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苦悩

夕方の自由時間。いつもの三人組は宿舎の裏庭で集まっていた。地面に直接座り、くだらない話をするのが日課になっているからだ。

あれからアイザックは元気が無い。いつも三人一緒に笑い合っているのに、どこか浮かない表情をしたままなのだ。それが何だか落ち着かなくて、エラとアルフレッドは困ったように顔を見合わせる。

落ち込んでいる理由は分かりきっていた。昼間ハンネに言われた言葉のせいだろう。魔族の中でやっていけると思っていたかは分からないが、多感な年頃の少年に突き刺された言葉は自信をへし折るには充分すぎた。


「元気出してよザック。元気が無いザックとか何か調子狂う」

「俺だって落ち込むことくらいあるって」

「どの話が一番刺さったんだ?」


さらっと聞いてしまうアルフレッドの顔は、何てことは無い顔をしている。もう少し聞き方というものがあるだろうと、エラはアルフレッドの顔を凝視するが、アイザックは慣れているようで、少しだけ苦笑する。


「前に二人でリュカ先生に指導されたろ。あの時アルにはほんの少しだけ魔力があって、俺には全くないって言われたじゃんか。あの時から何となく分かってた。俺は多分そんなに強くないって」


自分の膝を抱えながら、アイザックは小さく零す。ちらりとエラの方を見ながら、ごめんなと小さく詫びた。


「魔族って狡いよな。体も丈夫で長寿。魔力さえ持ってりゃ成人して魔術が使えるようになる。人間にそんな力殆ど無いのに」

「あー…何かそんなような話アルにもされたなあ」

「俺の母親は娼婦でさ。父親が誰かも分からない。この国に来てから出来た子供だから、多分魔族の誰かだろって言われてた。だからもしかしたら、俺にも魔族の血が流れていて、魔術が使えたり強い体になれるんじゃないかなあ、って思ってたんだけど…」


小さく唸りながら膝に顔を埋め、それ以上言葉を発さない。きっと今、彼は葛藤しているのだろう。望んでいた自分と現実の自分は差がありすぎた。


「俺は人間寄り、アルは魔族寄り。同じ混ざり者なのに羨ましいなあってもやもやする自分が嫌なんだよ」

「アンタらそういうとこまで似すぎじゃない?」

「十年一緒だからなあ」


苦笑するアルフレッドが、アイザックの背中を摩ってやる。エラもよしよしと頭を撫でた。


「一年目は剣ならそれなりにやっていけると思ってた。でも最近は普通に負けるし、力で押せなくなってる」

「そりゃ皆努力してるからだよ。勿論ザックの努力不足とかそういう話じゃなくて、皆が伸びてきたから押される事もあるって話ね」


うりうりと頭を掻き回してやっても、アイザックは動かない。本気で落ち込んでいるのだろう。今までマシュー相手に圧勝する事は無くとも、僅差で勝利していた。そんな相手に額を割られる怪我をしたのだ。辛うじて抱えていた自信が、脆くも崩れてしまったらしい。


「お嬢は良いよな、すげー魔力持ってて、魔術でごり押し出来て」

「そこもか!そこも似てるのかアンタら!」

「傷抉られるからやめてくれ…」


何の話だと漸く顔を上げたアイザックの目尻は僅かに赤い。泣きたいのを必死で堪えているのだろう。酷い顔だと二人に笑われ、漸くアイザックも口元を緩ませた。


「俺がただの人間でも、仲良くしてくれる?」

「当然」


にんまりと笑う友人たちの顔を交互に見ると、アイザックはまた顔を膝に埋めた。ここは笑うところだろうと二人がかりで小突くのだが、小刻みに震える肩は笑っていない事だけは分かった。


「俺、お前らより先に死ぬのかな」


何てことを言うのだ。

思わず絶句したエラに替わり、アルフレッドが勢いよくアイザックの背中を殴った。痛いと呻く声が聞こえたが、そんな事を言うなとエラも同じように背中を叩いた。


「違う、戦場で死ぬとかそういう話じゃなくて」

「じゃあ何だ」

「人間は魔族より早く死ぬ。俺もそうなのかなって」


その言葉に返事をする事が出来なかった。どうしても抗う事の出来ない未来の話。深い眠りについた母の顔が浮かんで消える。そうだ、人はいつか死ぬ。それは人間も魔族も同じだが、人間にその時が来るのは早い。魔族は数百年生きられるが、人間は百年も生きられない。漠然と、アルフレッドもアイザックも同じように数百年生きると思っていた。そうじゃない可能性を、ほんの少しも考えなかった。

