死出山怪奇譚集序編 〜Introduction for Starlight Paradise〜『別れの旅路と二つの想い』
…この世界とは異なる何処かにある世界、冥界。彼岸ともあの世とも呼ばれるこの世界は、現世とは異なる時間が流れているようだった。その世界の生物は、現世では考えられない程長寿で、異形と呼ばれる存在も多かった。
そんな冥界には、死神達が暮らしていた。彼らは現世に赴く一方で、現世の人間達とよく似た暮らしをしていた。
死神達を束ねているのが、風見昴、彼は冥府神皇、冥界の王だった。彼は冥府の仕事の一方で、現世で暮らしている妻の杏を気にかけていた。
老いる事も死ぬ事もない昴の一方で、人間の杏は昴の感覚ではあっという間に老いてしまう。そんな杏を昴はどうしようともしなかった。不死不滅の魂を持つ昴にとって、どのような存在もいつから姿を消し、自分は孤独になると分かっていたからだ。
そのように考えていた昴は、杏を無理に延命しようとはせず、人間のまま送ろうとした。
臨終間際、昴は冥府の業務を置いて、現世に向かった。そして、事情を知らない者達に孫と偽って杏の元に現れた。それが可能な程に夫婦の見た目の年齢はかけ離れていたのだ。
家でずっと大人しくしていた杏は、昴の姿を見て微笑んだ。
「昴がここに来たって事は、私はもう死ぬのかな…。」
昴は、首を縦にも横にも振らなかった。ただ、杏をじっと見つめている。
「杏…、死んだらもう俺の前に現われるなよ。」
「どうして?」
「杏なら、遠い昔にお前がそうしたように生まれ変わってまた俺に会いたいと願うだろう?」
杏が頷くと、昴は顔をしかめた。
「生まれ変わり続けるのはな、時に苦しみの連鎖になるんだ。杏にその業を背負わせたくはない。それに、俺は不死不滅の存在だ。どんなに生まれ変わったとしても、ずっと俺の側に居られる訳じゃない。」
「そっか…」
杏は頭にずっと着けていた花飾りを昴に手渡した。もう何十年と着けていたものだ。すっかり古びてしまった。
「本当に歳を取らないんだね。」
杏は昴の頬に触れた。
「一瞬だけでも昴と一緒に居れて幸せだったよ。」
「ああ…、そうだな。」
昴がもう一度杏に声を掛けようとした時、杏は既に息を引き取っていた。昴は、杏の亡き殻を抱え、そっと布団に寝かせた。
葬式を済ませた後、何事もなかったように昴は冥界の宮殿に戻って業務をしている。
「杏様の事、送らなかったのですか?」
冥府神霊の長で昴の部下のグルーチョが、昴にそう尋ねた。だが、昴は何も答えない。
「智様も真莉奈様も自らの手で送り届けたといいますのに…。」
部下の小言も今の昴には届いていないようだ。
「この宮殿、杏も気に入ってたな…。」
昴は目の前の書類の山とグルーチョを置いて何処かへ行ってしまった。
昴が向かったのは、宮殿の庭園だった。そこには、現世から持ち出した木や、冥界の植物が植えられている。中には、ある人の魂が植えつけられた特別な木があった。それは、昴の父親の桜弥と祖母の梨乃で、彼らは桜と梨の木で眠っている。
「父さん…、それからばあさん、居るんだろ?」
二つの木は何も言わなかった。二人はずっと昴を見守り、声を掛けるのだが、今回は何も言わなかった。
昴は二人を諦め、庭園を出ようとした。その時、植えてあった杏の木が光っているのに気付いた。近付くと、木から声が聞こえる。それは、現世で別れたはずの杏の声だった。
「昴、来たよ。」
昴は驚きの余りしばらく声が出なかった。それに杏は心細くなる。
「やっぱりだめかな?」
昴はお帰りと言う代わりにこう答えた。
「気が済むまでここに居ていいから、終わったらもう行けよ。」
「うん…、ありがとう」
杏は幻の姿で現れ、昴を抱き締めた。
昴は、自らの意思で木の中に入った杏に戸惑っていたのだ。木に宿った二人の話はしたが、まさか杏が入る事は考えもしなかった。もうしばらく一緒に居られるのを嬉いと思う一方で、死んでも離れられないのかと申し訳なく思う自分も居る。昴は杏と離れた後もずっとそれを考えていた。
それを見ていた二人は昴と杏には聞こえない声で話した。
「嫁には優しいんだな、俺達はこんな扱いなのによ。」
「まぁ…、それだけ杏さんが昴にとって大切だったって事じゃない?」
桜弥と梨乃は動けない中、昴をじっと見守っていた。
…冥界に隕石が堕ちる前の、平穏な日々の一幕だった。