黒の君
遠い遠い遥か昔。この国には夜空と謳われた三人の魔族がいた。闇夜を宿した王と、その両脇に寄り添う月と星。彼らは一つの国を作り上げ、魔族の安寧の地とした。
「嫌になる程聞かされ続けた話だな」
こびりついてしまったと自身の耳を引っ張りながら、テオドールはやれやれと肩を竦めた。その隣でゆったりと紅茶を楽しみながら、サラは小さく微笑む。
「殿下、そろそろ突然いらした理由を教えていただけませんか?」
訓練所の応接間。大して広くもないその部屋で、テオドールとサラ、エラとアルフレッドが並んで座る。何も知らない者が見れば優雅なお茶会のように見えるそれは、エラからすれば非情に気まずくすぐさま逃げたい集まりだった。
「ああ、そうだった。ガルシア嬢に話してやりたい事があったんだ」
「私に…ですか」
「我が弟、ブライアンの事でな」
ぴくりとアルフレッドの手が揺れる。怪訝そうな顔を半分だけ血の繋がった兄に向け、言葉の続きを待った。何だか嫌な予感がする。そういう予感は不思議な事に良く当たるのだ。
「ブライアンとガルシア嬢の婚約の話が出ている」
「駄目だ!」
ガタンと膝をテーブルにぶつけながらアルフレッドが勢いよく立ち上がる。そんな弟の姿に目をぱちくりとさせ、少し移動したカップを直しながら問う。
「何故お前が反対するんだ、アルフレッド?」
「兄上もご存じでしょう?エラは月になる事を望んでいない。ブライアンと婚約なんてしたら身動きなんて取れなくなってしまいます」
立ち上がった姿勢のまま、あるフレッドは必死で兄に向けて言葉を紡ぐ。普段穏やかに垂れた目が、漆黒の王子をキツく睨みつけていた。だが、テオドールは怯む様子など微塵も見せなかった。ふうと小さく溜息を吐きながら、ソファーに深く体を預け、膝の上でゆったりと指を組み、喚く弟をスッと細めた目で見つめ、口を開いた。
「望んでいない、か。それは私もサラも同じこと。逃げたい?そんな事分かっている。私だって同じだ。国を治める等そう易々と引き受けられるような重圧だと思うか?」
生まれ落ちたその瞬間、魔王の息子が産まれた事を告げる祝砲が鳴り響き、まだ濡れた髪と開かれた瞳が黒かったおかげで三日三晩お祭り騒ぎが続いた。それを幼い頃から何度も聞かされ続け、聞きたくもない戯曲を延々と聞かされ、お前はこの国の主となるのだといつでも何度でも刻み込むように言い含められてきた。
「私は魔王の息子。お前もそれは同じだが、私は正真正銘ファータイル国王妃グレースの腹から生まれてきた。どこぞの誰かも知れない人間の腹からではない」
低く唸るような声。じっと弟を見据える瞳は冷たく、光を全く感じない程どろりとした重い何かを抱えていた。
「逃げられるものならとっくに逃げている。だがそれは許されない事。国に住まう民全てを敵に回し、この国で生きて行けると思うか?魔王の息子が人間の国で無事に生きて行けるとでも?」
「それは兄上の立場の話で…」
「サラもガルシア嬢も同じだと言っている。民は夜空を望んでいる。嫌だと逃げた所で、エラ・ガルシアもサラ・ランドルフも今世の月と星という事は知れ渡っているのだから」
珍しくよく喋ると言いたげな顔で、黙ったままのサラは控えめな音を立てながらカップを置く。ちろりとエラの方を見るが、エラにはこの兄弟喧嘩に口を挟む勇気など無かった。
「お前に何が分かる。何処へでも行けるお前に、何が」
「殿下。そこまでに致しましょう」
奥歯を噛みしめながら弟への恨み言を吐き出したテオドールに、漸くサラが待てと言葉を投げた。今この場にいる者で、唯一テオドールに気兼ねなく声を掛けられるのはサラだけだ。
「兄弟喧嘩をしに来たわけでは無いのでしょう?」
「ああ…そうだな。すまないガルシア嬢。話を戻そう」
