。

 麒翔の記憶が正しければ、その男は西方の二学年・首席であったはずだ。つまり、中央と西方の頂上決戦ということになるのだが、見るまでもなく結果はわかりきっていた。


 麒翔は天を仰いだ。盛館の巨体が白龍石の舞台に沈む。


(名乗り出る奴がいないからって指名制にしてんじゃねえよ。まさかこの女、本当に全員とやる気じゃないだろうな)


 麒翔の悪い予感は当たった。次に呼ばれたのは学年二位の男だった。ひょろっとしていて手足が長い。癖のある剣捌けんさばきが厄介だったのを麒翔はうっすら覚えていたが、《剣気》を前に小手先の技術でどうにかできるはずもない。


(まじぃ。この女は絶対関わっちゃいけないタイプだ)


 同じ《剣気》を使える領域に達した者として、黒陽に興味はある。しかし、唯我独尊ゆいがどくそんを地でいくこのタイプは、一度関わると非常に面倒だということを麒翔は経験則で学んでいる。

 それにこの場で実力を見せるのにも抵抗がある。能ある鷹は爪を隠す。実力とは、必要な時が来た時に、必要な分だけ発揮すればいい。それが麒翔の持論だった。


 総合成績順ならば、麒翔が選ばれる可能性は限りなく低い。だが、剣術の成績順でソートされるのは非常にまずい。そんなことを考えている間に、学年二位のひょろっとした奴が地面に転がっていた。

 勝利したはずの黒陽は見るからに落胆している。


「期待外れだったか……もしかしたらと思ったのだがな」


 模擬刀を無造作に振るい刀身とうしんまとわりつく《剣気》を煙のように散らす。美しい花にはとげがある。関わってはいけない女だとは知りつつも、凛々(りり)しく美しい横顔につい目がいってしまう。不意に、真横へ睨みつけるような形で黒陽の瞳がこちらに照準を定めた。目が合った。

 とっさに目を背ける。遅かった。黒陽はゆっくりこちらを振り返り、今度は真っ直ぐに麒翔の方へと向き直ると、遠慮のない視線をこちらへ寄越した。どうか自分ではありませんように。麒翔は信じてもいない神に祈った。無駄だった。


「おい、そこのおまえ。見えているだろう?」


 皆の視線が列の後ろに座る麒翔へ集まる。

 半ば無駄な抵抗と知りつつも「何も知りませーん」という風を装って、麒翔も後ろを振り向いてとぼけてみせた。後ろに座っていた女子生徒が「え? 私?」という顔をしてきょろきょろ辺りを見回す。


「ほう。いい度胸をしている」


 いつの間にか、黒陽が目の前に立っていた。

 模擬刀を麒翔へ向けて突き付けるような格好。風に流された黒髪が麒翔の鼻先をかすめた。良い匂いがした。


「えーと、なんのことかな」


 往生際の悪いことに麒翔は罪を重ねた。

 黒陽の眉間にしわが寄り、目が細められ鋭い光がその瞳に灯る。


「見えているだろう、これが」


 麒翔の鼻先で、模擬刀の先端に《剣気》が宿った。そのまま剣先がぐっと押し出される。当たれば痛いでは済まない。とっさに身をよじりかわすと同時、模擬刀を掴んでその軌道を変えていた。


「やはりな」

「やはりな、じゃねえよ! あぶねえだろ」


 黒陽に目を付けられた理由はなんとなく察しがついている。

 先ほど、麒翔は模擬刀から散る《剣気》――同じ領域に達した者にしか視認できないはずのそれ――を一瞬だけ目で追ってしまった。その微妙な視線の変化を機敏きびんに察知したに違いない。これだけ多くの生徒の視線に晒されながらも、たった一人の視線の変化、小さな違和すらも見逃さない。なんという観察眼なのか。麒翔は改めて黒陽に畏怖いふの念を抱いた。


「見えているから必死に避けたのだろう」

「見えてなくても普通避けるだろ!」


 黒陽がにやりと笑った。悪女たらんその悪辣あくらつな笑みも、美で装飾されると魅惑的に映るのだからたちが悪い。漆黒の瞳が勝ち誇ったようにこちらを見下ろしている。

 そして麒翔は己の失言に気が付いた。「見えてなくても」この一言は余計だった。これは見えていることが前提の発言だからだ。これでは認めたも同然。遅ればせながら彼女が笑んだ理由を悟る。


「受けてもらうぞ。さぁ立て」


 もはや麒翔に打つ手は残されていなかった。わらにもすがる思いで、立会人たる女教師に救援の視線を向けると、手のジェスチャーだけで立てと命じられた。


(まぁそうだろうな……)


 心の中でため息をつく。他の科目なら希望はあった。落ちこぼれの麒翔を相手にさせても時間の無駄と判断した可能性があるし、実力差を理由に止められていたかもしれない。しかし、他の成績がボロボロの麒翔ではあるものの、剣術の成績に限って言えば最高評価を受けている。このおかげで落第を免れている訳だが、今はそれが裏目だった。


「女と戦うのは気が進まないんだが……ま、しゃーないか」


 舞台の中央で対峙する。

 黒陽が構えを取る。小さく華奢きゃしゃな体であるはずなのに、背筋を正して模擬刀を真っすぐ構えた彼女は大きく見えた。その威風堂々(いふうどうどう)たるたたずまいからは王者たる風格さえも感じさせる。

 黒陽の周囲に《気》が満ちている。《気》はやがて《剣気》へと昇華され、模擬刀から揺らめく炎のように立ち上る。心地よい《剣気》だった。これだけ練度の高い《剣気》を練れる学生が、自分以外にもいたのだと感動すら覚えた。

 この期に及んで出し惜しみはしない。麒翔は《気》からの変換を経ずして、一気に《剣気》を解放した。不動だった黒陽の表情にそこで初めて驚きの色が浮かぶ。

 ちらりと広場中央の時計台に視線を送る。長針と短針が揃って0を指そうとしている。


「あと三分か」


 頭の中でプランを立てる。


(これは殺し合いじゃない。あくまで剣術の稽古。その延長だ)


 プランは決まった。

 女教師が腕を振り上げ、開始を宣言する。

「それでは、始め!」

 開始と同時、両者は一足飛びに相手の懐へ飛び込んだ。

 刹那、凄まじく高純度に圧縮された《剣気》と《剣気》の本流が激突した。




 ◇◇◇◇◇


 西方龍聖学園は全寮制の学園である。

 十五になった龍人は親元を離れ、学園に三年通い、そして一人前と見なされ独立する。いわば登竜門とうりゅうもん的存在なのである。

 授業は剣術、弓術、吐息ブレスが必修で、加えて魔術から選択三教科、計六教科で総合成績が決まる。その他にも多彩な座学――歴史学、戦争学、社会学、経済学、建築学などその他多数――が揃ってはいるが、これらの受講は任意な上、総合成績には含まれない。


 校舎は、大雑把に言ってしまえばL字を右へ90度回転させた形をしている。校舎の東には大きな図書館が併設され、西には学生たちの寮がある。北側は魔術研究棟が並び、南には広々とした庭園が広がっている。

 校舎の外周を、というよりも学園全体を走り回った末に麒翔きしょうが駆けこんだのは、魔術研究棟の敷地にあるボロボロの小屋だった。


「はぁはぁ。とんだ災難だ。なんだこれは厄日か?」


 室内には使い古された長机が二脚と、ガタのきてる木製の椅子が四脚。それから小さな収納棚と、本棚が一台ずつ置いてある。綺麗に片付いていると言えば聞こえはいいが、単に物がないだけである。

 先客が一人、窓際の席に座っている。

 麒翔は息を整えると入口に一番近い席に腰を下ろした。

 本を読んでいたその先客は、顔を上げるとニヤニヤと嫌な視線を送ってきた。


「翔くん、モテモテじゃーん」


 麒翔が露骨に嫌な顔を返すと、先客である少女・桜華おうかは悪びれもせずに言ってのける。


「ハーレムは男の浪漫ロマンでしょ?」


 盛大にため息が出る。頭痛が痛い。二重表現でつっこまれそうな強調をしたくなるぐらいには頭が痛かった。


「元はと言えば、あの女のせいだ。あの女が絡んで来なければ……」

「うん、すごかったよ。黒陽さんと引き分けるなんてわたしも思ってなかった」


 黒陽との模擬戦は昼休憩までの三分では決着がつかなかった。勝つ気にもなれず、かといって負けるのも悔しく、ならば引き分けにすれば目立たないだろう。麒翔はそのように考えたのだが、その認識は甘かった。