彼らは半魔族。半分は人間だ。国の中にいる半魔族にも、人間と同じように老いて死ぬ者だっている。中には純粋な魔族と同じように若いまま長い時を生きている者もいるが、二人がそのどちらなのかは分からない。


「嫌だなあ、俺だけ一人でどんどんじーさんになったら」

「そんな…皆一緒だよ、ね?そうでしょアル」

「…分からない。エラ、気付いてない?俺たちこの二年で身長結構伸びてるんだ。人間の成長速度とほぼ同じ。順調に大人になってる」


認めたくない。嫌だと何度頭の中で繰り返してみても、ここ最近抱いていた違和感は確かに現実を突き付ける。

純粋な魔族であるエラたちは、十五歳を境に成長速度が遅くなる。そのおかげで何年も姿を変えずに生きられるのだが、アルフレッドの言う通り、友人二人は確実に背を伸ばし、声も低くなっていた。今年で十七歳、人間ならばもうすぐ成長を終える頃。魔族なら、まだ何も見た目が変わらない頃。


「…やめてよ。今そんな事考えたくない」

「いつかは考える事だろ」

「じゃあ私の居場所は!約束したでしょ、居場所になってくれるって!」

「なるよ。でもそれはずっとじゃない。いつか絶対に別れは来る」


それがいつの話になるかは分からない。もしかしたら思っていたよりも長生きして、数百年後の話になるかもしれない。もしかしたら人間と同じように百年も持たずに別れが訪れるかもしれない。

それでも、別れが訪れるその時まで君の居場所になるよと、アルフレッドは微笑んだ。


「今それ聞きたくない」


そう呟いて、エラはその場から走り去る。考えたくない事を考えさせないでほしかった。母を見送ったあの日の事を何度も思い出し、熱くなった目頭に耐えるように唇を噛み締める。後ろは振り返らない。ただ無我夢中で走った。何処へ行こうなんて考えずに。


「あーあ、お嬢行っちゃった」


その背中を見送りながら、少年二人は苦笑する。どこまでも、エラは良い所のお嬢様なのだ。彼女は月として育てられ、良い家の御令嬢として大切に扱われてきた。混ざり者という言葉を使ってはいけないと躾けられてきたように、この世界に当たり前に存在する理不尽からそっと遠ざけられて育ってきた。人間と半魔族がどういう存在なのかを知っているようで、よく分かっていない。


「エラは優しくて、とても弱いんだよ」

「知ってる。俺たちが混ざり者って言われて激怒した時は笑っちまったもんな」

「初めて見たよな、怒ってくれる魔族」


うんうんと頷きながら、アイザックはまたゆったりと口元を緩ませる。がしがしと自分の後頭部を掻き回している時は、困っている時ということをアルフレッドは知っている。


「何か、俺たち最初はお嬢の監視だった筈なのにな。何でこんなになってんだ?」

「エラが思ってたよりいい子だったから」

「それなあ…もっと嫌な女だったりガキだったらこんなに悩まなくて良いのに」


大きく溜息を吐いたアイザックに、アルフレッドは苦笑で応える。

想像していたエラ・ガルシアという少女は、良い所のお嬢様で高飛車で、高圧的なのではないかと思っていた。エラの母、リリーの葬儀で会ったエラは、母の死を悲しみ泣きじゃくる幼い少女で、次に会った訓練初日のじゃじゃ馬っぷりに驚いたものだ。


自分の道を進みたいと願い、友人の為に怒り、現実を受け止め進まなければならない道を見据える。そんな強さと、一度手に入れた物を手放したくないという子供のような面を持ち合せた、強くて弱くて脆い、優しい少女だった。そんな彼女に突き付けてしまった残酷な現実は、少年たちの心を重たく沈ませる。


