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中隊長候補

雪と氷に包まれた世界は、白く眩しく寒い。胸を刺すような冷たさは、深く呼吸を吸い込む度に体から体温を奪っていくような感覚が心地良い。

他の訓練生はテルミットという地を凍り付いた厳しい地と恐れていたが、エラにとっては王都の方が過ごしにくかった。いつでも体温が高くなっているような、じっとりと体に纏わり付く熱が気持ち悪くて、訓練生になったばかりの頃はいつだって不快で仕方なかった。皆と離れてしまったことは寂しく思うが、体を優しく冷やしてくれるこの冷たい空気が大好きだ。

そっと目を閉じ、何度も繰り返す深呼吸。冷たい風が体を撫で、腰まで伸びた髪はさらさらとそれに流れて揺れる。ただ黙ってそうしているだけならば、殆どの者が美しいと言う。実際のエラ・ガルシアという少女は、比較的好戦的で、本気になると全てを凍てつかせ、自分よりも年上の男たちを一方的な暴力でなぎ倒す事だって出来る。真っ白な肌が興奮で赤く染まり、白目が充血したその姿は誰もこの少女が元々良い家の御令嬢だなんて想像もしない。


白銀の魔女。誰かがそう呼んだ。真っ白な銀世界のその中心で、少女は一人佇むのだ。周囲に倒れた男たちを憐れむように見下ろしながら、じわじわと赤の広がるその世界を。


「毎日毎日…飽きませんね先輩方」


テルミットに配属されてから早半年。書類仕事を押し付けられる事は無くなってきたが、男たちは皆毎日のように誰かがエラに喧嘩を売った。勿論この地が実力重視の場所だからという理由もあるのだが、そもそもここにいる者は強くなりたい、強い者が好きという習性があるらしい。エラは最初こそただの小娘が生意気にも月の魔女として崇められている、ただ白銀を持って生まれただけのくせにと侮られていたが、あの日挑んだ約三十名をたった一人で全員戦闘不能にしてみせてから「強者」として扱われるようになった。


誰もエラをただの御令嬢だとか、お月様なんて扱いはしない。

超えるべき壁、叩き潰してその上へ行きたいという存在になった。ハンスはそれを良しとし、満足げに笑いながらいつだってエラに「行け」と笑う。別にエラは戦う事自体は好きではない。出来れば仲良くやりたいし、戦争が無いなら平和な毎日を過ごしたいと思っている。それを許して貰えないのは、男たちの血の気が多すぎるから。多少抜いてやれば大人しくなるかと思ったこともあったが、残念ながらそれは叶わなかった。


「クソ…囲めば多少やれると思ったのに」

「すみません、上に逃げられさえすれば私の勝ちです」

「上に逃げるのは狡いだろう」


むすくれた男が、ぐったりと雪の上に寝転んだまま立ち尽くすエラを睨みつける。狡いと言われても戦略なのだから文句を言われても困る。

広範囲を狙うのなら上から一気に叩いた方が効率が良い。そもそもエラは細かい事が出来ない。一度氷をもっと細く鋭く固くしてしまえば槍や矢のように使えそうと言われた事があったが、何度やっても腕よりも太くなって考える事を辞めた。


「上から氷柱が降り注ぐのはどうにも出来ん。なんだあれは…」

「炎で薙ぎ払った方が何か言ってますね」

「それでも一発受けただけでこれだ。他の属性には無い特殊性という事は理解したが、これは…対処法が見つからんな」

「恐縮です」


喧嘩を売られるのは毎日の事。それは煩わしいが、徐々に隊員たちはエラの実力を認めて褒めてくれる。改善点があれば指摘してくれるし、仲間外れにされる事も、邪見にされる事も殆ど無くなった。仮にあったとしても、気に入ってくれた者たちがそれとなく仲間に入れてくれるし、弱者の僻みとして鼻で笑ってくれる。

いつかハンネが言っていた。月の魔女としてではなく、エラ・ガルシアとして見てくれる魔族がいたら、その人達を大事にしなさいという言葉。もしかしたらそれはこの部隊の人達の事ではないかと思えるようになった。時々揶揄うように「お月様」なんて言われる事もあるが、その言葉に棘はなく、生意気な妹分を可愛がりながらも揶揄うような響きがあった。