「二学年上位三名が歯が立たなかったんだもん。中央の首席と引き分けなら大金星だよ。そりゃ突然降ってわいた金山に、女の子たちは群がるよね」


 そうなのだ。今までは麒翔に対して興味も抱かず、挨拶すら交わそうとしなかった女子たちが、目の色を変えて迫って来たのだから、麒翔が辟易へきえきするのも無理はない。彼女たちは口々に麒翔を褒め称えた。


「麒翔くんってすごい人だったんだね」

「ねえねえ、どうして今まで実力隠してたの? ねーってばぁ」

「すごいです。私、感動しました!」

「あたし、麒翔くんに興味出てきちゃったな」

「麒翔様、わたくしあなたはやればできる方だと存じておりましたわ」


 取り囲まれ、質問攻めにされたところを何とか脱出。学園を駆け回って追手を振り切り、息も絶え絶えに逃げて来たというのがここまでの経緯いきさつだった。


「金山に群がるって。なんだその俗物ぞくぶつは」

「あー、ひどーい! それは失礼だよー」

「いや、おまえも似たようなニュアンスだったろ」

「えー、そうかなぁ」


 納得がいかないという風に桜華は首を捻っている。

 桜華が理解できないのも無理はない。彼女の名誉のために説明しておこう。


 龍人族というのは男よりも女の方が多く生まれてくる種族である。必然的に一夫多妻制のように一人の男に対して複数の女が付き従い、群れという集団を形成し、お互いに協力しながら生活していくわけだが、その際、強い男に付き従う方が生存率が高くなる。また龍人族は縄張り争いが激しい種族でもあり、若くして命を落とす龍人が後を絶たない。龍人族の寿命が500年以上なのに対して、平均寿命は30代半ばという低さからもその過酷さが伝わるだろう。


 つまり、龍人女子にとって、優秀な男に取り入ろうとするのは生存戦略上当たり前であり、本能レベルで定められた常識でもある。なので、"降ってわいた金山に群がる"というのは、悪口ではなく、単に比喩ひゆを用いて事実を評しただけなのに対して、それを"俗物"と称した麒翔の言は彼女たちの常識を批判することになり、失礼にあたるのだ。


 この感覚の差異は、麒翔が半分人間の血を引いている事に起因している。人間としての感覚が混じっているがゆえに、龍人女子の感覚を理解できず、あっさりとした手のひら返しに嫌悪を抱いてしまう。だが同時に龍人としての感覚も併せ持っており、自分はなんて器の小さい龍人なんだとも感じてしまう。

 もしも彼が純血の龍人だったなら、このような嫌悪は感じず、彼女たちの好意を素直に受け入れることができただろう。俺が一番強いのだから、こいつらが従うのは当たり前だと。


 あるいは、そちらの方が幸せだったのかもしれない。


 心の中に潜む人間のさがと龍人の性。相反する両属性の狭間で葛藤が生まれ、龍人の本能に呑まれてしまいそうになることがある。そして龍人女子への拒絶は、女を欲する龍人本能への抑圧に繋がる。抑圧された本能は水面下でじわじわとマグマのように溜まり、爆発するその時を辛抱強く待っている。


 その事を薄々感じてはいながらも、それでも麒翔は受け入れることができない。


「だいたい、あいつらお気に入りの男がいたはずだろ。そいつらはどーすんだよ。いいのかよ捨てて。心は痛まないのかよ、人として!」

「いいんじゃない? 婚約してたワケでもないんだし」

「軽っ! かっるいなおまえ。ドライすぎないか!?」

「えー、だって強い男の子が好き。一緒にいたいって思うのは仕方ないじゃん」

「いやいや、百歩譲ってそこまではいいよ。でも簡単に乗り換えるってどうなのよ。前の男は好きだったんじゃないの? 同じ事されたら俺もう立ち直れないよ!?」

「うー……、それはそうかもしれないけど……」


 桜華は困ったように眉を寄せて天井を仰いだ。

 狭い室内に静寂が訪れる。麒翔も少しクールダウンして冷静さを取り戻す。

 ふと、思いついたことがあった。それは前から聞いてみたいと思っていたことだった。


「なぁ、おまえはどうなんだよ」

「え? わたし?」

「強い男が好きなのか?」

「ん-、強い人はわたしだって好きだよ」


 繰り返すが、麒翔は落第すれすれの落ちこぼれである。半龍人であるがゆえに、龍人の力を十全に発揮することができず、剣術以外の成績は目も当てられない惨状なのだ。


 男子の中では断トツの最下位。女子を含めても麒翔より下はいない。

 男は女より優秀であって当たり前。ゆえに見下され蔑まれ、辛酸を舐めて来た。


 今日はたまたま、中央の首席と互角に渡り合ったことで注目を集め、評価が上書きされる結果となったが、それ以前の麒翔は、剣術しか取り柄のない駄目な人ぐらいに思われていた。それは桜華にしても同じだったはずである。ならばなぜ。


「じゃあなんでおまえは俺と一緒にいるんだよ」


 いつだって桜華が隣にいた。退屈を感じれば話し相手になってくれた。

 どうして落ちこぼれの俺なんかと一緒にいるんだろう。

 ずっと聞きたかったことだった。


 いつになく真剣な麒翔を前に、桜華はぷぷっと吹き出した。


「さぁ? なんでだろう?」

「知るかよ! 聞いたのは俺だよ」


 いつも通りのあっけらかんとした物言いに、麒翔は脱力して机に突っ伏した。


「桜華に真面目な質問をした俺がバカだった」

「ぶー、なにそれ。わたしがバカだって言いたいの!?」

「そこは議論の余地なくそうだろ」

「学校の成績はわたしの方が上ですぅ!」

「座学の成績はどうだったっけ」

「うっ、座学は総合成績に含まれないから……」


 旗色悪しと悟ったのか桜華が話題を強引に戻してきた。


「それで翔くんは、誰を恋人にするつもりですかー?」


 不意打ちで麒翔はせた。


「あれだけモテモテならよりどりみどりですよね、奥さん」

「誰が奥さんだ、誰が。全員ごめんだ。却下」

「えーもったいないよ。最後のモテ期かもしれないのに」

「さらっと怖いことを言うな」


 十分あり得ることだから怖い。

 去年一年間の灰色の学園生活を振り返れば、今のこの状況は奇跡と呼べるかもしれない。

 麒翔の心は少しぐらついた。


「いかん、桜華の顔をした悪魔の囁きにやられるところだった」

「なにその悪魔。かわいー」

「自分で言うな!」

「じゃあさ、翔くんの好みのタイプってどんな子なの?」


 考えたこともなかった。麒翔は石のように固まった。

 有能な女は好きだ。これは龍人の血がそう思わせるのだろうか。

 美人は好きだ。しかし、龍人族は美形揃いで大抵は美人で通る。あまり容姿に意味はない。

 桜華と一緒にいるのは心地が良い。しかしそれは、恋愛的な好きではないような気がする。それはきっと桜華も同じで。


「そうだな。好みのタイプというか、理想の妻像を話すなら……俺の考えを理解した上で補佐してくれる女がいい。有能なら言うことなしだな」


 腕を組み、うんうんと唸ること数十秒……ようやく出した答えがそれだった。

 桜華のぱっちり開いた目がすっと細められる。


「つまり、黒陽さんみたいな?」

「は?」


 ぶわっと全身から嫌な汗が吹き出る。

 あの規格外の美人に興味がないと言えば嘘になる。

 しかし、確実に興味よりも不愉快のほうが勝っている。その自信はあった。


「なんでそうなる!? だいたいあいつは有能かもしれないが、人の考えを理解するとか百年かかっても無理なタイプだろ! っていうか、おまえも俺の話ちゃんと聞けよ!!」


「へー、そうなんだー」


 棒読みである。まったく信用されていない。

 麒翔は立ち上がり、両手を天へ掲げた。


「くそっ。やっぱり厄日だ」


 あの女に関わりさえしなければ、このような屈辱的くつじょくてきな勘違いもされなかったのだ。桜華との平穏な日々を返せ! 麒翔はかなり大袈裟おおげさに心の中で叫んだ。クールダウンと同時に着席する。

