魔女
夜空が白んだ頃、隊は静かに目を覚ます。一晩中見張りを続けたエラだったが、思っていた程の疲労感は無い。
「隊を分けよう。大所帯になりすぎた」
「どれ程に分けましょう」
「折角夜空が揃っているのだ。大きく分けて三部隊で良かろう」
そう言ったテオドールの言葉に従い、月部隊、星部隊、夜部隊と三つの隊に分かれる事となった。
最前線だったこの場所を守るのはエラたち月部隊だ。星部隊とされたサラの部隊は西側へ進み、夜部隊とされたテオドールの部隊は東へ進む。
出来るだけ此方側に入ってきている人間を殲滅し、敵側の戦力を削り切る。
魔術が使えなくなってしまう人間側の領域に出られない分、魔族軍は不利だ。相手国を力任せに落とせないのだから、守る事しか出来ない歯がゆさに、エラは静かに唇を噛む。
「今頃あの二つの隊は何処へ行ったかな」
「まだ山狩りをしながらだからそう遠くは行けていないだろう。それにしても、静かで気味が悪い」
呑気に声を掛けてくるアルフレッドに対し、エラは酷く不機嫌そうに寒空の下に立っている。降り積もった雪は太陽に照らされキラキラと煌めいており、空は清々しい程に晴れ渡っている。
この地の冬がどんなものかあまり知らないが、ここ数日雪が降る日は少ないらしい。降っても一晩で止み、真新しい雪が地面を覆うのだと誰かが言った。
「平和なのは良いんだけどな…何か仕掛けられるかも」
「警戒を怠るな。消耗している者の回復を優先させつつ、いつ襲撃されてもすぐに対応出来るように支度を」
「してるよ」
がじがじと親指の爪を齧るエラの手をそっと抑えながら、アルフレッドは小さく笑う。そんなに緊張し続けていては持たないよと言われたが、任された隊員たちの命を預かっているのだ。
ほんの少し前まで、新米として指示される側だった自分にどこまでやれるのか分からない。やらなければならないと思っているからこそ、エラは常にぴりぴりと緊張していた。
「此方側の残党狩りはどうなってる」
「順調。今の所子供だったり魔力貯蔵庫にされているであろう魔族の発見は無し。残党は大分狩り終わったんじゃねぇか?」
ふうと息を吐くアイザックの言葉に、エラはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
もう少しだけ陣を前に進めようか。此方も攻めてやるぞと威嚇するだけの行動だが、それに意味はあるだろうか。
消耗し、まだ回復しきれていない者が多い中無駄に動くのは得策ではないか。
ぐるぐると何度考えても分からない。何故月の魔女というだけで、本番一発でやってみせなければならないのだろう。こういうのはもっと慣れている者がやるべきなのに。
「でもま、そろそろ何か起きても良い頃だよな、本当に」
小さくぽつりと呟いたアイザックの声と共に、ひやりとした何かがエラの鼻の頭に落ちてきた。
何だと上を見上げれば、つい先程まで晴れ渡っていた空はどんよりと重たい雲に覆われ、冷たい雪がはらはらと落ちてきていた。
「降り出したなあ」
寒い寒いと体を摩るアイザックを横目に、エラはぞわりとした何かが背中を走った気がした。
いくら山の天気が変わりやすいといっても、これは流石に急すぎる。何か可笑しい。そう気付いた瞬間、穏やかなひと時を過ごそうとしていた隊員へ叫んだ。
「総員警戒態勢を取れ!攻撃されてるぞ!」
エラの叫びに反応できた者は少ない。他の隊に比べ、消耗している者が多いせいだ。移動しないこの隊ならば、少しは休息が取れるし回復できると判断しての事だった。
「動ける者は前へ!そうでない者は下がれ!」
空から降ってくる雪は勢いを増す。それだけではない、硬度と質量を増し始めていた。まるでエラが生み出す氷の礫のようだ。
頭の上から降り注ぐ氷は想像していたよりも痛い。苛々と振り払おうとするのだが、無数に降り注ぐ礫全てから逃れる事等出来ない。恐らくすぐにでもこの礫は更に質量を増すだろう。
そうなれば、数日前潰れた魔法使いと同じように無残に潰れた肉塊へとなり果てる。
後ろで指示を待つおよそ百五十人全てが。
それは駄目だ、守らなければ。だがどうやって?