こほんと小さく咳払いをすると、座れとアルフレッドに手で示す。何も言い返せなかったアルフレッドは、酷く悔しそうな顔をしたまま、黙ってそれに従った。ぽんぽんと慰めるように背中を軽く叩いてしまうのは、いつもしてもらっているせいなのだろう。小さくありがとうと声がした気がした。
「ブライアンとの婚約はまだ検討段階だ。父上が月も取り込めるとかなんとか企んでいてた」
「ブライアン殿下はまだ八つ。婚約するには幼すぎるわ。だからまだ本決まりになっていない」
サラが付け足すようにテオドールの言葉を継いで、じっとエラを見る。見られたって困る。見た事すらない小さな王子様と婚約なんて絶対に御免だ。もしかしたら奇跡が起きて仲の良い夫婦になれるかもしれないが、どうしたって王家は敵という意識が抜けない。目の前に座って此方を見ているテオドールは、自分と同じように逃げる事の許されない立場にいる者。だが、魔王の息子でいずれこの国の王となる。仲間意識なんて持てるとは思えなかった。
「先走って喧嘩腰になったアルフレッドに話を折られてしまったけれど、テオは貴方に相談しに来たのよ」
「相談…」
「申し訳ないが月としての役目からは逃げられん。逃がしてもやれんしそれは私もサラも同じこと。だが、私たちのように城に縛り付けられる事は無い」
話の意味が分からない。何を言いたいのだとじっとテオドールの真っ黒な瞳を見つめるが、何を考えているのかすら分からなかった。
「ガルシア嬢は色々な所を見たい。そう言っていたとモリスから聞いている」
いつかリュカに話した事を思い出す。どうせモリスに報告がてら話しているだろうと思ってはいたが、まさかテオドールまで知っているとは思わなかった。
「モリスは私の師でもあってね。昔少しだけ剣を教わった事がある」
「そうでしたか」
「提案だ。弟と結婚し、城もしくは王都に縛り付けられるか、月としての役目を全うしながら遠征部隊に入れるようにするか」
どちらが良い。そう言ったテオドールは、柔らかく微笑んでいた。どう答えるべきなのか分からない。思わずアルフレッドの方を見たが、まだ警戒しているのか怒っているのか、眉間に皺を寄せたまま兄を睨みつけていた。
「どちらも嫌は受け入れられない。二つに一つ、どちらかだ」
「あの、突然すぎてどうすれば良いのか…」
「どうも何も、君の好きな方を選べばいい」
にっこりと微笑みながら、テオドールはテーブルに置かれていた焼き菓子を一口齧る。美味しかったのか、新しい物を取るとそれをサラに手渡した。
「月はあくまで国の護りという認識が強いからな。王都に引っ込んでいるより、国のあらゆる場所を見て民の声を私に届ける方が支持を得られそうだろう?」
戯曲に頼り切りの治世など御免だ。そう零しながら、摘まんでいた菓子を口に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。
さあどうすると言いたげな目は、じっとエラを見据えたまま動かない。うろうろと視線をさ迷わせるだけのエラに苛立っても良いだろうに、テオドールはゆったりと構えて待つだけだ。だが、エラの言葉を促すように、言葉を続けた。
「君の本陣はテルミット。戯曲にある月もそうだったようだし、戯曲に則れと言う父上の言う通りにしてやろうじゃないか」
月の魔女はいつ人間が攻め込んで来ても守れるようにと、テルミットを本陣としていた。それは戯曲にもある。内戦が起きた時初めてテルミットを離れ、国のあちこちで戦ったらしい。
「私は…王家の一員になるなんて御免です」
「では、遠征部隊に入るという事で良いかな」
「そうしていただけるのであれば、そうしてくださいませ」
「宜しい。そういう訳だアルフレッド。あまり兄を睨んでくれるな」