「お前は月の魔女というより、白銀の魔女という呼び名の方が似合うな」

「何ですかそれ」

「俺の知る月の魔女は、もっと清楚で芯の通った美しい魔女だ」


お前は清楚では無いから。寝転がったままにんまりと笑う男に、エラは思わず噴き出した。その光景に、周りに転がっていた男たちも同じように笑いだす。失礼な事を言うなと怒るべきかと若干の迷いを抱きながら、エラは地面の雪を目の前で転がる男に蹴りかけた。


◆◆◆


「随分と仲良くなったんだなあ」

「おかげさまで。ハンスさんは何故あの人達に言う事を聞いてもらえないなんて言ったんです?」

「うーん…多分君がテルミットの主であるガルシア家の御令嬢だから大事にしろと言われてると思ってたんじゃないかなあ…でもほら、君は実力でねじ伏せたわけだし!」


安心したよ、良かった良かったなんて朗らかに笑われても、エラは何となく納得がいかない。ハンスをじっと見つめてみるが、へらへらといつものように笑うだけで、掴みどころが無かった。

この男について知っている事はあまりない。契約精霊が風である事、妻は居ないが両親も居ないので、年の離れた妹にいつも仕送りをしている。第二中隊長候補だが、仕事が増えるのが嫌だから出来れば別の人にお願いしたいなんて面倒くさがるような男であるという事。


何故こんなにへらへらと穏やかな男が軍人なんてしているのだろうと疑問に思った事がある。それとなく聞いてみたが、「給金が良いから」としか答えてくれなかった。妹への仕送りをしてやるために選ぶ職業としては、給金は高くとも危険が多すぎる。あまり心配をかけてやるなと思ったが、流石に上官にそれを言う勇気は無かった。


「そういえば、君はそのうち遠征部隊に移動になる予定だろう?何故うちに?」

「さあ…?私の希望では無いので何とも」

「軍生活に慣れる為の練習みたいなもの…かなあ。なんにせよ、君がいなくなったらうちの戦力は大幅減になりそうだ」


へらりと笑われても困る。何度もいうが、エラは別に戦いたいわけでは無いのだ。魔術を使う度に、複数人を相手にする度に、自分は普通ではないと思い知るから。皆素晴らしい力だと褒めてくれるが、これっぽちも嬉しくない。皆と同じように、炎や水の魔術を使ってみたかった。扱いの難しい氷は、いくら練習してみても細かい変化はなかなか調整が利かなかった。


「ハンスさんは風の魔術を使いますよね。実体を持たない魔術は扱いが難しくないですか」

「難しいね。目に見えない分扱いが難しい。何より攻撃には不向きだからね」


魔術は基本四種類。そのうち攻撃に向いているのは炎と水だ。炎の方が攻撃力は上だが、その分術者も火傷のリスクを負う。水も同じように全身ずぶ濡れは当たり前なので、寒い時期はそれなりに術者もダメージを負うものだ。寒冷地であるテルミットに水の術者が少ないのは、寒さで倒れる者が多いせいだ。


対して攻撃に不向きなのは風と土だ。どちらも後方支援や防御に特化しており、攻撃力は期待されていない。土の術者は少ないが、壁を作ったり整地をする際に重宝される分まだ軍人として生きて行くにはやっていける方だろう。だが、風はとにかく扱いが難しい上、攻撃力は皆無に等しい。軍の中では足手纏いと言われる事が多かった。

そんな風の術者であるハンスだが、彼は少々特別だった。持っている魔力保有量が大きかったのだ。一度に起こせる風が強く、炎を煽ってやればその火力を増してやることが出来た。他の術者たちもそんな支援をしてやる事が多いが、ハンスが補助してやった炎は桁違いの火力となる。


「雪を煽ってやれば吹雪にしてやる事だって出来る。大風を吹かせてやれば、その場に立っていられない程の風にする事も出来る。扱いは難しいし攻撃にも不向きだけれど、やれることが全くないわけじゃないんだよ」


力の使い方を覚えれば、誰だって何か役に立つことが出来る。そう言いながら、ハンスは自分の右手をエラに見せた。掌を上に向けているが、そこに何か生まれるような事は無い。じっと見つめていると、徐々に顔に吹き付ける風が強くなる。


「見えないという事は、攻撃されている事に気付かないって事。気付いた時には動けない程の風に体が包み込まれていたら、君はどうする?」

「え…?」


にんまり笑ったハンスの言葉の意味が分からず、手元から男の顔へと視線を移す。その瞬間、呼吸が詰まってしまう程の風がエラの体を包んだ。慌てて口元を腕で庇ってみるが、容赦なく渦巻く風は充分に呼吸をする事すら許してくれない。足元から勢いよく吹きあがる風に、思わずしゃがみ込むが、体は無常にも天へと舞い上がる。悲鳴を上げても体が地面に戻らない。魔力を練ろうにも、慌てたままではどうする事も出来なかった。