ただ守るだけなら簡単だ。隊を全て完全に氷で覆ってしまえば良い。だがそれでは良いように攻められるだけだ。囲まれてしまえば反撃も出来やしない。
考えろ、考えろ、どうにかしてこの場を切り抜ける方法を。
「一人で抱えようとするんじゃないよ」
ぽんぽんと背中を叩く優しい体温と、耳に届く穏やかな声。
「ハンス小隊長…」
「こういう時はね、俺たちを使うんだよ」
にっこりと笑ったハンスは、連れてきた部下らしき男たちに向かって手を上げる。何をするつもりだと口を開いた途端、周囲は嵐のような暴風に包まれた。
「何…!」
「俺たち風の術者の事忘れてないかい?」
にやにやと笑うハンスは、ひらりと手を振った。降り注ぐ礫たちは、生み出された風に煽られ隊の上に落ちて来ない。
ぽかんと口を開けたエラに、ハンスはけらけらと楽しそうに笑った。
「言っただろ、君は俺たちが守るって」
テルミットで言われた言葉をすっかり忘れていた。
月は最強の盾。皆を守る盾なのだから、皆を守らなければならない。そう思い込んでいたが、何も控えている男たちが何も出来ないなんて事は無いのだ。
「攻撃力は皆無ですが、こういう事はお任せを!」
術者の一人がエラに向かって笑いかける。
ああ、そうか頼って良かったのかと安堵し、エラの口元が僅かに綻んだ。
「っあ」
目の前に弾けた赤。
笑いかけてくれた隊員の体が、ぐらりと揺れた。
「あ…?」
何でと言いたげな目をエラに向けながら、力なく雪の上に倒れ込むその体は、びくびくと大きく跳ねる。何度も繰り返すその動きは、やがてぴたりと止まって動かなくなった。
「なんで…?」
「攻撃されてるって自分で言ったんだろう?」
風で防ぎきれない質量の氷。動かなくなった隊員の腹を貫くそれは、いつも自分が生み出している塊にそっくりだった。
太く大きな氷の柱。腹を貫くそれは、魔法使いが作り出したものらしい。
のろのろと視線を氷が飛んできた方向へ向けると、此方に向かってくる人の群れがあった。
「来たぞ!備えろ!」
いつの間にか背後に立っていたザッカリーがエラの代わりに声を上げる。
がくがくと震えが止まらない。ザッカリーから奪い取るようにエラを抱きしめたアルフレッドの腕の中で、無様に震えるエラは、ただじっと群れの中に潜む魔法使いを探し続けた。
あからさまに魔法使いですと名乗るような恰好をしている者はいない。他の者と同じような装備をしているのだろうが、どうしたって魔法を使うなら魔石が必要だ。
大きな杖を持った者は?わざとらしい飾りを嵌めた剣を持つ者は?
うろうろと視線を動かし、三人のそれらしき人物を見つけた。
「女…」
暗い茶髪を長く伸ばし、纏める事すらせずに風に揺らす女。何処にでもいそうな見た目をしているのに、どこか存在感を放っている女のように見えた。
ぽつりと言葉を零したエラに、アルフレッドが腕の力を強める。
行くな、ここに居ろ。そう言いたいのだろうが、エラがそれを大人しく聞く筈もない。ぐいとアルフレッドの腕を押しのけ、いつも通り氷の柱を使って一気に加速する。
「エラ!駄目だ一人で突っ込むな!」
「聞く筈が無いだろうあのじゃじゃ馬が!月の魔女を援護しろ!死なせるな!」
ザッカリーの叫び声に、水の術者たちが主軸となってエラに群がろうとする人間達を攻撃していく。
この寒空の下、極寒の真冬の大地でずぶ濡れになる恐ろしさをエラはよく知っている。
「お前か!」
「はは…本当に来た」
へらりと笑った女が、自分に向かってくるエラから逃れようと腕を顔の前に持ってくる。
「あー、良かったあ。ちゃーんと贈り物届いてたんだね」
嫌に間延びした声。腕越しに見える目は、エラの胸元を見ている。贈り物とは何だ。何の話だと疑問に思った途端、女はけたけたと甲高い声で笑う。
「何だ…」
気持ちが悪い。何だか知らないがあまり近寄りたくないと、エラは女から距離を取った。じりじりと此方に距離を詰めてくると思っていた人間達は、逆にエラから距離を取る。
ぽっかりと自分の周りに空間が開くこの助教が何だか気色が悪い。
何か来る。何かされる。きっと支度は出来ている。