「お嬢はさ、いつか月の魔女になるだろ。その時俺たちはどうしてるんだろうな」

「俺たちはエラがエラでいられる居場所になるんだ。そう約束してる」

「その約束初耳なんすけど?」

「今言った」


お前のそういうとこヤダと苦笑いしながら、アイザックもそれに反対する気は無いのか何も反論しない。

いつか彼女は気軽に笑い合える人ではなくなってしまう。この国において、夜空と呼ばれるあの三人は特別な存在だ。内二人は国の頂点に立つ者で、残ったエラも同じように特別な存在になる。きっと、神聖な者として崇められるようになるだろう。そうなった時、今と同じように求めてもらえるか分からない。

やっぱり半分人間、ほぼ人間である貴方たちとはいられませんなんて言われたら、大人しく引き下がるしかないだろう。

そこまで考えて、アルフレッドは首を振る。エラはそんな事言わない、きっと今まで通り三人一緒を望むだろう。


「お嬢は俺たちが自分の居場所だって言うけどさ、俺らにとっちゃお嬢が居場所なんだよな」

「本当、見苦しいくらい依存してる」

「全員な」


苦笑しながら、少年たちはどうやって月を迎えに行こうかと相談し合う。今頃何処で膝を抱えているだろう。氷の柱でも建ててくれたら見つけ出すのは簡単なのに。暗くなり始めた空に浮かぶ欠けた月を見上げながら、そっと溜息を吐いた。


◆◆◆


走った。走って走って走り続けた。いつの間にか建物の中に居る。誰もすれ違わないのが救いだったが、走り続けたせいで脇腹が鈍く痛む。そろそろ止まろうと思うのに、止まってくれない脚は見たくもない現実から逃げようとするエラの心を表しているようだった。


「おっと」

「あ…!」


部屋の扉が開いたのだ。そこに勢いよくぶつかり、エラは漸く足を止めた。打ち付けた額を抑え、その場に蹲ると、上から呆れた声が降ってきた。


「廊下は走らない。怪我治したばっかりなんだからそれも気を付けるように言ったろう?」

「すみません…」

「ほら、見せてごらん」


そっと頬に添えられた手は、ひやりと冷たい。呆れ顔のハンネは、エラの顔が涙で濡れている事に触れずにいてくれた。だが、優しく立たせると今出てきたばかりの部屋に引き入れる。座りなさいと差された二人掛けのソファーに大人しく腰かけると、エラはスンと鼻を鳴らした。


「額を打ったくらいで泣くんじゃないよ」


別にそれが理由で泣いていたわけでは無い。そんな事くらい分かっているだろうに、ハンネはかちゃかちゃと音をさせながら二人分のお茶を用意しだす。普段実家で飲んでいたような良質な茶葉などこの士官学校で飲めるものじゃない。安物だよと言いながら差し出された茶は温かく、腹をじんわりと温めてくれた。


「吐き出したいなら吐き出しなさい。そうじゃないなら、それを飲んで落ち着いたら部屋に戻るんだよ」


何か用事があって部屋を出た筈のハンネは、エラの向かい側に座って優雅にカップを傾ける。初めての魔力暴走を起こした時から何度も世話になっているこの女は、無理に話を聞き出したりしない。話したければそうすれば良いし、そうじゃないなら落ち着いた頃に帰れば良い。いつでもそうやって、訓練生たちの心のケアもしてくれる。


「…ザックが、先にいなくなるかもって」

「うん?」

「アルも、純粋な魔族じゃないからきっと先にいなくなるって」


ぼろぼろと溢れて落ちていく涙が止まらない。止めようにもどうしたら良いのか分からなかった。涙と同じように零れて行く言葉も、どうしたって止まらない。要領を得ないエラの話を、ハンネは黙って聞いてくれた。

居場所になると約束してくれたのに、それがいつまでも続くわけでは無い。先に死ぬのは運命である事、それを聞きたくなくて逃げてきた事。何度も言葉に詰まりながら話したそれは、「友人たちといつまでも一緒にいたい」と言うエラの子供のような願いだった。


「それは…どうしても無理な話だよ」

「…嫌です」

「嫌でもいつか別れは来る。とても悲しい事だけれどね。エラ、私は人間だ。年齢ももう四十を目前にしている。長くてもあと四、五十年の命だろう」


かちゃりとカップを置きながら、ハンネはいつもの落ち着いた声色でエラに語り掛ける。お願いだから今その話は聞きたくない。耳を塞ぎたい衝動に耐えながら、エラは固く目を閉じた。


