北へ
普段ならば静かな城の中で、悲痛な女の叫びが響く。治療をする為に回復術を施されているサラの、痛みに悶える叫びだった。
「耐えてくださいませ、ここまで酷い火傷では時間が必要です」
時折耐え切れずに意識を飛ばし、また痛みに叫んで意識を浮上させる。それを何度繰り返しているのか分からない。生理的な涙と脂汗、血液と何なのかも分からない体液で濡れたサラは、今まで誰も見た事が無い程ボロボロだった。
「ああ…っ、ああもう、腹立たしい!」
フーフーと荒い呼吸を繰り返し、奥歯を噛み砕かないようにと無理矢理噛まされた布をべっと吐き出して恨み言を吐く。上半身の大半を焼き、服は邪魔になるからと剥がれている。下着も所々焦げており、今この場にテオドールがいない事がせめてもの救いだった。
真っ白な傷も無い美しい肌だった。それが今や、ドス黒く変色し、紫色や肉の赤をしている。痛々しい、普通ならば叫び藻掻き暴れ狂うような治療を、サラはただ叫ぶだけで耐えきっていた。
「いつ終わるの!」
「まだかかります」
無理をしすぎた自分が悪い。炎の術者は己の身を焦がして戦う事をきちんと理解していた筈なのに、あの場で加減をする事が出来なかった。
この先自分と夫となるテオドールが守る筈のこの国を、人間などという不作法で不快極まりない生き物に売ろうとした。それがどうしても許せなくて、妻を不要と罵ったあの男の愚かさを許せなくて、気が付いたら顔面を焼いていた。
もう何も喋るな、その目に光を映すな。何もかも失い全てに絶望して死ねば良い。そう思って焼いたのに、あの男は今自分と同じように治療をされ、生き延びる事となった。
どうせ全てが落ち着いたら死罪にするのに、何故無駄に生きさせる必要がある。
そう思うと苛々として堪らないが、今は容赦なく治療だと術式を描いた紙やら手を傷に当ててくる魔法使いの方が恨めしかった。
「こりゃあ酷いな…」
次だと新しい術式を取り出した魔法使いの後ろに、やけに間延びした声の女が現れる。今度は誰だとその女を睨みつけるが、サラはその女に見覚えがあった。
「ハンネさん…?」
「やあ久しぶりだねぇ。何したらそんな体になるのやら」
痛そうと顔をしかめるハンネの気が抜ける口調にほっと息を吐き、サラは身体の力を抜いた。じくじくと痛みを主張するあちこちの傷。最早その傷は大きすぎて、一つの巨大な傷のようになっているが、先程から痛みに耐えていても殆ど塞がっていない。完全治癒するのか不安になる程、傷は広く深かった。
「綺麗な顔をこんなにして…勿体無いね」
そっと触れるハンネの手は優しい。訓練生時代に優しく治療してくれたあの手だ。何だか安心するなと息を吐きながら、サラはじっと眉間に皺を寄せた。
「何をしに来たのです」
「君の治療をしてくれって呼ばれてね。テオドール殿下が顔を真っ青にさせて学校にいらしたんだよ」
しれっと言ってのけながら、ハンネは持っていた鞄をごそごそと漁る。サラが気を抜いた隙を狙って、魔法使いはまた一つ紙をべたりと貼り付けた。
「っああ?!」
「あーあ…そら痛いよ。無茶するからだね、自業自得」
痛いとは絶対に叫ばない。必死で唇を噛み締め、荒い呼吸を何度も繰り返して空を睨みつける。じわじわと僅かに元の肌に戻って行く自分の体を睨みつけ、何とか必死に正気を保っていた。
「ほら、変わるよ。疲れただろう?」
すっと魔法使いのいた場所を奪い取り、ハンネはそっとサラの傷を観察する。どう見ても酷いよなあと呟き、困った顔をしながらもう一度鞄を漁った。
「魔力がなあ…足りないんだよな、絶対に」
「私の、使って」
「駄目だよー。君ただでさえ超重傷。何で今意識あって呼吸してるのか不思議なレベルね」
