同じ道を帰ってはいけない
その日、母の葬儀でも言われた、葬式の時には同じ道を帰ってはいけないよ、と。
六年前の父の葬儀の際、三列シートのいちばん後ろから叔母が身を乗り出して言ったのが、最初に聞いたのかもしれない。そう伝えると、
「前にも言ったよぅ」
また同じ場所に座っていた叔母は小柄な体から、びっくりするような大声で付け足した。
「ずっと前にも言ったことあるよ、トシくん、あんたがまだ小学校の時さ、ばあちゃんが亡くなった時にマイクロバスの人も言ってたじゃない。葬儀場まで行って帰る時には必ず同じ道を通らずに帰るように、って」
「なんでだっけ?」
ハンドルを右に切りながら、わずかに振り向きながら訊ねる。助手席の妻がかすかに顔をしかめた。
妻は僕の両親はじめ、親戚連中をもよくは思っていなかった。
「いうことがいちいち古臭いし」
彼女が飲めない酒を口にした後、こう吐き捨てたことがあった。
「それに、私たち夫婦や子どものことにも何かと要らないおせっかいが多いのよ、おかず余分に作ったから、ってあの生臭い味噌漬けみたいな」
「ヌタ、っていうんだよアレは」
「そのネーミングも沼っぽくてイヤ」
はじめのうちは田舎暮らしとか大家族にあこがれていたんです、と頬を染めていた妻のきらめきは子どもが三つになる頃にはすっかり影をひそめ、愚痴すら出なくなっていた。
6年前の父の葬儀が決定打だったかも知れない。その際は、あまりにも急だったので妻も僕もてんてこまいだった。子どもも生まれたばかりだったし、僕も気をつかって妻になるべく休んでいるよう伝えていたし……それがかえって逆効果だった。
親戚連中、おじ、おば、年上のいとこまでも僕たちの家庭に、妻いわく「土足で踏み込んできた」のだ。
泣きわめく息子を抱きあやしていた5歳上の従姉は、最後には「しつけがなってないのね、こんなに懐かない子初めてだわ」となかば放り出すようにその子を座布団に置いた。打ちどころが悪かったのか、息子は更に泣きわめき、親戚連中の食事の支度にかかりきりだった妻が血相を変えて飛んできた。
それか大きな影を落としたのだと思う。いつの間にか、妻は僕たち血族とはひややかな一線を引くようになっていたのだ。
「なんでかって言うとさ」
真ん中のシートに乗っていた従姉が口をはさむ。脇には6歳になった息子の駿が、ゲーム機に没頭した様子で座っている。赤ん坊の時に彼女から座布団に放り出されたことなど、彼は覚えていないだろう。従姉の方もそうだ。独身の彼女は何かというと駿に金目のものを買いあたえるようになっていた。遊んでいるゲーム機もそうだ、そしてそれも、妻には面白くないようだった。
「なんでかって言うと、仏さんを送ってから同じ道を帰ると、仏さんが道を覚えてしまうから、またついて帰ってしまうからだって」
「分かったよ、この先は左の県道に入るから」
そこに、妻が急に思い出したように言った。
「ごめんスーパーに寄らなきゃ、そのまままっすぐ行ってよ」
来たのと同じ道すじだ。僕は妻の顔をみる。
「喪服のままで?」
「しかたないでしょ? 今夜はおば様も啓子さんたちも泊まるんだし、夕飯の用意をしなくちゃ」
「さっきの払いの料理がまだ余ってるよ」
最後列、叔母の脇にいた啓子の弟、伸司がそう言うが、妻は明るく
「シンジさんにももう少しビール差し上げたいし、ユウコちゃんには何かデザート買いたいな」
そう言うと、伸司はまんざらでもない様子で、叔母と自分との間に窮屈そうに座る自分の娘に向かい「よかったな、デザートだってさ」と言って頭を軽くこづいた。
中学生の優子はやはりゲーム機に没頭しながらも「あざす」と小さく答える。そんな優子に伯母にあたる啓子はちっ、と舌を鳴らし前を向いたままつぶやく。
「母親がいないと、返事すらまともにできなくなるんだね」