困ったように苦笑しながら、まだ自分を睨みつけるアルフレッドに菓子を差し出す。それを受け取ってもらえず更に困った顔をするのだが、先程までの威圧感たっぷりの雰囲気は欠片も感じられない。どんな人物なのか、エラはまだテオドールという男が分からなかった。
「訓練が始まってそろそろ二年になる。残りあと二年で、ガルシア嬢とサラには戦場で使い物になる程度になってもらいたい」
「この二人を戦わせるおつもりですか」
再びギッと兄を睨みつけ、膝の上で拳を握りしめるアルフレッドに、テオドールは困ったような顔を向ける。毎度毎度噛みつかれては話がいつまでも進まない。サラも同じ感想なのか、呆れたように溜息を吐いた。
「彼女たちは飾りじゃない。ただごてごてと宝石で飾り立てられた剣が重たく邪魔なものであるのと同じように、戦場で役に立たない月も星もただの足手纏いだ。そもそも彼女たちは軍人になる為に訓練をしている。戦うのも仕事だろう」
それはいつぞやの雪山で痛いほど痛感していた。己の力を上手く制御する事すら出来ず、満月の夜には暴走する。それではただ邪魔なだけ。死んでは困る女を護る為に、何人の人が死ぬことになるだろう。それでは意味が無い。そう言って、テオドールは弟に差し出した菓子を一つ摘まんで口に放る。
「お前だって、月がどんな最期を迎えたか知らんわけではあるまい?」
戦って戦って、体力も限界になった頃、守る筈だった魔族にその身を貫かれて死んだ。凍り付いた世界の真ん中で、腹も胸もズタズタになる迄貫かれ、白を赤に染めて死んだ。
「戦い切るその前に、簡単にボロキレにされては困るだろう」
「俺が守ります」
「魔術も使えないお前に何が出来る?剣一本で守り切れるのか?お前に?」
何も持っていないくせに。そう鼻で笑いながら、テオドールは小馬鹿にするような目をアルフレッドに向けた。顔を真っ赤にし、怒りで握りしめた手が小刻みに震えている。その手をそっと握ってやりながら、エラはじっとサラを見た。
「お二人は、覚悟を決めたという事ですか」
「成人する時に誓ったのだ。私は次期魔王として努力をし、王となった暁には平和と安寧をもたらすと」
「その誓いの為に、私とサラを利用するのですね」
「その通り。恨まれようとも構わん。私は元から優しく慈愛に満ちた王になどなれないのだから」
真っ黒な瞳をじっと見つめながら、エラはテオドールという男を観察する。テオドールは、真直ぐにエラを見つめ返す。互いの間に言葉は無いが、少なくともこの男の言葉に嘘は無いと思った。
「絶対にブライアン殿下、王家の誰かとの結婚はお断りです。それを守っていただけるのであれば、月として最低限の事はしましょう」
「そうか!ならばそう父上に伝えておこう。どうせあの父のことだから、月が手の内にあればそれで満足するだろうからな」
にっこりと満足げに笑って、テオドールは話は終わりだと手を軽く叩いた。勢いよく立ち上がったアルフレッドが、エラの手を握りしめたまま部屋を出る。文句を言いながら引きずられていくエラの後ろ姿を見送りながら、未来の魔王夫妻は小さく笑った。
「何もあそこまで悪役にならずとも」
「アルは私やブライアンに遠慮するからな。あいつは好きな生き方が出来るのに、そうしようとしない。多少嫌われれば、もしかしたら私を見限り、好きに生きてくれるかもしれないと思ったんだが…」
大きく溜息を吐きながら、テオドールは悲しそうな顔をする。少々やりすぎたと思っているのだろう。慰めるように肩を摩るサラの手を取りながら、小さく言葉を零した。
「嫌われすぎてしまったかな」
「言い過ぎておりましたからね。覚悟なされませ」
「ああ…これもそのうち慣れるのだろうな」
まだ若い未来の魔王夫妻は、互いに体を寄せ合い、重く圧し掛かる重圧に耐えるように目を閉じた。