「魔族にとってあっという間の時間だと思う。でも人間にとっての四十年っていうのは、とても長い時間なんだよ」


そっと立ち上がったハンネは、エラの隣へ座り直す。よしよしと白銀の髪を撫でてやりながら、まだ優しく言葉をかけた。


「君は百年…もっと長い時間を生きると思う。あの二人はもっと短い時間しか一緒にいられないかもしれない。だけれど、その短い時間を楽しかった思い出にしてみたら良い。もう二度と会う事は出来なくとも、残った思い出はいつまでも一緒にいるだろう?」


その言葉に思い出したのは、優しい母の笑顔だった。もう二度と微笑んでもらえない、名前を呼ぶことも、撫でてもらう事も、抱きしめてくれる事もない。それでも、思い出す母はいつでも優しく穏やかに微笑んでくれていた。


「でも、会えないのは寂しい。いやだ、いなくなったら嫌だ」


声を震わせて泣く少女に、ハンネは何度も何度も背中を摩りながら寄り添った。穏やかに目を閉じ、口元はゆったりと微笑みながら。


「それだけ大事な友達なんだね」


その言葉に返事をする事が出来ず、エラはこくこくと何度も頷いた。

いつか来るであろう未来。一人になってしまう未来が恐ろしくて堪らない。きっと家族は自分をエラとして見続けてくれるだろう。だが、家族よりもあの二人の傍が居心地が良いのだ。どこか感じていた家族との壁。誰も自分と同じように白銀の髪なんて持っていない。いつか月になるのよと祖母に言い含められている時、助けてくれたのは母だけだった。愛されていたと思う。それは今でも変わらない。だが、将来月として国に仕えるようになった時、家族は家族として接してくれるだろうか。


「あの二人を忘れなさいとか、そんな事は言わない。だけど、君はもう少し魔族に気を許した方が良い」

「え…?」

「どこか避けているだろう?月として崇められたくなくて、そう見てくるであろう魔族の事を」


そんなつもりは無かった。だが、言われてみれば確かにそうだ。魔族は皆夜空を有難がる。それが疎ましくて堪らない。同期たちはすっかりエラはエラと言ってくれるようになったが、それでもどこか「この人は自分たちとは違う」と思われていると感じている。きっとサラも同じだろう。


「殆どの人達は君を月の魔女エラ・ガルシアとして見るだろうね。でも、中にはただのエラとして見てくれる人もいる。そういう人を見つけたら、大切にすると良い」


そういう人がいる場所が、君の居場所になるだろうからとハンネは微笑む。まだ涙に濡れた顔でその顔を見返すと、いつも着ている白衣の袖で頬を拭ってくれた。ここでハンカチを出さないのが、ハンネという女らしい。


「今はきっと全部は受け入れられない。でも、君がもう少し大人になったら、ゆっくりでも受け入れられるようになる。それまでは今まで通り楽しく三人で馬鹿みたいに騒いだら良いんだ」

「馬鹿って…」

「ほら、お迎えだ」


キイと控えめな物音に反応し、まだ濡れた顔で振り返ると、細く開かれた扉の隙間から少年が二人此方を覗き込んでいた。気まずそうな顔をしているが、心配して探してくれていたのだと思うと何だかこそばゆい。


「さあさ、私は忙しいんだ!おこちゃまたちはさっさと飯食ってねんねしな!」


先程までの優しさはどこへやら、ぐいぐいと部屋から追い出しにかかるハンネに何も言えない。アルフレッドとアイザックにエラを放り投げると、ばたんと勢い良く扉は閉じられる。


「何泣いてんだよお嬢」

「お前も泣いてただろ」

「俺は泣いてねぇよ!」

「ほらさっさと行くぞ。飯抜きは勘弁」


エラの手を引きながら、アルフレッドはさっさと歩き出す。反対の手を取りながら、アイザックも文句を零しながら歩き出した。

あとどれだけこうして歩けるだろう。そんな悲しくなる事を考えないようにしながら、三人は食堂を目指して歩くのだった


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