 しかし、冷静になって考えてみると、関わらないという選択肢は最初から存在しなかったように思う。すべてはあの女の鋭い観察眼かんさつがんが元凶だったから。


「わざと負けるが正解だったか。でもあの女に負けるのはしゃくなんだよなぁ」


 涼しい顔で自然ナチュラルに見下してくるあの冷たい目。有無を言わさぬ言動に、強引な手法。美人だからこそ逆に腹が立つということもある。お高くとまりやがって。そういうことである。


「その言い方だと真面目にやってなかったみたいだね。手抜いてたんだ」


 半目になった桜華が呆れたように言った。

 なかなか鋭い指摘である。


「いや、それが手を抜こうとしたんだけどな……」


 当初の予定では、黒陽と同量の《剣気》を放出し、適当に打ち合って引き分けで終わらせる予定だった。では《剣気》が同等の場合に、何で勝敗が決まるかと言えば、それは剣の技巧である。


「あいつの剣の腕は本物だ。俺の攻撃は簡単になされ、一本取られそうになった。だから本気を出さざるを得なかった」


 黒陽との技巧差はかなり開いていた。その差を埋めるためには《剣気》の出力を上げ、力技で押し返すしかなかった。前半は技巧差で押され続けたが、後半は《剣気》の差で押し返し、そこからは麒翔が優勢で事を進めた。周りからは互角に見えただろう。だが、


「俺がやったのは、ただ力任せに棒を振り回しただけさ。剣術と呼ぶには、いささか優美さに欠けてるんだろうな、やっぱり」

「そうなの? 勝てればよくない?」

「勝ってないけどな」

「ん-、あのまま続いたら勝てそうだったけどなぁ」

「…………」


 下唇に指をあて、思案顔の桜華。

 麒翔はそれには答えず、肘をついて窓の外へ視線を向けた。

 これが殺し合いならもっと他にやりようはあった。しかし学校の授業として行う以上、あれは互いの研鑽けんさんを深めるための模擬戦でしかない。ならばあれ以上はなく、長引いたとしてもやはり勝負は互角だったのではなかろうか。どちらに軍配があがるかは神のみぞ知るである。




 ◇◇◇◇◇


 西方龍聖学園。


 応接室。


 龍皇に仕える侍女の中で、上位の序列を示す紫の龍衣に身を包んだ侍女頭がこうべを垂れ、ひざまずいている。主への忠誠の姿勢を見せる彼女は、両手を頭よりも高く、献上品を差し出すように封筒を掲げている。忠誠を尽くされる側の人物は、凍るような冷たい視線を封筒に落とすと、ふんだくるように掴み取り、中を確認することなくビリビリと封筒ごと破り捨てた。


「こんなところにまで押し掛けて来てどういうつもりだ」

「陛下のご命令ですので。どうか」


 額を床に擦り付けるぐらい深く平伏し、侍女頭が申し開きをした。


「見合いは受けん。相手は自分で探すと言ったはずだ」


 おそるおそるというていで侍女頭が反論する。


「しかしながら……公主様に相応しいお相手はいらっしゃらないかと」

「まだわからない……はずだ」


 苦々しくどこか歯切れが悪い。公主様と呼ばれた人物は、龍衣の袖をはためかせ厳命した。


「とにかく、侍女頭おまえはもう戻れ。私も明日には戻る」


 侍女頭が応接室を辞す。

 一人残された公主様がぽつりとこぼす。


「見つからぬ時はな」




 ◇◇◇◇◇


 夕暮れ。

 その日の授業を終えた麒翔きしょうは人気のない廊下を一人歩いていた。その顔は淫魔サキュバスに生気を吸い取られた男のように青白い。頬はけ、胡乱うろんな目は像を結べているのかすら怪しい有様。一日でこうも変われるものかとぼんやりした頭で考える。


「大丈夫だよ。相手にされないとわかればそのうち諦めるって」


 桜華おうかの言葉を信じて今は耐えるしかない。

 しかし、女性恐怖症になったらどうしよう。そんな不安が付きまとう。

 一人二人に言い寄られるだけならまだしも、十人二十人という単位で群がって来るのだからたまったものではない。というかはなから対応できる数ではない。

 今日何度目かの大きなため息が出た。


「これが毎日続いたら……持たないかもしれない」


 校舎二階。窓から庭園を見下ろす。

 今日は止めておこうかと考え、すぐに頭をぶるんぶるんと振る。

 日々の研鑽けんさんおこたるわけにはいかない。吐息し、不甲斐ない自分を鼓舞こぶする。しかしその決意はすぐに霧散むさんした。

 昇降口に見慣れぬ格好の少女が立っている。龍衣と呼ばれる民族衣装を着込んだその女は、麒翔の姿を認めると、キッと鋭い視線を寄越してきた。思わず麒翔はそのまま回れ右したい衝動に駆られた。

 だが、びびっていると思われるのもしゃくである。結局、麒翔は女の存在を無視し、通り抜けることにした。


「待て」


 すれ違いざまに呼び止められた。

 麒翔はこれを重ねて無視。そのまま歩み去ろうとしたところ、襟首えりくびを掴まれた。


「待てと言ってるだろ」


 仕方なく麒翔は足を止めて女の方へ向き直った。女の背は、頭一つ分小さい。挑むように見上げてくるのだが、間近で見ると、その美貌も相まって黒い瞳に吸い込まれてしまいそうになる。魔性の女か。麒翔はそっと視線をずらした。


「何の用だ」

「少し付き合え」

「断る」

「なぜだ」


 今日一日で何度目となるだろうか。一番大きなため息が出た。


「あのな、こっちは今日一日、おまえのせいで散々だったんだよ。どうしておまえの都合に合わせないといけない」


 それは黒陽こくようにとって寝耳に水だったに違いない。麒翔の主観ではなく、客観的に見たなら八つ当たりと呼べたかもしれない。黒陽は白く細い首を「なんのことだ?」と言いたげに傾けた。

 有無を言わさぬ上から目線の言動はともかく、彼女に悪意があってのことではないと麒翔も薄々気付き始めている。怒りを直接ぶつけるのは理不尽かもしれないと思い直し、いくらかトーンダウンする。


「女は面倒くせえってことだよ」

「それだ」


 黒陽の顔がぐっと近くなる。背伸びをしたのだ。突然の接近に驚いた麒翔はとっさに身を引こうとしたが、ネクタイを掴まれ引き戻された。唇が触れあいそうな至近距離。麒翔の目を覗き込むように黒陽は言う。


「なぜ女の好意から逃げる。なぜ女をはべらせようとしない」

「そ、そんなの俺の勝手だろ」

「勝手ではない。優秀なオスは、迷えるメスを導く義務がある」


 心臓が痛いぐらいに鳴っている。

 この女は何を言ってるんだ。そんな疑問が吹き飛んでいくほどにバクバクと。


「平民出のおまえにはわからないかもしれないが、貴族階級の男たちは、何百何千という女たちを己の庇護下に置いている。なぜだかわかるか。それが優秀な男の義務であり、使命だからだ。ならばおまえにも同じ義務が生じる」


 なんでだよ! 滅茶苦茶だ! そう叫びたかった。

 しかし、魅了チャームにでもかかったかのように体を動かすことができない。

 黒く澄んだ大きな瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいる。彼女が口を開くたびに吐き出される甘美な吐息が首筋にかかる。薄桃色の唇は薄っすら湿り気を帯び、誘うように開閉する。それらは彼女こそが本当の淫魔サキュバスなんじゃないかと思わせるほどに、淫靡いんび蠱惑こわくに溢れていた。


貴族おまえらの考えなんて知らねえよ。押し付けんな。迷惑だ」


 辛うじて、麒翔はそれだけを絞り出すことができた。

 黒陽の美しい顔がぐしゃっと歪んだように見えた。


「見損なったぞ。もっと気概のある雄だと思っていた。ようやく見つけたと思ったのに。なぜそのような腑抜ふぬけたことを言う」

「おいおい、勝手に期待して勝手に失望するなよ」

「失望の一つぐらいしたくもなるわ! それだけの力を持ちながら……なぜだ、なぜなんだ。救えるはずの命を見捨てる気か」


 滅茶苦茶な暴論に麒翔は鼻白んだ。

 そして目の前の端正な顔に、一筋の涙が流れていることにそこで気が付いた。同時に激しく混乱した。


(なんだ? 俺が悪者なのか? そんなに悪いことしたか? え? なんで泣いてんの? てかなんで俺は責められてんの? 意味がわかんねー!?)


