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持たざる者の懺悔

痛いほど握りしめられた手首が痛い。何を言っても此方を振り返る事すらせず、ぐいぐいと引きずられてどれだけ経っただろう。アルフレッドの足はいつまでも止まらず、いつか氷漬けにした森まで歩いていた。そろそろ無理にでも振りほどこうか。そう迷い始めた頃、漸くアルフレッドは歩くのをやめた。


「アル、痛い」

「…ごめん」


緩んだ手から腕を抜いてしまうのは簡単だ。だが、振り返ろうとしないアルフレッドの背中を見ていると、そうしようとは思えない。あれだけ言われたくないであろう事を幾つも言われたのだ。きっと傷付いている。落ち込んでいる。どうしてやるのが良いのだろう。自分が落ち込んでいる時、アルフレッドは何をしてくれる?

そう考えた途端、体は勝手に動き出す。背中からそっとアルフレッドの体を抱きしめ、よしよしと腹を軽くぽんぽんと叩いた。何をしているんだと頭の片隅は冷静だが、今はこうしてやるのが良いような気がして。何度も何度も同じ動きを繰り返す。


「大丈夫だから」


腹の辺りで動き続けるエラの手を抑えながら、アルフレッドは小さく声を絞り出す。その声は、僅かに震えていた。


「一人になりたい?」


体に回す腕にぎゅうと力を込めながら、エラはそっと問いかける。


「…一緒に居て」


縋るような声。そっと絡められた指が、ぎゅっとエラの手を握った。いつもと逆になった立場。どうしてやるのが良いのか分からず、いつもアルフレッドにこんな思いをさせていたのかと少しだけ申し訳ない気持ちになった。


「何か格好悪い所を見られた気がする」

「アルが格好良かった事なんかあった?」

「あるだろ、多分」

「そうだっけ」


クスクスと小さく笑い声を漏らしながら、エラはアルフレッドの手を親指でそっと撫でる。いつも穏やかで、時々意地悪で、いつでもエラの味方をしてくれるアルフレッドが珍しく弱っている。半分しか血の繋がらない兄にあそこまで罵倒されたのだから無理もないが、何も言い返してやれず、口を挟むことさえ出来なかったのが申し訳ない。


「兄上は、人が言われたら絶対に傷付く言葉をよく知ってるんだ。だから普段は慎重に言葉を選んでるし、言わないように気を付けてる」


ぽつりぽつりとアルフレッドが語り出す。

兄は頭の良い人で、幼い頃から王になる為に教育されてきた。相手が何を考え、何を求め、一番柔らかい所が何処なのかを見極める事に長けている。だからこそ、アルフレッドは何となく兄が苦手なのだと言った。

城に入ったばかりの頃、兄がいる事は知っていたが、どんな人なのかは知らなかったらしい。城には使用人の子供たちが一纏めにされ遊んでいたし、アルフレッドも時折そこに混じって遊んでいた。そこに紛れていたのが、兄だったのだと言う。


「いつも慌てた顔の使用人が兄上を連れ戻しに来ていたよ。何度もそれを見て、漸くそれが兄なんだと知った。それから勝手にお兄さまなんて呼んで…兄もそれなりに可愛がってくれていたと、思う」


苦しそうな声で、アルフレッドはまだ言葉を続ける。辛いなら何も言わなくて良いのにと思うが、吐き出した方が楽になる事もあると、エラは知っていた。


「ある日グレース様が兄上を迎えに来たんだ。そこでお兄さまと呼んで構ってもらいたがっている俺を見て、あの人は汚い物を見るような目で俺を見た」


ぐっとエラの手を握る指に力が籠る。ああ、辛かったのだ。そう感じると、アルフレッドは僅かに背中を丸めた。


「子供でも何となくわかるよ。俺は異分子だって。歓迎されてない事も、出来れば早々に消えてほしい存在だって事も」


そんな事ない。そう言いたくて口を開いたのに、それは上手く言葉になってくれなかった。アルフレッドが泣いているからだ。飲み込んでしまった言葉の代わりに、エラはもう一度腕にぎゅうと力を込めた。その手に、ぽたりぽたりと水滴が落ちては地面に向かって流れ落ちていく。


「俺を産んだ母は死んで、父親である筈の男は俺に見向きもしない魔族の王。仕方なしでも城に入れてくれたし、仮にも魔王の息子だからと危害を加えられる事は無かったけど、あの広い城に俺の居場所なんて無いんだよ」


成人の儀で一度入ったあの大きな城。どこもかしこも煌びやかで、華やかなあの建物は、アルフレッドにとってとても居心地の悪い檻なのだ。彼の体に流れるのは半分は人間の血だが、もう半分は厄介な事に魔王の血。それが外で勝手に増やされては厄介だし、何か面倒事を起こされても困る。ならば手元で監視している方が都合が良い。どうして母はあんな檻に俺を入れたんだと嘆きながら、アルフレッドはその場にしゃがみ込んだ。


「エラが羨ましかった。正真正銘の魔族で、魔力は強大、家族に愛されて誰からも必要とされて…月になりたくないなんて我儘を言うなってずっと思ってた。俺が欲しいもの全部持ってるくせに、いらないなんて贅沢を言うんだ」

