第37話 特訓
俺は今までで一番と言っていいほど、精神的に試される状況に置かれていた。この状況で平常心を保てる奴がそう多く居るとは思えない。
「小太郎様、もっと強く抱きしめてください」
「こ、こうか?」
俺は雪さんを背後から強く抱きしめるようにする。より距離が近づいたことで、雪さんの淡い髪の香りを感じる。雪さんはあまり肉付きの良い方ではないが、こうやって抱きしめると、十二分に女性らしい感触を持っていることが分かる。
「んっ……、小太郎様の吐息が……」
「すまない、少しだけ我慢してくれ」
「へえええ、すごいよ! 本当に二人とも見えないねえ。それに、カメラにも映ってないよ」
様子を見ていた霞が緊張感の無い声を出す。こちらからは霞の姿がちゃんと見えている。しかし、ラップトップに表示されている映像には、俺たちの姿はない。不思議な光景に意識を集中することで、煩悩を追いやろうと努力する。
「ふむ、ではそのまま映らぬように移動してみるが良い」
猿の源蔵は一升瓶を抱えたまま、俺と雪さんに指示をだす。そう、俺たちは今屋敷に侵入するための練習をしているのだ。
「じゃあ、雪さん。行くぞ……」
「はい。心の準備はできています」
雪さんの氷に隠れるという技は、見えないだけでなくカメラにも映らない。そのうえ氷を使っている関係からか、赤外線にも引っかからないという優れ技だ。欠点は隠せる範囲が狭い事かな。おかげで俺は雪さんを抱きしめて移動する必要がある。
じりじりと俺と雪さんは歩を進めていく。やってみると分かるがなかなかに難しい、なんせ少しでもタイミングがずれるとカメラに映ってしまう。
「小太郎、アウト―! いま足がちょっと見えたよ!」
「くそっ、マジか……」
集中が切れてしまった俺は、雪さんを抱きしめる手を放すと、手足を投げ出し床に座り込む。本番までにはしきりに沿って部屋を二、三周は軽くできるようになる必要がある。
「移動の練習だけでもこれなのに、金庫破りの特訓もあるんだよなあ」
ぼやきながら目をやる先には、大輔さんが手配してくれた金庫の鍵がある。錠前士が訓練に使うもので、鍵の部分だけをカットしてあるものだ。もちろん、鳳来の屋敷にあるモデルと同じものである。
一緒に届けられたマニュアルを見ながら挑戦しているが、いっこうに上手くなる気配がない。昨日一度だけ開いたが、二度目がなかったのでただの偶然かもしれない。落ち込む俺に追い打ちをかけるように霞が言う。
「ねえ、こんどはわたしと移動する練習しよ?」
「なんでだよ。霞は消えて移動するんだろ?」
「二人三脚みたいで楽しそうだから、わたしもやってみたい!」
「霞さん! ドキドキしてとっても楽しいですよ!」
「ほら! 小太郎はやくはやく!」
雪さんまでそのような事を言い出す。ほんと疲れるんで勘弁してほしいのだが、なんだかんだ結局やることになるのだろう。俺は諦めの境地で「わかったよ」と答えるのだ。
「さあいくよ! 小太郎」
俺の前で気合を入れる霞に密着する。想像以上に柔らかさにドキリとしてつい手を緩めてしまう。「なに遠慮してるの?」という霞の言葉にやけ気味に強く抱きしめる。雪さんとはまたちがう、日向ぼっこした後のような太陽の匂いがする。
「よし、いくぞ!」
霞と一緒に移動を開始する。先ほどと同じような動きをするのだが、ラップトップにはばっちりと二人の姿が映っている。映し出される映像は、さしずめ嫌がる女性をどこかに連れ去る俺といったところだ。本当に間抜けな姿で非常に恥ずかしい。
「なんじゃ。霞殿とのほうが上手く動けているではないか」
悔しい事だが、練習など必要ない今の方が上手く動けているのは事実だ。たっぷり十分ほども動き回ったところでついに限界が訪れた。
「もう無理! 少し休憩させてくれ」
俺が音を上げるのを待っていたかのように、ドアをノックする音が響く。わざわざノックするなんて、大輔さんにしては珍しいなと思いながらドアを開く。が、そこには誰いない。不思議に思っていると足元の方から声がした。
「やあ、君が噂の小太郎君かな? ボクの名前はフランソワ・鈴木、君に頼みがあるんだよ」
声の主は、とんでもなくイケメンな人面犬だった。
侵入する練習をしているはずなのに、なんだか楽しそうですね……
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