 平民の出であり、人間との間に生まれた半龍人ハーフである麒翔には全く理解の及ばない話であった。そもそも仮に彼女の主張が全面的に正しかったとしても、それは貴族の心構え的な話であって、平民である麒翔には関係のない話ではないか。どうしてここまで――命を見捨てるとまで言われなければならない。だんだんと腹が立ってきた。


 感情が高ぶったところで何かが頭の中で囁いた。

 ――誘っているぞ。この女。

 それは龍人の本能だった。普段は抑圧されている本能が目を覚ましたのだ。


 そこから先は衝動に任せた行動だった。

 ネクタイを握る黒陽の手首を掴み、力を入れる。お互いの顔は近いままだ。


「多くの女を侍らせろ、か。ならばこれはキスをねだっているのか?」

「なっ……!?」


 弾かれたように黒陽の体が後方へ離れて行く。だが、今度は麒翔がその手を引っ張り返した。黒陽の華奢きゃしゃ身体からだが麒翔の腕の中に戻ってくる。胸板むないたに鼻先を強打した黒陽が頭一つ低い位置からにらみつけてきた。

 だが、本能に流されたのは、ほん一瞬だけ。麒翔は理性を失ってはいなかった。向けられる敵意ある視線を真っすぐ受け止め、男を知らぬお嬢様へ物申す。


「どういうつもりか知らないが。男を挑発すればこうなることもある。おまえは危機感が足りないんだよ。もう少し慎重に物事を考えた方がいい」


「こ――っの!」


 掴んでいた手を振り払われると、逆の方から風を唸らせて平手が飛んできた。

 ――バチンッ!

 首を飛ばす勢いの衝撃が麒翔の頬を打ち抜いた。その強烈な一撃を見舞った小さな手は、中空で小刻みに震えている。白い頬には朱がさし、見開かれた目元にはこぼれんばかりの涙が溜まっている。薄桃色の唇は怒りに震えているようだった。

 最後にキッと一睨み利かせると、龍衣の裾をひるがえし、黒陽はいずこかへ走り去った。一人残された麒翔は、痛む頬に手を当てる。


「ってぇ


 腰の入った良い平手だった。

 湧きあがってきた衝動を――本能の暴走を完全に消し去るほどに。


「嫌われただろうな。でもその方がいい」


 所詮は平民と貴族、住む世界も価値観も違う。過度な期待を寄せられても重荷なだけだ。その期待に応えるだけの力は、残念ながら麒翔にはない。なにせ自分は落ちこぼれなのだから。


「本当の俺を知った時が、一番失望するだろうさ」




 ◇◇◇◇◇


 西方龍聖学園に限らず、龍人族の運営する学園はすべて全寮制となっている。

 学園西には学生寮の他に教師の暮らす館と、来客用の豪奢ごうしゃな宿泊施設まで用意されている。

 来客用宿泊施設の中で一番豪華な一室に黒陽は通された。龍聖階級以上の貴族が使うことを想定された部屋である。学生寮とは比べ物にならない調度品の数々が揃っている。


 天蓋てんがい付きのベッドに腰を下ろし、黒陽は胸にそっと手を置いた。


(まだ、ドキドキしてる)


 いきなり抱き寄せるとは何と無礼な奴なんだろう。

 しかし、と黒陽は首を振る。

 今まで自分の周りにはいなかったタイプだ。そして腕っぷしが恐ろしく強い。


 あの模擬戦、途中から攻勢が逆転した。序盤は優勢にことを運べたと思う。しかし、勝利を確信した瞬間、状況が一変した。何が起こったのか正直わからなかった。迎撃不可能と思われた無茶な体勢から反撃が飛んできて、模擬刀の軌道を大きく逸らされた。そこからは体勢を立て直した先方からの攻撃に防戦一方となり、劣勢に立たされ続けた。なんとか尽力しさばき切ったものの、あのまま続いていたらどうなっていたことか。

 ただ一つ確かなのは、打ち合った時に模擬刀から伝わってくる重量が、ある地点から一気に増したということだけ。おそらく《剣気》の質が自分より上なのだ。そしてそれは途中まで本気を出していなかったことを意味する。

 不思議と侮られていたことへの怒りは湧いてこなかった。ただただ残念に思う。


「あれだけの力を持っているというのに……」


 龍人族の男には、学園卒業と同時にその成績に応じて爵位が与えられる。

 龍皇りゅうこう龍王りゅうおう龍公りゅうこう龍聖りゅうせい龍天りゅうてん龍閃りゅうせん龍騎りゅうき龍猛りゅうもう龍士りゅうしと九爵位が存在し、中央の首席で龍閃、地方の首席で龍騎が授与される。そして爵位を得た男たちは、親元から独立し、自分の群れ(家庭)を作る。また爵位に応じて娶れる妻の上限が決まっており、爵位によって群れの規模が決まる。


 黒陽の語るところの貴族とは、龍聖階級以上の者を指すが、その上の龍公階級までは、龍皇による任命制で、実力さえあれば誰でも到達することが可能である。


 だからこそ黒陽の失望は大きい。

 龍人族に世襲制せしゅうせいは存在しない。平民の出でも実力さえあれば貴族になれるのだ。


 あの男なら龍聖までは確実に達することが可能だろう。いずれはその先も視野に入ってくるはずだ。だというのに、群れを大きくする努力を怠っているのは志が低すぎるし、群れが小さいままでは、ある例外を除いて高い爵位は授与されない。


 そしてこの問題は、男の勲章たる爵位の話だけでは終わらない。

 黒陽は先ほど「優秀なオスは、迷えるメスを導く義務がある」と言い放った。あれは心からの言葉だった。


 龍人族の国は、一般的な国のていを取っていない。国の領土が侵略された場合、対応するのは国ではなく、その領土で縄張りを主張している群れが対応に当たる。無論、場合によっては援軍が送られることもありえるが、基本的には自力で解決する必要がある。


 しかし、一度戦争が起きてしまえば、例え勝利したとしても群れの被害は甚大じんだいで、愛する妻や仲間たちを何人も失うことになる。なので、龍人たちは事前予防として、己の力を誇示こじし、威嚇いかくする方法を取る。


 そのプロセスは至ってシンプルである。まず、優秀な男が屋台骨やたいぼねとなり、有能な女を集めて群れを作る。基盤が出来上がったら、養える分だけ適宜てきぎ、新しい仲間を迎え入れていく。そうして徐々に群れが発展して大きくなっていけば、それは小国並みの兵力に達する。そして男の爵位は上がり、それははくとなり威光いこうとなる。


 例えば、龍人族最強の男・龍皇の群れがある。その人口は、群れに所属する女だけで二万を超え、都に住む一般市民である他種族の男女まで合わせれば十万を超える。その戦力は龍皇の群れだけで大国に匹敵すると言われている。当然、他国も、同族も手を出そうなどとは考えない。威光とはそういうものである。


 威光が有効なうちは、外敵から侵略されることは滅多にない。威光が強ければ強いほど、群れで暮らす女たちは、平和と安寧を享受できるという仕組みである。


 しかし、優秀な男が群れを形成するのを放棄したらどうなるのか。答えは簡単だ。本来あるべきはずの群れは形成されず、本来は庇護され、平和と安寧を享受できるはずだった女たちは、劣悪な群れへ所属することになり、戦火に喘ぐこととなるだろう。そして命を落とす。本当は落とさなくていいはずの命を。


 あの男は言った「貴族おまえらの考えなんて知らねえよ。押し付けんな。迷惑だ」と。ようやく見つけたかもしれない運命の人の言葉だからこそ、心に突き刺さった。感情が揺さぶられた。