「…酷い事思ってたんだね」

「エラに近付いたのも、父上の命令だった。月が逃げ出さないように見張っておけって」


聞きたくない。それを聞いてしまったら、これまでのアルフレッドとの思い出が全て壊れてしまうような気がしたから。それでも、アルフレッドは懺悔し許しを請うように言葉を止めてはくれなかった。

どろり、どろりとアルフレッドが心のうちに溜めこんでいた重苦しい感情が言葉として吐き出されていく。ああ、この人はそんな感情を押し殺しながら自分の傍に居たのか。仲の良い友人になれたと思っていたのに。それは魔王の計画の一つで、まんまとその策に乗ってしまった。それに気が付かず、こうして落ち込んでいる友人の背中に縋りついて、一度離れた体をまた摺り寄せてしまうなんて。


「泣きながらこの森を氷漬けにした時、俺は心底エラが羨ましかったんだ。もしも俺が純粋な魔族で、こんな力を持っていたらって」

「満月の度に暴走するのに?」

「何も持っていない俺からしたら、暴走する力であっても羨ましくて堪らないんだよ」


本当にこの力の何がそんなに良いのだろう。上手く操る事も出来ず、暴走する度周囲は凍える程の寒さと氷に包まれる。毎月のように体の中から凍ってしまいそうな寒気に耐えるエラは、これを羨ましいと思う気持ちが分からなかった。


「ごめん、俺何言ってるんだろう」

「私の事本当は嫌いって事は分かったよ」

「違う!そうじゃない!」


勢いよくエラの方へ振り向き、違う違うと零しながら小さく首を横に振るアルフレッドの顔は涙で濡れている。許してくれとばかりにエラの手を握り、その体に縋りつく姿は、普段の余裕ありげな姿からは全く想像出来なかった。


「最初はそうだった、それは認める。でも今は違う!」

「違うの」

「違う、違うんだ。エラが好きだ。エラが望むならこの国から逃がしてやれるように何でもする。月なんて呼ばれない人生を送れるように協力だってする。そこに俺も一緒に行けるのなら」


何を言っているんだこの男は。それが出来るのならエラは自分でやっている。いくら王家の一員だとしても、あくまでその席は末席の末席。居場所のない王子様に何が出来ると言うのだ。そう思っても、エラはそれを言葉には出来なかった。泣き縋る男の体をそっと抱きしめ、よしよしと背中を摩るだけだ。


「さっき見てたし聞いてたでしょ。私は逃げられない。だからせめて、繋ぐ鎖が少ない案を選んだ」

「嫌だ。それじゃエラは遠くへ行くじゃないか」

「ブライアン殿下と結婚して王都に居る方が良かった?」

「それも嫌だ。弟にエラを取られるなんて」

「我儘だなあ」


嫌だ嫌だと零すのはお前も同じじゃないか。ふっと小さく笑いながら、エラはまだぐずぐずと鼻を鳴らすアルフレッドの頭を撫でた。少し硬い、焦げ茶色の髪が、エラの真っ白な指の間をするすると滑っていく。


「ずっと押し殺してた。訓練生の皆が俺にもザックにも優しくしてくれる。エラと三人でいるのが心地よくて、羨ましいって気持ちも忘れられると思ってた」


縋りつきながら、アルフレッドはエラの背中で拳を握りしめた。兄に言われて思い出したのだろう。自分が周りとは違う、何も持っていないという事を。


「アルフレッドは何も持っていないって言うけれど、私はそれが羨ましい。生きようと思えば、好きな所で好きに生きて行けると思うから。お互いがお互いを羨ましいと思うなんて、何か変な話だね」

「…そうだな」


漸く小さく笑ってくれたことに安堵し、エラは少しだけアルフレッドから体を離す。今更恥ずかしくなったのか、アルフレッドの顔はほんのりと赤くなっていた。


「アル、お願いがあるんだけど」

「何?」

「私は遠征部隊に入るよ。国の色々な所を見てくる。そうしたら、きっと私は何処に行っても月の魔女と呼ばれるでしょう?」


今まで拒絶し続けた存在。忌まわしい呼び名であるそれを、今少しずつ受け入れようとしている。


「でも私はエラだから。ただのエラとしていられる場所になって」

「…今まで通り、一緒に?」

「そう、ザックも一緒に三人でいて。帰る場所があれば、きっと私は月としてやっていける。頑張れると思う」


お願いと小さく笑うと、アルフレッドはまた泣き出しそうにくしゃりと顔を歪ませる。酷い事を言った、八つ当たりのように傷付けると考えもせずに言いたい事をぶちまけたのに、まだ一緒にいてほしいと願うエラに、アルフレッドは涙を零しながら笑った。


「それじゃ、俺は何処にも行けないな」

「行きたければ何処に行っても良いよ。アルの好きにしたら良い」

「エラと一緒にいるよ。王都で待ってる」


互いの体を抱きしめ合い、まだ幼い少年少女は互いの存在と体温を確かめ合う。あとどれだけ生きるか分からないが、少しでも長くともに居られる事を願いながら。


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