「攻撃力は皆無だけど、使い方によっては怪我をさせたり、墜落死させる事も出来るんだよって…聞こえないか」


エラの耳には風の轟音しか聞こえない。必死でどうすべきか考え、どうにかして僅かに魔力を練るが、地面から離れてしまっては氷の足場を作る事も出来なかった。空中に氷柱を出現させても、それはあっさりと風に煽られ何処かへ飛んでしまう。


「くっそ…!」


考えろ、考えろ、想像しろ。どうすれば地面に降りられる。あの男は悪戯のつもりなのだろうが、生まれて初めて地面から離されたこの状況から無様に助けを求めるなんて絶対に御免だ。落ちたら死ぬかもしれないこの高さ。自然に落ちるのは御免だが、着地出来る程度の高度まで降りられれば何とかなるかもしれない。ならばどうやってその高さまで降りる?下から足場を伸ばせないのなら上だ。上から無理矢理押し戻せば良い。


「絶対痛いな」


小さく舌打ちをするが、それ以外に良い案が浮かばない。多少怪我はするだろうが、今後の良い訓練になった。細かい作業を魔術でやれないのなら、有り余る力でごり押ししてやる度胸は付けておきたい。何より、エラは「助けてください」「降ろしてください」なんて素直に懇願できるような性格をしていないのだ。


呼吸が苦しい。さっさとこの風から抜け出さないと意識が何処かに飛んで行きそうだ。ぐっと奥歯を噛みしめ、この後訪れるであろう痛みに覚悟を決めた。

パキパキと音をさせながら、背中の辺りに氷を発生させる。だがそれは風に煽られ形にならない。ならば煽られるよりも早く質量を増してやれ。

音は徐々にバキバキと激しさを増し、ぐっと拳を握ると同時に肩甲骨の間辺りに鈍い衝撃が襲う。一気に地面が視界に広がり、驚いたハンスの顔が近付いた。


魔術同士でのやり合いなら術者をまず潰せ。それはいつだったかマシューに教わった事だった。衝撃で口の中を噛んだのか、唇の端を赤くしたエラは、吹き飛んだ勢いのままハンスの顔面を鷲掴む。


「つかまえた」

「うお…」

ぐっと掌に力を籠め、そのまま魔力を流し込もうとした。だがそれは叶わない。


「ぐっ、え…!」

「危ない危ない」


へらりと笑うハンスの手は、エラの首をがっちりと握りしめる。今度こそ止められた呼吸に、じたばたと暴れるが、抑え込まれた頸動脈はじくじくと脈打っていた。目が熱い。頭に血が回らない、死の恐怖とはこういう事か。それでもただやられるだけで終わってなるものか。ぎろりとハンスを睨みつけ、抵抗するようにその腕を握り返した。


「ぉ、れ…」


凍れ。そう言ったつもりだがきちんと言葉にならない。ぱききと小さな音をさせて凍り付いたのは、ハンスの服だけだった。


「いやあ、普段仲良くやってる上官相手によくあれだけやるね」


呆れたように笑いながら、ハンスはパッと手を離して距離を取る。無様に地面に倒れ伏し、漸く許された呼吸を必死に繰り返す。冷たい空気が肺を満たした。


「ごめんごめん、風の魔術に触れる機会ってあんまりないだろうから、ちょっと楽しませようと思ったんだけど…」


想定と全く違う反応に困ったのか、ハンスは詫びながらエラの背中を摩りに近寄ってきた。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、エラはまだハンスを睨みつける。

この男、へらへらと人の良さそうな笑顔を浮かべてはいるが、平気で人の命を握れる男だ。だから中隊長候補なのだと漸く理解した。


「大丈夫?」

「…はい」

「それは良かった。それにしてもあの風から逃れるのに自分の背中に一発入れるなんて…無茶するなあ」

「助けを求めるのは癪ですので」

「そういう負けず嫌いなところ、テルミットの馬鹿って感じ」


へらりと笑い続けるハンスは、良いと思うよとエラの背中をぽんぽんと叩いた。

絶対にこの男だけは怒らせまい。そう心に決めながら、エラはぐったりと雪に体を預けた。


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