賢明にも、その言葉じりを捕まえて反論する者は、車内には誰もいなかった。
伸司の妻が夜逃げ同然で出て行った顛末は僕も詳しくは聞いていなかった。しかしおそらくは、しょっちゅう「実家」に出入りしていたこの従姉がおおいに関係していたであろう、というのはずっと以前から気がついてはいた。
だからこの時も僕は運転に集中するふりを続けていた。
妻は喪服のままスーパーに入って行った。カートを押すとか、手伝おうと名乗り出る者は皆無だった。
僕は僕で「じゃあクーラー切れないから僕も残る」とそのままスマホに目を落とした。
しばらくしてから帰ってきた妻は山ほどの荷物を重たげに運んできた。エコバッグがはじけそうなくらいだった。
「真ん中に、ケイコさんと駿の間に置いてくれる?」
えー、と啓子が少し顔をしかめる。「助手席の足元が空いてないの?」
「ちょっと、量が多くて」
妻は何度も頭を下げて荷物を真ん中シートの真ん中、それでもやや息子に寄せておいた。
スーパーから急いで帰らなきゃ、との妻のことばに特に逆らうこともなく、僕は結局、来た通りの道で家路についた。
家に入る前、短い導入路手前で急に妻が声を上げた。「ちょっと、止まって!」
あわててブレーキを踏む。どうしたんだ? と詰問する間もなく彼女はするり、と車から降りる。それだけでなく、車内にいた息子を大声で呼んだ。
「シュン! ちょっと降りなさい」
母親の強い口調には逆らえないと思ったのか、息子がしぶしぶゲーム機を置いて、車の外に出た。
「あのオモチャ、シュンのでしょ?」
妻が指さす方、家とは反対の車道側には、小さな水路がある。確かに水路の中に、見慣れたオモチャが落ちているのがみえた。
「庭に出しっぱなしにしたせいよ、風で飛んだんだわきっと。自分で拾いなさい」
息子はのろのろと従って、水路に降りた。妻が振り返って僕に言う。
「ごめん、先に家に入ってて」
ようやく長い葬儀の時間が終わり、僕たちは家に収まった……帰りも結局同じ道すじで。
風に飛ばされたにしては、重い作りだったよな……とかすかに浮かんだ思いはすぐに、従姉の金切り声で吹っ飛んでしまった。
「ねえこの荷物! トシ、代わりに運びなさいよ! アンタの奥さん置いてっちゃったんだからね」
台所で早速、冷たいビール缶を開けていると、裏口から妻と息子が入ってきた。
「あのね」
息子はやや、興奮している。「ちょうどね、ネコがいたの、それでママと追いかけてさ」
「結局、回り道しちゃった」
妻はどこか静かな口調だった。
叔母とその娘、息子一家を散々もてなし、自分もかなり飲んでしまってからいつの間にか、帰ってきた骨と位牌との祀られた座敷で寝てしまっていたらしい。
のどにひっかかる匂いでまず、目が覚めた。
ぱちぱちとはぜる音は、何なのだろう? それに、妙に暑苦しい。
ようやく気付いた。火事だ。
僕は飛び起きる。子どもは、妻は、それに二階に泊まっている叔母たちは無事か?
急いで廊下に出るが、すでに彼らのいる二階には黒い煙が充満している。そして、何故なのか頭が重い。
気づくと目の前に妻が立っていた。パジャマ姿なのに、ぴんと背筋が伸びている。おんぶしているらしい息子の寝息がかすかに聴こえた。
「無事だったか?」
「ねえ」
妻は笑っていた。おんぶしたわが子を揺すりあげ、また笑う。
「やっと言われてた意味が分かったよ、同じ道を帰るな、って」
「おい、何言って……」
「アンタたちは、同じ道を帰っちゃったんだから、」
妻はいつもの足取りで玄関先に向かう。6歳になった息子はかなり重いだろうに、そんな素振りさえ見せない。
「私と駿は、いち抜けるからね」
「な、に」手足がしびれて動けない。
最後にこう、聞こえた、ような気がした。
「お義母さんに、よろしくね」
(了)