001
プロローグ
――魂はどこへ宿り、どこへ行くのか。
*
1人の男が肩を上下させ、息を切らし佇んでいた。
顔立ちは割と中性的で、20代半ばといったところだろうか。
彼、日下部幸雄は珍しく焦っていた。
黒いビジネススーツは埃まみれで、激しく転んだのだろうか、所々に切り裂いたような跡が付いている。
よく見ると切り裂かれた跡から血が滲んでいるようにも見える。大出血している訳ではないようだが痛々しい。
周囲は薄暗く、強い風が吹き荒れ砂埃が舞っている。乾いた雑草がほんの少しだけ生えているだけで、あとはごつごつとした岩がある大地が延々と広がっていた。
海外映画やテレビゲームの世界で見るような乾いた広大な荒野だ。
「…まずいぞ、かなりはっきり見えるようになってきた」
彼はそう自分だけにしか聞こえない声量で独り言をつぶやいた。
周囲に彼以外の人間は居ないので小声にする必要はない。
自分自身に今の状況を言い聞かせているようであった。それくらい焦っていた。
何せ、彼の目の前には悪魔としか言いようがない漆黒で異形の生物が空中に悠然と浮かんでいたからだ。
人間のような四肢に黒光りする昆虫の甲殻に似た皮膚が張り付き、トゲトゲしいシルエットの角と頭が付いている。
眼は黄金に輝いており瞳孔は確認できない。口は人間のものに似た歯が生え揃っており、それが剥き出しになっている。
四肢の関節部は妙に赤い色をしているが筋肉のようなもので繋がれている。
細身なシルエットなのだが体長が2〜3メートルあるからなのか人間離れした膂力を持っている気配が感じられた。
最も悪魔的に見えるのはその翼である。
人間の肩甲骨に当たる部分からコウモリのような大きな翼を広げ、まるで椅子に座っているように優雅に腕を組み、足を組み、羽ばたいていないのにも関わらず空中に浮かんでいた。
「改めて…まさに悪魔だな…」
幸雄は率直な感想を述べて、唾をゴクリと飲み込んだ。その瞬間――。
「ずいぶんと余裕そうだなぁ」
背後から幸雄の耳元に不気味な囁きが響いた。
幸雄は思わず勢いよくバッ!っと首だけ振り返り確認すると、鼻先に目の前に居たはずの悪魔が顔を近づけていた。
「っ!!またかっ!!」
幸雄は横に飛び退いて、距離を取った。
だが、飛んだ瞬間に悪魔の翼が物凄いスピードで幸雄を引っ掻いた。
「っっつ!!!」
幸雄はゴロゴロと地面に転がりながらも瞬時にしゃがんだ姿勢になり、悪魔を正面に見つめる形で体制を整えた。
引っ掻かれた右足はスーツの裾が破れ血が吹き出していた。
「おいおい、動きが鈍くなってきてるよ兄さん」
ひらひらと手を仰いで悪魔が言う。
「……スポーツは得意って訳じゃなくてね」
幸雄は痛みに耐えながら立ち上がり悪魔に対して返答した。
「減らず口は叩けるんだからすごいなぁ、尊敬するよ」
悪魔はパチパチと拍手する。
「でもまぁ、もうすぐ私は完全に顕現するよ。君からNm粒子をかなりもらったからね」
「毎晩、その翼だけで手一杯だったから勘弁してほしいな」
薄い笑いを浮かべて強がってはいるが顔色は悪い。
そう、ずっと前から幸雄はこの荒野とこの悪魔と接してきたのだ。
それこそ毎日、毎夜である。だからある程度の行動予測はできるレベルにまで達しているし、今までなら翼の攻撃を避けてこれた。
「…瞬間移動がおまえの能力か」
最初は悪魔が超スピードで動いていただけなのだが、今日の悪魔は消えて現れる軌道上に風や衝撃さえ感じないのだ。
どうしても気配を感知できずに不意打ちを喰らってしまう。
つまり、実際に瞬間的に消えて移動しているのだ。