「これは押し付け……なのか?」


 幼少の頃より、皇族(最大規模の群れ)としての考え方を徹底的に叩き込まれてきた。個人の利益よりも群れの利益を優先するように育てられてきた。人の上に立つものの心構えを説かれ続けた。嫉妬は群れの足並みを乱す悪だと断じられた。

 それらは黒陽の価値観の全てだった。

 だから押し付けという感覚がわからない。黒陽の主張を理解できないという感覚そのものがわからない。


 ベッドに座ったまま、板張りの床に力なく視線を落とす。


「私は間違っているのだろうか……?」


 答えは返らない。

 置時計の秒針が動く音だけが一定のリズムを刻んでいるだけ。

 端正たんせい賛美さんびされるその顔は悲しそうに沈んでいる。


 ちらり、と寝台横の小テーブルへ視線を向ける。

 一枚の無記入の紙が置いてある。


「どうしよう……」


 決断できぬまま。無為に時は過ぎた。

 気が付けば日付が変わろうとしていた。


 黒陽は力なく立ち上がると、龍衣の帯紐おびひもに手をかけた。


 龍衣の帯紐が解かれ、衣擦きぬずれの音を残して床へ落ちる。

 はだけた上衣うわぎぬの隙間から二つの白い乳房ちぶさが僅かに覗く。だらりと下げられたえりの隙間は腹部まで続き、形の良いヘソが顔を出している。乱れたその格好で、幽鬼ゆうきの如き足取りで黒陽は窓へ近づいた。その先には夜の闇が広がっている。明かりのついた室内は外から見たら丸見えなのであるが、黒陽は頓着とんちゃくせずに窓を開けた。ぼんやりと外を眺める。


 ――ヒュン。


 わずかに、ほんの微かにではあるが風切り音のようなモノが聞こえた。神経をませ、耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音。黒陽はこの手の勘はすこぶる良い。


「また聞こえた」


 周囲の暗闇と一体化するように目をつぶる。

 大気の《気》が少しだけ乱れていることを感じ取る。音の位置と大気の乱れの発生源が同じだとすれば。


「この距離でこの乱れよう……そう、そういうこと」


 黒陽は呟き、上衣を整え直すと帯紐を締め直した。

 そして特別許可を得て持ち込んでいた真剣二本を両手に取り、部屋を出た。


 明日の朝にはこの学園を発つことになっている。

 運命が決するのだとすればそれは今夜を置いて他にない。

 妙な確信めいたものが彼女を突き動かしていた。




 ◇◇◇◇◇


 ――ヒュン

 夜闇の静寂の中に風切り音が響く。


 ――ヒュン、ヒュン

 袈裟斬けさぎりから切っ先を返して、刀身を跳ね上げるようにV字に返す。斬撃の軌跡きせきには《剣気》が残り火のように一瞬だけ残り、すぐに煙となって消えていく。

 仮想の敵を想像し、何もない夜闇のそこへ一刀を振り下ろす。

 最も重要なのは、想像力でもなければ、踏み込みの深さでもなく、斬撃の鋭さや技の精度ですらない。《気》だ。《気》のコントロールこそが最も重要だということを麒翔きしょうは知っている。


 体内で練り上げる《気》の練度をどれだけ高めることができるか。練り上げた《気》をいかにして無駄なく剣へ伝えるか。剣へ伝わった《気》を散らさず、いかに長時間維持することができるのか。この連携れんけいよどみなく、息をするぐらい自然に行うことができれば、それだけ《気》への理解は深まっていく。

 麒翔は剣術の技術向上にはあまり興味がない。興味があるのは《気》の本質、その正しい操作方法にこそあった。


 夜に行う修練はいいものだ。

 闇と一体化するような感覚。五感が研ぎ澄まされ、集中力が増す。普段以上に《気》の流れを近くに感じ取ることができる。


「っとぉ」


 額を伝う汗が目に入り、視界を歪ませた。

 もうかれこれ二時間は素振りを続けている。そろそろ休んでも良い頃合いだが、なぜだか今日は調子が良い。興に乗ったついでにもう少し続けるか。麒翔は汗を拭い、再び目を閉じた。


 ふと、研ぎ澄まされた感覚が違和を察知した。

 大気の《気》の流れがおかしい。

 周囲には誰もいない。大気の《気》を乱す要因があるとすれば、己の振るう《剣気》に他ならない。ならばその影響は麒翔を中心に同心円状に広がっていくのが道理。


「――の、はずなんだが。人か?」


 麒翔の乱した大気の《気》の流れは同心円状に広がっていない。まるで障害物があるかのようにそこだけ曖昧に歪んでいる。

 その違和は真っ直ぐこちらへ近づいてくる。


「やっべ、見つかったら面倒くせえ」


 夜の修練など学園のカリキュラムには存在しない。どころか許可すら取っていない上、学生寮からはこっそり抜け出している身の上だ。教師に見つかりでもしたら、たっぷりこってり絞られることだろう。麒翔は速やかに草陰へ隠れた。


 距離が近くなる。気配が現れた。草を踏み敷く音もする。

 その音は先ほど麒翔が立っていた辺りで立ち止まった。その正確無比せいかくむひな精度に冷や汗が出る。


「そこにいるのだろう。出てきたらどうだ」


 有無を言わさぬ断定的な口調。冷たいその声に聞き覚えがあった。麒翔はまさかと思いつつも、物音を立てないように草陰から顔を半分だけ覗かせる。

 月明りで薄っすらとだけ見えた。闇に浮かぶ白い顔の輪郭が。


「そこにいたか」


 闇に沈んでいても隠し切れない美しい顔がこちらへ向く。

 隠れる暇などない。麒翔は観念した。

 草陰から抜け出し、頭に付いた葉を払う。


「相変わらず、勘のいいことで」

「よく言われる」

「言われるのかよ。まぁそりゃそうか」


 妙な得心がいき麒翔は苦笑。同時に黒陽のある変化に気が付いた。

 相変わらず美しい顔をしているが、凛とした雰囲気が鳴りを潜め、どこか憂いを含んでいるような印象を受ける。


(あ? どうしたんだまるで別人……)


 黒陽が一歩を踏み出した。ゆっくりと近づいて来る。

 距離が近づき、その過程で麒翔はようやく視認することができた。彼女の両手に一本ずつ、さやに納められた剣が握られていることを。

 訝しむ麒翔の眼前までやって来ると、黒陽は右手を差し出した。拳を逆手にして鞘を水平に受け取れと言わんばかりに押し付けられる。


「まさか真剣か、これ」

「ああ、そうだ。受け取れ」


 理解不能を示す「?」マークを頭に浮かべながら、言われるがまま麒翔は鞘を受け取った。鞘には宝石で宝飾がなされ豪華な作りとなっている。鞘を少しずらすと、見事に磨き抜かれた剣身が姿を現した。キンッと小気味よい音を立てて鞘へ戻すと、麒翔は疑問を口にした。


「で、これはなんだ?」

「戦え」

「は?」

「戦え」

「いや、なんで同じことを二度言った!? 一応言っとくけど聞こえてるからな? 何と戦うんだよ。それをちゃんと説明しろ」


 黒陽は小さく頷くと、左手に持っていた剣を勢いよく引き抜いた。


「麒翔。私と決闘しろ」


 一瞬、時が止まった。麒翔の脳の処理限界を上回ったようである。

 そして時は動き出し、受け入れ難い現実に麒翔は全力で抗った。


「は? いやいやいやいや、おかしいだろ! わかるように説明しろ」


 いつの間にか、黒陽の表情からは憂いが消えている。元の凛とした美しくもたくましい顔付きに戻っており、薄桃色の唇は決意に硬く結ばれている。

 黒陽の全身から《剣気》が立ち上る。彼女の持つ剣に群青色の炎に似た《剣気》が宿り、剣身を妖しく装飾し始めた。武器の品質と《剣気》は積の関係にある。所詮しょせんは訓練用の模擬刀に宿る《剣気》とは根本的に質が異なるのである。あんなもので殴られたら、例え峰打みねうちでも死んでしまう。


