王城
テルミットで大きな戦いが起きたという報告が王都に届く。あの戦いから既に三日以上経過しているが、遠く離れたテルミットから急ぎの伝令が行くまで時間を要するが、夜も休まずに馬を走らせた努力のおかげで通常よりもかなり早く城は大騒ぎとなった。
「何…デンバーといえば大隊長にしてやった男ではないか」
信じられないと言いたげな顔のルーカスが、溜息を吐きながら頭を抱える。玉座の間と呼ばれる仰々しい部屋で、息を荒げる伝令係が奥歯を噛みしめながらしっかりと言葉を紡いで報告を続ける。
この戦争は仕組まれたものであり、それは国内に裏切者がいるという事であると。その裏切者の一人であるデンバーは、現在厳重に捕縛され、王都に向かって連行されているところであり、少し遅れてこの城にやってくる事。それらを聞いたルーカスは、忌々しいと小さく舌打ちをしてみせた。
「おお怖い…まさか我らの同胞が我らが魔王を裏切るとは」
国の一大事だからと、この部屋には多くの重鎮が控えている。サラとテオドールも次期魔王夫妻である事から呼ばれているのだが、今怖い怖いと肩を竦めた男が、この騒ぎの首謀者であるジェームズ・ウォードその人である。
何を白々しいと白い目を向けながら、サラはフンと小さく鼻を鳴らす。軍服に身を包み、長く伸ばされた金の巻き毛を綺麗に纏めたその姿は、麗しき戦乙女といった様相。夫となるテオドールを守るように、いつでも傍らに控えているのは、今日も同じ。
「陛下、裏切者の粛清はどうぞ私めにお任せを」
恭しく頭を垂れるジェームズは、ルーカスと同じ金の髪をさらりと垂らす。細身の神経質そうな男だが、彼が黒幕である事を知っているサラはその動きが演技であり、わざとらしいとしか思えなかった。
「お前は頼りになるな、弟よ」
「私がハワードの名を捨て、ウォードの名を頂いた時に誓いましたでしょう。この命ある限り、私は忠実なる魔王の僕であると」
嘘ばかり。にっこりと微笑むその顔が気持ち悪い。作り物のように美しい顔をしているくせに、腹の中は誰よりも黒くどろりと重い。憎しみを抱える相手に向かってあれ程敵意を感じさせない笑顔を浮かべられるなんて信じられない。
ルーカスは何処まで話の真実を知っているのだろう。この戦争が弟の反乱の道具にされている事は?この男が人間を利用し、王位を狙っている事は。兄への忠誠心など欠片も持っていない事は。分からない。何処まで知っていて「頼りになる」なんて力なく微笑んでいるのか。
「テルミットでの争いは、月の魔女エラ・ガルシア様が制圧致しました」
「エラが…?」
思わず零れてしまった声に、ジェームズがちらりと視線を向ける。爵位も持たぬ家の娘、次期魔王の妃であるというだけで、この場での発言権などほぼ無いような女が不躾に言葉を発するなと言いたげな顔だった。失礼をと意味を込めてぺこりと頭を下げると、ふいっと興味を失ったように視線を戻した。
「久しぶりの戦争だな…恐らく此方側もそれなりに消耗するだろう。皆、まずは民の生活を優先して考えよ」
「民無くして王は生きられませんからね。私からも頼みます」
ルーカスとグレースが揃って臣下たちへ言葉を落とす。いつも通り表情の無いグレースが、じっとサラとテオドールを見つめた。「お前は私の息子を、次の王を守りなさい」と言いたげな視線だと思った。言われずとも、テオドールだけは守り切ってみせよう。了解しておりますと視線を向け、サラは小さく口元だけで微笑んだ。
「報告ご苦労。暫し休むが良い」
「有難きお言葉、感謝いたします」
疲労が限界を超えていたのだろう。ふらふらと立ち上がった伝令係は、そっと玉座の間を出て行く。この重苦しい空気から離脱出来る事を羨みながら、サラはそれをそっと見送った。
ぐるりと視線を広間に向けてみる。一段高くなった場所にルーカスとグレースが玉座に腰かけ、臣下を見下ろす。一段降りて両脇に控えているのが臣下。ルーカス側…中央から右側の列にジェームズを始めとする王家の親戚筋。反対の左側、グレース側の列には軍の上層部のお偉方達が並ぶ。
サラとテオドールは親戚筋側に並んでいた。
「お前たちもご苦労だった。裏切者が到着次第また集まってもらおう」
私は疲れたと溜息を吐きながら、ルーカスは芝居がかった動きで段から降りてくる。その体を支えるようにして、グレースも一緒に降りてきた。ああ、もしも今ここでこの夫婦が一斉に囲まれたらどうしよう。それが出来る状況だからこそ、サラはとても恐ろしかった。
「どうぞごゆるりと」
小さく頭を下げたジェームズが、にたりと笑ったような気がした。
◆◆◆
「サラ、手を付けてはいけないよ」
穏やかなテオドールの声に、サラはぴたりと動きを止める。すっかり日課となっているテオドールとのお茶の時間を楽しんでいるところだが、目の前に広げられた茶菓子を前に「待て」は少々意地悪がすぎる。
「この菓子を用意したのは誰だ?」
「ジゼル様からの贈り物です。領地の名物なので、是非殿下と星の魔女様にお召し上がりになっていただきたいと先程…」