「うん、普通の生物からしたら超スピードで動いているのとあまり変わらないのだけどね。確かに瞬間移動が私の能力だ。兄さん。流石、毎晩私と遊んでくれていたことはある」
悪魔はふざけた調子ではあるが、幸雄に対して称賛の言葉を送る。
「なまじ普通の人間なら私の姿を見ただけで恐怖し、苦悩し、粒子を放出すると思うのだが、兄さんは始めから粒子の量が少ないね。その冷静さはどうしてなのかな」
やれやれといったジェスチャーを悪魔がとる。
「もっと普通の人間なら早く顕現できたのだがねぇ…」
「だったら」
幸雄はギリッと奥歯を鳴らしつつ、
「さっさと俺の夢から出て行ってくれないか」
悪魔に対して睨みを聞かせた。
これに対して悪魔は、じっと幸雄のことを見つめ、
「すまないな。私のゲートは君としか繋がっていないようなんだ。何故かはわからないのだけれど。道がひとつしか無いのなら君には犠牲になってもらう」
悪魔が片翼を大きく振りかぶった。
とどめを刺す気のようだ。幸雄はぐっと身構えた。
(次の一撃が本命のようだな…。毎晩毎晩、攻撃力が上がってきている。最初の頃は半透明の姿しか見えなかった。攻撃力も大したことなかったが…)
頭の中でものすごいスピードで考えが駆け巡る。
(これが、Nm脅威生命体か……。それとも俺がただ単に想像している悪夢なのか…。悪夢なら死ねば覚めるのか)
幸雄がそう思った瞬間、悪魔が囁いてきた。
「まぁ、完全に死ぬ訳ではないよ。何度も言った気がするけれど両方の世界の存在権を交換するだけさ。俗に言う異世界転生をしてもらう。まぁ私は転移だが」
悪魔は改めて説明しようと言ってきた。
「私たちは、君たちの願いを叶えているだけなんだ。君たちが望んだから私たちは来た。君たちの内側にある粒子を取り込むことで私たちはこちら側の世界の存在権を魂に充填する。空になった君の魂は新しい環境を求めて近くのゲートを通り異世界に旅立ち、向こうの世界でエネルギーを充填して転生する訳だよ」
悪魔は優雅に突飛なことを説明し始めた。
幸雄は悪魔が言うことを信用することなんて出来ないと思う。
が、たしかに現実世界には、苦悩や争いが絶えないのは事実。
「悪い話ではないはずだ、兄さんも現実にうんざりしているだろう?」
現実を捨て去りたいと無意識に思うのは当然なのかもしれない。
そう、幸雄はだからこそ…。
「…そうだな…だから、俺は……」
幸雄がそう呟いた瞬間、悪魔の翼が振り下ろされた。
「楽しかったよ。兄さん。粒子はもらった!!!」
*
悪魔の硬質化した翼が幸雄の体の中心に突き刺さった。
悪魔の視点から見るとそういう風にしか見えない。事実、刺さっている。
しかし、この男からこの世界に顕現するためのエネルギーが放出されていなかった。それだけではない。
先程、攻撃を回避することに専念していた時は引っ掻けたときに少ないながら出血していた。そもそもダメージを与えられるのを嫌がったから回避していたのだ。
今は出血がまるで無い。
まるで、死人のような肉体……。
異世界にはネクロマンサーなどが死体を操る技術があるが、彼は違う。先程までエネルギーを放出していたし、吸い取れもしていた。だからこそ瞬間移動も可能になったのだ。
(今の彼からはこの世界で生きるエネルギーそのものが無いような…。)
そこまでの考えた悪魔はひとつの結論に辿り着いた。
「そうか…。君は…。すべての世界を…」
悪魔がそう言うと、彼の体が微かにぶるるっと震えだした。
*
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