「ちょっと待て。シャレになってねーぞ」

「抜け。無抵抗のおまえを斬っても意味がない」


 なおも戦う姿勢を見せない麒翔に業を煮やしたのか、黒陽は上体を沈めて剣を振るった。鼻先を一閃。風圧が麒翔の顔を叩いた。


「昇降口でのこと怒ってんのか? 悪かった謝るから――ってあぶねえ!?」


 斜めに飛んできた斬撃をすんでのところで回避する。


「今のは当てにきただろ、コラ!?」

「私に勝ったら何でも言うことを聞いてやる。悪くない条件のはずだ。さぁ抜け」

「――また、それかよっ」


 模擬戦の時も「私の身体を好きにしろ」と彼女はそう言い放った。

 自分の価値を貶めるような真似に麒翔はどうしようもなく苛立った。


「こ――っの、ばっか野郎! 安売りしてんじゃねえ」


 再び振るわれた群青の一撃を、麒翔は抜刀と同時に弾き返した。闇の庭園に火花が散る。


「おまえの価値はそんなもんじゃ――ねえ――だろがぁ。おとしめてんじゃねえ」


 ――キィン、キィン。

 剣を打ち合う甲高い音が響く。その度、火花が散り、一瞬だけ夜闇が払われる。


 麒翔の斬撃は《剣気》をふんだんに使用した大振りの一撃。対する黒陽は小回りの利く太刀筋で防御寄りに構え、隙を突いて反撃を狙っている。


「少しは――痛い目に――合わないとぉ――わからねえみたいだなぁ!」


 ――キィン、キィン、キィン。


 必殺の斬撃が夜のとばり跋扈ばっこする。

 一太刀ひとたちたりとも受けたがえれば致命傷は必至ひっし。一瞬たりとも気が抜けない。

 生き死にの勝負に参加を強いられ、麒翔の我慢も限界に達そうとしていた。


「俺がぁ――勝った時はぁ――――――覚悟――しとけ――よぉ!」


 ――キィン、キィンキィン、キィン、キィン。


 力任せの連撃を叩き込むが、黒陽はそのすべてを器用にさばき、僅かにできたすきを突いて反撃に出てくる。間隙かんげきに放たれた鋭い突きを脚力にものを言わせた力強いバックステップでぎりぎりかわし、そのまま距離を取るように後ろへ下がる。

 高速で景色が移り変わる。そのすべてを目で追いながら麒翔は池のある方へ秘かに誘導していく。


「ハッ! どうしたぁ。息があがってるぞ」


 息があがってるのは麒翔も同じである。なにせさっきまで二時間もの間素振りを続けていたのだから。


「うるさい。黙って戦え」

「おまえの希望通り相手してやってんだから感謝しろよ」


 無言のまま剣を振るっていた黒陽が挑発に乗って来たことで、麒翔は心の内でほくそ笑む。集中力が切れかかっている証拠。いい兆候だ。

 しかし、いつの間にか麒翔の手数は減っていた。それは傍から見てスタミナ切れに見えるだろう。相対的に黒陽の手数が増していく。しかしこれがきつい。彼女の技巧を凝らした変幻自在の斬撃を捌き切るのは至難の業。


「ちっ、やっぱ技巧の差はかなりあるな」


 剣による受けだけでなく、鍛え抜かれた敏捷性を駆使してなんとか凌げている。

 そしてそれは、大きく後ろへ跳躍した時に起こった。


「げっ!?」


 着地と同時、ぬかるみに足を取られた。池のほとりまで来ていたのだ。


 バランスを崩した麒翔を見て、勝機と見たのだろう。今までの小回りの利く太刀筋ではなく、大振りの一撃を放ってきた。


 麒翔の顔に悪い笑みが張り付いた。

 この時を待っていた。


「なんちゃって」

「なっ――!?」


 バランスを崩したかに見えたのは、大振りの一撃を誘い出すための演技だった。

 ここぞとばかりに隠しいでおいたきばく。

 一気に《剣気》の出力を上げて黒陽の放った一撃を迎撃、力任せにその華奢な体ごと吹き飛ばした。間髪を入れず、追撃を入れる。流石とも言うべきか、黒陽は大きくバランスを崩しながらも素早く体勢を立て直している。だが、先手は麒翔が取っている。十分に《気》を練れる時間はあった。大上段からの渾身の一撃。これを黒陽は剣で受ける形で防御した。重く鈍い音が響いた。大上段からの一撃は、黒陽の頭上ぎりぎりで止められている。ギリギリと鋼鉄が悲鳴を上げている。


「それだ。覚えておけ」

「……なに?」


 力では麒翔が勝っている。

 絶対的優位であるにも関わらず、麒翔は剣を引き、鞘へ収めた。

 納得のいかない様子の黒陽が口を開く前に、機先を制す。


「ついて来い。場所を変える」




 ◇◇◇◇◇


 場所を変えると言っても然程さほどの距離はなかった。目的地は同じ庭園にある。

 納得がいかないながらも黒陽は渋々付き従っている。

 石造りの祭壇のような場所で麒翔が歩みを止める。祭壇には黒い柱のようなものが立てられている。黒柱へ歩み寄りながら、麒翔が問う。


黒龍石こくりゅうせきを知っているか」

「世界一硬い鉱石のことだろう」


 唐突の質問に黒陽は訝しながらも律儀に答えた。


「では問おう。この模擬刀で黒龍石を斬ることはできるか?」

「不可能だ」黒陽は言下に否定した「それが出来るとしたら龍公以上の成龍おとなだけだ。真剣を使えば、私でも傷の一つぐらい付けられるかもしれないが……」


 麒翔は頷きを返した。その顔は真剣そのもの。


「かつて、剣術に特化した龍皇陛下がいたらしい。彼は学生の時分、その頃使っていた模擬刀を使って黒龍石を両断したという逸話いつわを残している。その逸話になぞらえて、この学園の中庭には」


 黒い柱のところまでたどり着き、模擬刀でコンコンと叩く。


「こうして黒龍石の柱が用意されている」


 話の意図を察した瞬間、黒陽の身体からだ激震げきしんが走った。

 まさかとの思いが全身を支配し、硬直させる。

 急激にのどかわき、緊張が全身を包んでいることを自覚。胸の鼓動こどうがかつてないほど高鳴っている。剣を打ち合わせていた時よりもずっと大きく強く激しく。その黒いまなこ最奥さいおうには畏怖いふと期待と疑念が複雑に入り混じっている。


「まさか同じことをできるとでも言いたいのか。剣術の達人、龍皇・閃道せんどう陛下と同じことを」


 無言のまま、麒翔は持っていた真剣を鞘ごと地面へ突き刺し、模擬刀を両手で握りこんだ。黒龍石に向かって構えを取ると、すうっと息を吸った。直後、爆発的に《剣気》が増幅し、麒翔の全身から放出された。それは暴力的なまでに荒れ狂う《剣気》の津波だった。ビリビリと大気を伝わって《剣気》が肌を震わせる。

 やがて無秩序に荒れ狂っていた《剣気》は制御・収束され、模擬刀へ集まっていく。全てが一刀に収束した瞬間、麒翔は模擬刀を大上段から斜めへ振り下ろした。


「やっと見つけた」


 黒龍石が両断される刹那、黒陽は無意識に呟いていた。



 ◇◇◇◇◇


「わかったか。今ので死んでいたぞ」


 放心しその場から微動だにできずにいる黒陽へ冷たく言葉を投げつける。

 決闘の最後の局面。策をろうしてたばかり手にした一瞬の隙、邪魔の入らないあの瞬間なら、全力を引き出す時間は十分にあった。もしもあの時、麒翔が本気だったなら、防御に回した剣身ごと彼女の脳天は二つに別れていただろう。


「仮に模擬刀の決闘だったとしても結果は同じだ」


 世界一硬い鉱石――黒龍石を両断するほどの切れ味である。本来は殺傷力のない模擬刀ではあるが、龍人の強靭な肉体をも切り裂くことは想像に難くないだろう。

 黒陽の手から刀剣が滑り落ちて、石畳いしだたみの床に転がった。


「ああ、私の負けだ」


 しおらしく項垂うなだれて見せる黒陽に、されど麒翔の怒りは収まらない。なんの理由も説明されないまま、強制的に生死をかけた戦いに参加させられたのだから当然である。下手をすれば自分が命を落としていた。