「そうか。どうりであまり見ないと思った。どうだ、秘密にしてやるから君も食べてみると良い。ジゼル殿は甘味を見つけるのが上手だから」
ジゼルとはルーカスの又従兄に嫁いで来た女性の事だ。つまり分家筋の者。恐らく夫が王都に来るついでにくっ付いて来たのだろう。領地は誰に任せているんだと呆れるが、きっと優秀な息子でもいるのだろう。
「有難いお言葉ですが、勤務中ですので…」「私が構わないと言っている。ほらどうだ、一口」
にっこりと微笑みながら一口分フォークに刺したケーキを給仕の男に差し出すと、これ以上断るのも失礼だと判断した男は、どうすべきか迷った顔をしながらもフォークを受け取り、遠慮がちに口を開く。その手をパッと掴んだテオドールの目が、じっと給仕の男を見据えた。
「成程、君は白か」
「は…」
「それは食べない方が良い。昔飲まされた薬の匂いがする」
その言葉に、サラは反射的にフォークを握りしめ、給仕の男に飛び掛かる。悲鳴と共に成す術なく固い床に組み敷かれ、眼球を貫こうと此方に向けられているフォークの輝きに、短い悲鳴を上げた。
「サラ、その男は白だと言っただろう?離しておやり」
「…はい」
軍服姿だから動きやすいんだななんて呑気に笑いながら、まだ震えの収まらない給仕に視線を向けたテオドールは、穏やかな声で質問を続ける。
「私に出される飲食物は全て毒見をする筈だ。これはしなかったのか」
「しております。証拠になるか分かりませんが、端を切り落とし、そちらを頂いておりますので…」
「では今頃毒見係は悶えているところだろうな」
テオドールの予想通りだったのか、慌ただしくなった廊下から勢いよく扉を開けられ、荒げた息を整える事も出来ない執事がテオドールの無事を確認し、その場にへたり込んだ。
「安心しろ、まだ何も口にしていない」
テオドールの言葉に安堵したのか、執事は「良かった」と何度も繰り返す。
「毒見係が先程泡を吹き倒れました。現在治療を試みておりますが…」
「助からんだろうな。昔耐性を付ける為にと飲んだほんの僅かな量で死ぬかと思ったものだから」
「何をさせられているのですか…」
「王になるということは、普通では考えられない事をさせられるものだよ」
困ったように笑うテオドールだが、執事はじろりと給仕を睨みつけ、連れて行けと後ろに控えていた衛兵に命令する。やめてくれと懇願する事もなく、給仕の男は大人しく引きずられていったが、テオドールは「あれは白だ」と庇ってやっていた。
「何も知らずに持ってこさせられたのだろう。既にサラが仕置きを済ませている、あれに非は無い」
「…寛大なお心に感謝致します」
連れて行った先で酷い事をされるのだろうか。目の前に広がった茶菓子のどれに何が仕込まれているのかも分からない。ジゼルの贈り物だと言われたあのケーキ以外に、まだどこか人毒が仕込まれている可能性だってある。そもそも毒見をする食べ物はジゼルのケーキだけではない。薬品臭いというだけで疑いの目を向けているが、他の菓子に仕込まれているのなら相手を見つけ出すのは困難だろう。
「恐らくジゼル殿のケーキは本当にただの贈り物だろう。彼女が私に敵意を向ける意味もなく、あの方は恰幅と人の良い方だから」
「そう信じたいだけ…という事ではありませんか」
「そう、かもしれないな」
疲れたような、悲しそうな顔。衛兵の後を追いかけに行った執事を見送り、扉の鍵を閉めたサラは、そっとテオドールの背を撫でる。二人きりになった部屋で、テオドールは力なく項垂れる。
「誰を信じれば良いのだろうな」
親戚、叔父であるジェームズに敵意を向けられ、安らげる場所もない。今後の長い人生でもずっとこうなのかと絶望したくなる気持ちは何となく分かるような、分からないような。だが、普段堂々と胸を張って立とうとするテオドールが今、力なく項垂れている。それをただ黙って見ている事が出来なかった。
「信じたいと思う人を、信じましょう」
「サラ…君だけは、私を裏切らないと言ってくれ」
「裏切るなんて…私は貴方の妻となるのですよ」
「頼む。嘘でも良いから、たった一言、裏切らないと」
「はい、私は決して貴方様を、テオを裏切りません」
そっと背中から抱きしめ、安心させるように何度も頭を撫でた。これから先何度でも命を狙われるだろう。いつになったら何も気にせずに美味しいと何か食べる事が出来るだろう。夜も短剣を枕元に忍ばせて眠らずに済むようになるだろう。きっとそれは、永遠の眠りにつく時だろうか。
「すまない、今だけは許してくれ」
「弱い私を…ですね」
無理をしている事など昔から知っている。誰にも弱みを見せまいと、必死で虚勢を張り、次期魔王として振舞うテオドールの本来の姿は此方だ。優しく気弱で、人を疑う事をしたくないといつも思っている。それを許して貰えない身分に生まれてしまった事をいつだって嘆きたいのに、自分が自分を許せなくなるからと必死で押し殺しながら生きている。
妻の前では本来の自分に戻りなさいと何度言っても、彼は愛する女性の前でこそ、良い恰好をしたいんだと笑うのだ。