つんと傷を突かれ、サラはまた小さく悲鳴を上げる。何をするんだと睨みつけようが、ハンネは昔の様ににんまりと笑うだけだった。
「私の魔力なら使えるか」
つかつかと足早に向かってくる男。何故ノックも無しに部屋に入ってくるんだと睨みつけたかったが、今のサラは上半身裸なのだ。まずは自分の体を抱きしめ隠したかったが、強すぎる痛みに体を動かす事すらままならかった。
「わぁお殿下、結構な魔力量が必要なんですが、ご助力いただけますか」
「私の妻だ。私が助けになれるのならいくらでも」
じっと真面目な顔をハンネに向けながら、テオドールはそっとサラの隣に座る。皮膚が焼け、肉がむき出しになったお世辞にも綺麗とは言えない姿の妻を心底心配するような表情で、テオドールは「何をすれば良い」と問う。その問いに答えるように、ハンネはそっと手を差し出した。
「貴方様の魔力をお借り致します。どうか、この子をお助けください」
可愛い教え子なのです。
そう付け足したハンネが、恭しく首を垂れる。痛みに意識がくらくらと何処かへ行ってしまいそうなのに、その光景があまりにも珍しすぎて目に焼き付けておきたい。細くなってきた呼吸を静かに繰り返しながら、サラはぼんやりとそれを見つめた。
「体を支えてやってください。辛そうだ」
ベッドの上で座らされていたサラの殻だがゆらゆらと揺れている事に気付いたハンネがそっと指示をする。はっとしたように慌ててサラを支えようと、テオドールは細い体を抱きしめた。
服が汚れますと言いたい。言いたいのに、口から洩れるのは絶叫だった。布が傷に擦れるのだ。ぼろぼろと涙を零し、離してほしいと懇願するように身を捩る。その度に擦れる布が、今は凶器に思えてならなかった。
「ちょっと待て、落ち着けサラ」
悪かったと詫びたテオドールは、何を考えているのかその場で服を脱ぎ出す。擦れて痛い事に気が付いたのだろうが、何をしているんだと目を見張る者を気にするでもなく、これで良しとばかりに息を吐くと、改めてサラを抱きしめる。
先程よりはまだマシだが、痛いものは痛い。離れてくれやめてくれと首を振っても、テオドールは「すまない」と耳元で詫びるだけだった。
「お熱いことで」
苦笑しながら、ハンネは手早く術式をサラの体のあちこちに貼り付けて行く。痛い事はなるべく早めに一度に終わらせてやろうというハンネなりの気遣いだったのだが、その術式全ての効果を発動させるには相当の魔力が必要である。
それを知っている魔法使いたちは「無駄な事をしている」と呆れた目を向けた。
「殿下、私の手に魔力を注いでください」
差し出された手を握り、テオドールは意識を自分の手に集中させる。じわじわと熱をハンネの手に移す様に。
術式が一気に光り輝く。部屋にいた者がどよめき、何事かと目を見張った。
先程よりも確実に、素早く回復していく傷。だが広範囲に及ぶ傷はそう簡単には戻らない。叫ぶサラの声に、誰かが目を逸らした。
「殿下!殿下、テオお願いやめて!痛い!」
初めて零した「痛い」という言葉。泣きじゃくりながら、テオドールの背中にがりがりと爪を立て、傷を残していく。痛みに顔をしかめながらも、テオドールはサラをあやす様に、よしよしと頭を撫でてやった。
「やめればもっと痛い。頑張れ」
一番傷の酷い腕に触れられた途端、サラは一際大きく、甲高い悲鳴を上げた。
必死で酸素を取り込もうと呼吸を繰り返すのに、吐く度に漏れる悲鳴は止まらない。
「頑張れ」
ハンネも思わず漏らした声が、サラの機嫌を更に損ねる。
どこまでやれと言うのだ。ただの小娘でいたかった自分に、今も、これから先もどれだけやらせるつもりなのだと。
この先もまた、こうして痛みに耐えながらこの身を焦がし戦えと、その為に今生かそうとしているのかと。