 怒りをぶつけるように黒陽の手を上方へひねり上げる。


「決闘の取り決めは守らなければならない。おまえは何でも言うことを聞く。そう言ったな」


 捻り上げた手をさらに締め上げる。黒陽がかすかに苦悶くもんの声を漏らした。


「だったら、俺のモノになってもらう。意味はわかるな?」

「わかっている。忠誠を誓い、誠心誠意仕えよう」


 麒翔は冷酷な笑みを作るよう努めた。突き放すよう傲然ごうぜんと言い放つ。


「勘違いするな。妻に迎えるんじゃない。奴隷になって貰う」


 表情の変化に乏しかった黒陽の顔に、そこで初めて驚愕きょうがくの色が浮かぶ。その衝撃からか目は大きく見開かれ、小さな口から発せられる呼吸には乱れが生じる。


「なっ……ど、れ……い?」


 その混乱を象徴するかのように、焦点を失った眼球が左右に揺れ動く。

 拘束した手首を力任せに引っ張り黒陽を抱き寄せると、龍衣の襟元から覗く白く細い首筋に麒翔は顔をうずめた。女の匂いが鼻から侵入し、肺を満たした。

 そのまま耳元で囁く。


「では早速、慰み者になってもらおうか」


 年端も行かぬ少女にとって、死刑宣告にも等しいその要求に黒陽は顔を背けることで僅かばかり抵抗。しかし彼女は気丈に耐えた。


「好きにしろ」


 一瞬、どす黒い感情が麒翔の全身を駆け巡った。


 ――この女をメチャクチャに汚したい。


 それは龍人の本能だった。

 極上の女を前に、一度湧きあがった龍人の本能を抑制よくせいすることは容易よういではなかった。普段抑圧(よくあつ)している分、火山が噴火するかのように激しい衝動が一気に体を上ってくる。たけくるふくれ上がるそれは、標準的な龍人の衝動を遥かに超えていた。


 黒陽を拘束していた手を離し、爪が自身の肉に食い込んだとて容赦せず拳を限界まで握りしめる。嚙み締めた犬歯が口内を切り裂き、鮮血となって頬を伝い落ちる。拘束を解かれ自由の身となった黒陽は、力なくフラフラと後退し、地面に尻もちをついた。放心しているのかその瞳は仄暗ほのぐらく沈んでいる。


「クソ、まじか。やっちまった。があああああぁぁぁぁ」


 鋼鉄こうてつ自制心じせいしんって、麒翔はなんとかその誘惑に耐えている。龍人の本能と人間の理性。かつてない程の規模で、両者は激しくぶつかり合っている。

 完全に計算外であった。お嬢様だと思って舐めていた。彼女の覚悟を甘く見ていた。まさか承諾するとは思わなかった。

 龍人同士は群れを巡って争い、勝利した側の群れに敗者の群れが合併統合がっぺいとうごうされる。完全に屈服しためすを前に、おすがすることは己の色に塗り替える行為に他ならない。それは遠い昔、まだ人の姿をしていなかった頃から変わらない。太古の昔より脈々と受け継がれし本能が、激情げきじょうを煽り、女を蹂躙じゅうりんせよと命じる。


「なんで断らねえ。どうしてそこまで自分を投げ捨てることができる。どうして自分を大切にしねえ! 例え決闘の決め事だったとしても足掻あがいてみせろよ!」


 それは心からの叫びだった。

 自分の価値を貶め、無価値かのように投げ捨てる。まるで安いケチな景品か何かのように自分の身を簡単に差し出そうとする。こんなにいい女なのに、今まで出会った女の中で一番有能である癖に、彼女がどれだけ価値のある存在なのか。出会って一日と経っていない麒翔でさえ、その価値がどれだけ高いものなのかを知っている。


「剣術しか取り柄のない俺とはちげーだろ! おまえの価値は本物だ!」


 周りの奴らだって誰もが知っている。それなのになぜ、この女は自分を安売りする。その感覚が理解できず、そして何より許せない。


「答えろよ。なぁ黒陽!!!」


 名を叫ばれ、放心状態だった黒陽がハッと顔を上げる。

 龍衣の胸元にそっと手を当て、黒陽は安らかに目を閉じた。


「奴隷でも構わない。そうすればあなたのそばにいられるから」


 完全に文脈を無視した突然の告白に麒翔は混乱するしかない。


「言葉足らずってレベルじゃねえぞ。おまえあれだろ。感情を表に出すのが苦手なら、感情を言葉にするのも苦手だろ。なぁ絶対そうだよなぁ!?」


 言いたいことはたくさんある。

 なんで自分の傍にいたいんだとか。奴隷で良いわけねえだろとか。もっと自分を大切にしろとか。おまえは最高の女だとか。そもそも何で決闘する必要があったんだとか。


「まずはこれをどうにかしないとなぁ!」


 麒翔本人は決して認めようとしないだろうが、黒陽の告白がモチベーションを飛躍的に向上させる結果となった。モチベーションが上がったことで精神力へポジティブな影響を与え、結果として本能を完全に掌握しょうあくすることに成功した。

 長い戦いであったように感じるが、一分にも満たない短い時間での攻防であった。


 肩で息をつき、麒翔は手を差し伸べた。


「いつまで腰抜かしてんだ。ケツ痛くなるぞ」


 遠慮がちに伸ばされた細い腕を引っ張り上げ、黒陽の身を起こす。その美しい顔には疲労が浮かんでいるが、血色自体は悪くない。

 頭一つ低い位置から、黒陽のうるんだ瞳がこちらを見上げている。見る者をとりこにして離さない漆黒の瞳だ。その深奥しんおうに吸い込まれてしまいそうになる。


 聞きたいことはたくさんあったはずなのに、いざ本人を前にすると霧散するみたいに消えてしまった。その瞳に宿る不思議な魔力のせいだろうか。何か言わなければと思うのだが、何も浮かんでこない。


 黒陽の西方龍聖学園への滞在は一日限り。ここで聞いておかなければ、もう二度と会うことはないかもしれない。そうやってあせると余計に思考は空回りして、頭が真っ白になった。そうして。


「なんで決闘する必要があったんだよ」


 結局、長い時間を掛けて絞り出せたのはそれだけだった。もっと聞かなければいけないこと。優先順位の高い質問はあったはずなのに。


 黒陽はぽつりと答えた。


「恋をしたかった」




 ◇◇◇◇◇


 恋をしたかった。


 黒陽は、龍皇・黒煉こくれんを父に、そのきさきである将妃しょうひ烙陽らくようを母として、十六年前に公主こうしゅとして生を受けた。

 群れでの序列を表す将妃は、序列第二位・軍事の最高司令官を務める誉れ高きくらいである。序列第一位である正妃せいひ――最初に娶った妻に与えられる――の位が空席であったため、実質、黒陽の母は群れを束ねる最高責任者の任も兼ねていた。


 必然的に、その娘である黒陽の序列は、生まれた時から相当の高見にあった。


 龍人族の群れは女社会である。群れが大きくなるにつれて、群れのあるじたる男は、側近となりえる有能な妻にくらいを与え、群れを統率・管理させるようになる。当然そこには責任が生まれ、群れがより発展するように尽力しなければならない。

 その帝王学を黒陽は幼少の頃から叩き込まれた。群れを大きくするための考え方から、創意工夫の方法まで。人の上に立つ心構えから、人心掌握じんしんしょうあくの術に至り、そして必要悪と断じる権謀術数けんぼうじゅつすうの数々。

 特に黒陽に影響を与えたのは、個人の利益よりも群れの利益を優先するようにという教えだった。幼少の頃からずっと説かれ続けたその教えは、個としての自分を殺す結果に繋がり、感情の起伏が少なくなった。


 中でも母・烙陽が固執したのが「嫉妬は悪」という考え方だった。


「嫉妬は群れを崩壊せしめる悪の感情よ。賢いあなたなら大丈夫。うまくコントロールできるようになりなさい」


 母は決して他人事ではないのだと熱く語った。かつてこの群れでも嫉妬が原因で崩壊しかけたことがあるのだと。絵本を読む代わりに幼い黒陽に何度も何度も言って聞かせた。

 しかし、黒陽が嫉妬を抑えるすべをついぞ身に着けることはなかった。なぜなら彼女は恋をしたことがなかったから。嫉妬という感情が湧きあがったことは、今まで一度としてなかった。