「弾けて消えろ!」
女が大きく腕を広げる。軽く仰け反るようにして大きく息を吸い込むと、勢いよくその両腕をパンと閉じた。
「死ね魔族!」
そう叫んだ瞬間、隊のあちこちで叫び声と破裂音が響く。
「あら?なーんで発動しないかな」
首を捻り、もう一度パンと手を鳴らした女が不満げな目をエラに向ける。何が起きたのか分からないエラだったが、この女は危険だと本能が告げていた。
手の届く場所にいてはいけない。距離を取れ、嫌駄目だ、どうせこの女は何か術を使う。それならさっさと撃破すべき。
普段ここまで素早く動かない頭がぐるぐるとあれこれ考える。
真っ先に殺すべきはこの女だ。他の雑魚は隊の誰かがどうにかしてくれる。どうにも出来ない相手をどうにかするのがエラの役目なのだから。
「魔女!隊長たちが!」
「何が起きた!」
「分かりません!ですが、多数の死傷者が出ています!」
「あはは、なあんだ!他のはちゃんと機能したんだね!」
心底嬉しいといった顔でうっとりとしている女は、エラの向こう側で起きている惨劇に感動しているらしい。
「私からの贈り物。魔石に術式を刻むのって難しいんだよ。どう?上手く出来たでしょう」
うっとりと頬を染め、こてんと小首を傾げる仕草は、もっと可愛らしい女がするものだ。お前には似合っていないぞと暴言を吐きたいのをぐっと堪え、エラはじわじわと魔力を放出させながら女を睨みつけた。
「何をした」
「私お手製の魔具ってやつ?一見ただの魔力切れ起こした魔石だけど、魔力を籠め直すと私の合図で爆発するの」
良い贈り物だったでしょ?
うふふと笑う女への殺意が溢れて止まらない。あっさりとあの場で石を持ち帰ってしまったのは此方の落ち度だ。そのまま魔力を籠め、隊長たちへと配った。
恐らく渡された者は怪我では済まない者もいるだろう。
「…クソ!」
頼むから生きていてくれと、何度も頭の中に浮かんでくるアルフレッドとアイザックの顔を振り払う。
自分のせいで死んだかもしれない。何が守るだ、何が一緒に居てくれだ。
殺してしまったかもしれない。大切な、何よりも大事な人を。
「死ね人間!」
「あっは!良いねぇその顔素敵!」
死ね、死ね、出来れば誰なのか判別も出来ない程度の肉塊になり果てて死ねば良い。そうしてやろうと、エラは力任せに氷を生み出しては女に向かってぶち込んでいく。
「何て素晴らしいの!やはり魔術は美しい!」
余裕ありげにうっとりとエラの氷を見つめる女に、一切攻撃が通らない。何故通らないのか考えても分からない。どうせ防壁でも張っているのだろうが、この障壁のような何かを破壊するまで叩き込めば良い。
「あらら、ちょっとこれは…」
焦っているのかそうでも無いのか、女は目を丸くするとパッとエラの両手首を抑え込む。ぎくりと体を強張らせたエラに、女は「つかまえた」とにんまり笑った。
ぽんと小気味よい音がする。がちゃんと重たい音が響く。ずしりと両腕に圧し掛かる重みに、思わずその場から飛び退いた。
「あっは、捕まえたあ」
腕が重たくて堪らない。じゃらりと音を立てる大きな鎖で繋がれた両腕をじろりと睨み、エラは力任せにそれを両側に引いた。勿論腕力でどうにかなる筈もなく、氷を発生させ無理矢理鎖を引きちぎろうとした。
「は…?」
「どーお?使える、魔術?」
何度魔力を練っても、氷は現れない。何度も同じ事を繰り返すが、髪の毛一本発光させる事すら出来ない事実に、エラは愕然とした。
「魔封じ、知ってるでしょ?」
魔族にとって最大の屈辱。魔術を封じる為の道具だが、それは主に罪人に使われる物だ。
この者は咎人であると知らしめる為、屈辱的な道具。
「この…人間如きがよくもこの私に最悪の屈辱を!」
「やだなあ、こんなのそんなに気にする事?良いじゃん外せばすぐ元通りなんだからさあ」
人間にこの屈辱は分かるまい。殺してやると憎悪を抱いた目を女に向けるエラだったが、魔術の使えない魔族の女など捕らえるには容易すぎた。
「がっ…!」
後頭部を殴られればすぐにでも意識を刈り取られる。必死で意識を保とうとするが、ぐらぐらと揺れる視界は徐々に暗くなっていった。