「もう嫌…もう嫌よ、お願いもうやめさせて」
弱弱しい声に、テオドールが唇を噛む。
いつだって、その身を犠牲に戦うのはサラなのだ。そして、エラも同じである。自分は国の頂点にただ立つだけ。どうしたって、女二人に残酷で過酷な運命を背負わせなければならない。
きっとこの先も、何度でもこの女は身体に傷を作るだろう。魔法でいくら治癒させたって、体の傷は癒えても心の傷は癒えることは無い。
まだ若い女の体に、直せるとはいえこれだけの傷を負わせた。人間ならばとっくに死んでいるであろう傷を負っても尚、生きる為に痛みに悶えさせ、鈴の音のような声を漏らす口は絶叫させる。
ただ穏やかに微笑んでいてさえくれれば良い優しく垂れた目は、敵だと認識した相手を恐ろしく睨みつけた。
「すまない、すまないサラ」
治り始めたばかりの真新しい皮膚が張った背中を抱きしめながら、テオドールは苦しく呻いた。
◆◆◆
治療を終え、眠ってしまったサラを見下ろしながら、テオドールは静かにそっとサラの髪を撫でる。焦げてしまった髪までは戻らず、普段キラキラと光を反射する毛先はちりちりと白く、黒くなっていた。
「殿下、そろそろ服を着た方が宜しいかと」
後始末をしながらそっと促すハンネの言葉に反応し、テオドールはのろのろと脱ぎ去った服を手に取った。
どろりと汚れた服。サラの体液に汚れたそれは、もう着られそうにない。
「その前に傷の手当をしましょうか。随分と…背中が酷い事に」
背中には無数に走る真っ赤な線。所々血が滲むのが痛々しく、肩には噛みつかれたのか歯型まで残っていた。
「いや、このままで良い」
「痛むでしょう」
「サラの傷に比べれば、なんてことはない」
これは戒めだ。戯曲に頼らないと言っておきながら、サラに戦わせた自分への罰である。与えられた痛みを受け入れ、時に任せてゆっくりと噛み締めたかった。
「目が覚めたら何か食べさせてやってくれ。それと水も。あれだけ出血したし、叫んだのだから喉が渇くだろう」
よく生き残ったと安堵しながら、眠っているサラの隣に腰かけ、いつも通り綺麗な細い指へ手を伸ばす。爪の間に残る赤は、きっと自分の皮膚やら血液なのだろう。後で綺麗にしてやってくれと言い含め、サラの額に唇を落として立ち上がる。
「北へ隊を出す。父上も同じ考えだろう」
お付きとして連れてきた部下へ指示を出しながら、差し出されたシャツに腕を通して命令した。殆ど見えてはいなかっただろうが、愛しい女の肌を見せてしまった事がなんとなく腹立たしく、ただ言われた通りついて来た部下を睨みつけた。
「サラは出すな。充分に休ませろ」
「舐めないでくださる?」
弱弱しい力で掴まれた手。ぎょっとして眠っている筈のサラを見れば、気に食わないと言いたげな顔のサラがテオドールを睨みつけていた。
「まだ、休んでいてくれないか」
「嫌よ。私は星の魔女、王家の剣よ。ただ大人しく城に納められている宝剣にしないでちょうだい」
あれだけ泣き叫び、もう嫌だやめてくれと懇願していたくせに、今はぎらぎらと真っ青な瞳を輝かせている。
心の底から気に食わないのだろう。ぐっと力を籠められた手が、ぐいと引かれた。
無理に起き上がったサラはまだ辛いのか眉間に皺を寄せている。引き寄せた婚約者を命一杯睨みつけ、機嫌の悪そうな低い声を漏らした。
「私も連れて行って」
駄目だと言ってもどうせ聞かないのだろう。普段穏やかに、王妃であろうとするサラの本質はエラよりも血の気が多い。もしも無理矢理城に押し込めたなら、見張りを蹴散らしてでも出てくるだろう。
「…何か食べてからにしよう」
諦めたように溜め息を吐くテオドールに、サラは満足げににんまりと笑った。