 黒陽は幼少の頃から優秀だった。

 龍人族最強の男である父と、十万の群れを統率する有能な母から生まれたのだから当然とも言える。血統はこれ以上望めない高貴なものであった。


 生後三日で吐息ブレスを覚えた。危うく母に仕える侍女を殺しかけたらしい。彼女にその記憶はない。普通は四歳から五歳で覚えるものだと後になってから聞いた。

 三歳で、初めて魔術を覚えた。闇属性の初級魔術だった。魔術を習得する平均年齢が十二歳であることを考えると、異例のスピードだということがわかるだろう。

 五歳の時、学園で修了予定の闇魔術は学び終えた。家庭教師は私にはもう手に負えないと泣きべそをかいていた。


 八歳の時だ。興味のある魔術は一通り修了したので、剣術を習い始めた。剣術の手合わせのため、歳の近い腹違いの兄弟・姉妹と交流を持つようになった。

 ある日のことだ。年上の姉たちがきゃっきゃと騒いでいた。話を聞いてみると、先日開かれた社交パーティの話らしい。彼女たちは、どこどこの誰誰が格好いいとか、将来有望なのはあの人だとか、要するに恋話に花を咲かせていた。

 そして姉の一人が黒陽に訊いた。「あなたは誰が好き?」と。その問いに黒陽はうまく答えられなかった。姉たちは「まだ黒陽には早いかもね」と笑っていた。

 黒陽が恋とは何かと問うと、姉たちはこう答えた。

「その人のことを思うと心がドキドキするの」

 それが恋なのだと教えてくれた。好きな程にドキドキは強くなり抑えきれなくなるのだと。更に。

「好きな人に触れられるとね、胸がキュンとなるのよ」

 それらの感覚を黒陽は味わったことがなかった。強く興味を引かれた。


 十歳になる頃には、剣術の腕はかなりの域に達していた。そして母譲りの容姿は美の高見へ開花しつつあった。

 しかし、この頃になっても依然として黒陽は恋を知らないままだった。

 かと言って、異性を遠ざけていた訳ではない。恋に興味はあったので交流は積極的ですらあった。しかし黒陽の心は何も感じなかった。

 姉たちにアドバイスを求めた。姉たちは少し困ったように「そうね」と悩んだ後、アドバイスをくれた。それは「龍人女子は強い男の子を好きになる」というものだった。光明が見えた黒陽はパッと笑顔になったものだったが、すぐに絶望することになる。優秀すぎるがゆえに彼女よりも優秀な男など存在しなかったのだ。


 十二歳で《剣気》を習得した。またその美貌は完成しつつあった。

 その美貌と実力に興味を示さない男はいなかった。しかし、黒陽はそんな彼らに興味を示さなかった。

 ある日、龍王の子息から求婚された。歳は三つ上だった。中央の一学年・首席のエリートとの話を聞いて、黒陽は剣術の決闘で自分に勝てたら求婚に応じるとの条件を出した。

 結果は黒陽の勝利だったが、いい勝負ではあった。好勝負であったためか、胸が少しドキドキしていた。そこに今度こそ黒陽は光明を見出した。

 もしも自分が負かされるに至ったなら、その時は今の比じゃないぐらいドキドキしているはずだと。

 それから求婚者に対しては「決闘で自分に勝てたら妻になる」という条件を課すようになった。しかしやはり彼女に勝てる者はいなかった。

 いつまで経っても一向に見つからなかったことから、まだ見ぬドキドキを与えてくれる男性のことを運命の人と呼ぶようになる。


 十五歳で、父の運営する中央龍皇学園へ入学した。

 この頃にはすでに美は極まっており、彼女に興味を持たない男子生徒は皆無だった。

 生徒の中にはすでに黒陽に求婚し、敗れた者も数多くいたが、そうでない優秀な者も大勢在籍していた。しかし、必ずしも全員が全員求婚してくる訳ではない。なので当初は「決闘で自分に勝てたら妻になる」という条件だったものが「決闘で勝てたら何でも言うことを聞く」などの曖昧なものに変化していった。「何でも」の中には龍皇である父への口利きなども含まれていたためである。

 しかし、結果は常に同じであったため、問題は発生しなかった。


 十六歳になり、二学年に進級した。

 すでに学園の目ぼしい生徒は全滅していた。

 とはいえ、名門の中央のことである。《剣気》を扱える生徒は何人かいて、彼らとは好勝負ができた。多少のドキドキを味わうことはできたものの、ドキドキが抑えきれないという状態には程遠かった。

 そこで黒陽は、他の学園へ見学を名目に乗り込むことを決めた。

 道場破りのように学園を荒らして回り、六番目の標的に選んだのが西方龍聖学園だった。そこで黒陽は麒翔と出会った。

 《剣気》が見えていることは彼の視線でわかった。なぜ彼が成績上位者に入っていないのかは疑問だったが、《剣気》を扱える龍人を見逃す手はなかった。

 模擬戦は結果だけを見れば互角だったが、劣勢に立たされるという経験は黒陽にとって人生で初だった。自然と胸は高鳴った。

 運命の人かもしれないと思った。

 居ても立ってもいられなくなり、麒翔の姿を探した。話してみたいと思ったから。しかし、なかなか見つからなかった。そうこうするうち、女子生徒から逃げ回る麒翔を発見。群れへの考え方の違いから強い不満を抱く。そして――




 夢を見ていたようだ。


 ベッドの上で黒陽は目を開けた。天蓋付きの天井が目に飛び込んでくる。

 西方龍聖学園の宿泊施設、その一室である。

 黒陽は体を起こし、胸にそっと手を当てた。


「ドキドキしてる」


 一晩経ってなお、胸の鼓動は静かになってくれなかった。昨晩のことを思い出すたびに脈動が力強く呼応する。


「これがそうなのだろうか。姉様」


 黒龍石を両断するあの瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。

 全身が心が震えた。お腹の中心、女たる部分が熱くなった。

 何度もフラッシュバックする。その度に、ドキドキがどんどん強くなり抑えきれなくなっていく。

 あの瞬間からは終始、夢心地だったように思う。

 とはいえ、奴隷になれと言われた時は流石に驚いた。「何でも」の言葉の裏に奴隷化までが含まれているという認識はなかったからだ。元々「妻になる」という言葉から曖昧に変化していった経緯があったためだろう。

 その直後、腕を取られ強引に抱きしめられた。蘇ったのは姉の言葉。


「好きな人に触れられるとね、胸がキュンとなるのよ」


 その時感じた幸せは、キュンなどという控え目な表現では到底足りないものだった。それは地の底から湧き上がる火山の爆発である。永らく眠っていた恋心それが完全に目を覚ました。


 瞬間。すべてはどうでもよくなった。長年求めてきた抑えられないドキドキを超える、胸の内が爆発するような特大のドキドキを味わうことができたから。このまま消えてもいいと思えた。奴隷でもいいと思えた。この人と一緒に居られるならそれでいいと思えた。


 その後はずっと胸がドキドキしっぱなしだった。

 夢を見ているみたいに現実感がなかった。

 フワフワしていた。そして今もフワフワしている。

 とうとう夢が叶ったのだ。


 寝衣しんいを脱ぎ去り、龍衣に手を伸ばそうとしてふとその動きを止める。

 備え付けの衣装箪笥いしょうだんすを開き、白い薄布を取り出した。薄布には小さなボタンがたくさん付いている。それがブラウスと呼ばれる衣服であることを黒陽は知識として知っていた。他の女子生徒がどうやって着こなしていたのかを思い出しながら、なんとか着替えることに成功。同じ要領でスカートと蝶ネクタイを装着する。

 肌が露出することに慣れていないせいか、手足がやたらとスースーするし、なにより気恥ずかしい。


 鏡の前に立ち、全身を映す。

 なんとか形になったようだ。

 黒陽は満足して「うん」と頷いた。


 寝台横の小テーブルに置いてあった紙を手に取ると、そのまま部屋を出る。

 清涼な早朝の空気に包まれた廊下を行くその軽い足取りは希望に満ちているようだった。








 転入届け


 所属:龍皇・黒煉

 氏名:黒陽

 在籍学園名:中央龍皇学園


 私はここに貴校・西方龍聖学園への転入を希望します。

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