命の天秤
弱っているエルーカを連れて、川に突っ込むことはできなかった。川上だろうが川下だろうがどちらでもそのうち橋があるだろう。そう期待して、川下のほうへと川沿いを進む。
さすがに川原は歩きにくかったので、少し草地へと戻った。毛玉ネズミを見かけることもあったが、ここは黙殺だ。エルーカのHPは抱いているあいだにも徐々に回復しているようだったが、油断はできない。せっかく得られた妖精を、失うつもりはなかった。
セレンの選択は正しかったようで、川向こうの街道と繋がる、また別の街道と橋を見つけることができた。時折馬車が行き交うのを川向こうでも見かけたのだが、こちらでも馬車が走っている。基本的に街道の中央を行くようで、セレンは巻き込まれないようにと道幅の端を歩いた。
石造りの橋と、石畳の街道。
歩きやすい道のおかげで、すぐに街壁が見えてきた。
エルーカは何も話さない。
青虫が発声器官を持たないのは当然だろうが、その沈黙はそれほど気にならなかった。時折身じろぎする青虫の身体を撫でたり、エルーカが頬へと頭をすりよせてきたりと、ボディランゲージはできる。また、赤いハートが点滅するだけではなく、くるくる回って踊る様子に、エルーカの機嫌はよくわかった。
ガメリオン近くには、自分と同じ初心者が多いようだった。服装も同じ綿の服で、ナイフを片手に戦っている。妖精は未だに連れていないようで、みんなソロだ。
このあたりは灌木だらけだった草地とは異なり、こちらには背の高い木もところどころに生えている。魔物も毛玉ネズミや蜘蛛だけではなく、木に貼りついたトカゲや耳の代わりに角が生えたうさぎもいた。
街道の上にはあまり寄って来ないようなので、セレンは戦闘を回避していた。
だから、その悲鳴を耳にした時も、迷った。
「――!」
くぐもった声音に、セレンの歩みが止まる。心地よい揺れに身を任せていたエルーカも、赤いハートの上にエクスクラメーションマークをくっつけた。
近い。
頭をその声のほうへと向けると、木のウロに茶色のかたまりがくっついているのが見えた。カマキリのような魔物が、その鎌を振り上げている。背丈は小柄な人間、子ども並みだろうか。
はっきり言って、カエルよりも強そうだった。
振り下ろされた鎌に、茶色のそれが傷つき、また悲鳴が上がった。くぐもって聞こえるのは、ウロに頭を突っ込んでいるからだ。幾筋も走った赤の線が、茶色の生き物の命を削る。
「エルーカ、ここに……」
セレンは肩の荷を下ろそうとした。しかし、べっちょりとへばりついた青虫妖精は、ぶんぶんと頭を左右に振る。全力で嫌がる様に、セレンは溜息を漏らした。そして、肩に担いだまま、ナイフを抜く。
「――なら、絶対離れるなよ」
赤いハートが、一際大きく点滅した。
抱えた青虫妖精は、それほど重くはない。
ただ、落とさないように、傷つけないようにと配慮すればするほど、セレンの行動は制限を受けた。
――どうせ強いのを相手にするなら、雑魚、倒しておけばよかったな……。
一撃必殺が決まればいいが、カマキリの皮はカエルよりもよほど硬いだろう。
となれば、脆いところを狙うしかない。
木のウロの茶色に意識が完全に向いている今なら、カマキリに先制攻撃を仕掛けられる。セレンは駆け出した。くるりとナイフを回転させ、逆手に握り直す。そして、彼はタイミングを合わせた。
振り上げられた鎌の片方の関節。それが打ち下ろされる時を狙い、逆にナイフの刃を入れる。
そうして、二つある鎌の一つを、奪った。飛んでいった細い刃先は、地面へと転がる。
スッパリと切り離された片側の鎌に、カマキリは哀愁を感じなかったようだ。代わりに怒りに満ちた紅玉をセレンへ向け、残る片側の鎌を振るう。大振りの動きは読みやすい。セレンは木の陰へと下がった。そして、ナイフの柄で木のウロの端っこを叩いた。
「おい、上には隙間あるぞ」
言えたのはそこまでだった。
茶色のかたまりよりも、目の前の敵。そう言わんばかりに片鎌のカマキリが迫る。
セレンは細めの立木を回るように避けた。その根に足を取られ……つんのめった彼が、木へと手を掛ける。カマキリは、その瞬間を見逃さなかった。セレンへと振り下ろされた鎌は――木を蹴って転がった彼に、当たらなかった。むしろ、セレンの狙い通り、木の根元へと深く突き立ったのである。
セレンは膝をついたまま、息を吐いた。胸が大きく上下する。心配するように青虫妖精が首筋へと頭をもたれさせる。そのしわしわした柔らかさに、彼は口元を緩ませた。
次いで、その目が大きく見開かれる。
木の根を抉り、カマキリの鎌がこちらへと向けられた。
そう気づいた時にはセレンの顔に、青虫妖精が乗っていた――。
胸元までも切り裂く鎌と、痙攣する小さな身体。
躊躇わず、奪われた視界の向こうにあるだろうカマキリの胴体を、セレンは蹴り飛ばす。
徐々に硬質化していくそれを、セレンは左手で抱き直した。もはや、肩に貼りつくこともない。見る間に柔らかだった身体は縮んでいく。
エルーカを示すHPバーはグレーダウンしていた。状態異常表示は「蛹」とあり、先ほどまで見えていた赤いハートはどこにもない。
セレンは唇を噛んだ。すっかり小さくなった硬い蛹を切り裂かれたシャツの胸元へと押し込み、両手でナイフの柄を握る。そして、起き上がろうとしていたカマキリの首を、屠った。
小さな頭が飛ぶ。砕け散ったグラフィックのあとには、カマキリの鎌が残されていた。
抱きしめた胸元には、硬い感触がちゃんとある。そして、それにはほのかに熱を帯びていた。
青虫は蛹になるものだ。それはやがて、硬い殻を破って空へと旅立つ。これで終わりではない。
蛾でも蜂でもいい。
傷ついた身体で、なお契約者を守ろうとした小さな命を思い……セレンはしばらく、その場を動けなかった。
「ふぅ……くぅ……ぅ」
その呻き声が、セレンの意識を蛹から外へと向けさせた。
苦鳴は続く。助けたはずの命だと、セレンはようやく腰を上げた。
木のウロから、それは何とか身体を押し上げるべく、両足を踏ん張ろうとしていた。茶色の毛並みはもこもこしており、丸いしっぽにはどこか見覚えがある。どうやら上半身が完全に嵌っているようだ。だが、肝心の両足は爪先程度しか引っ掛けられず、その生き物の胴の長さが脱出を阻んでいるように見えた。
セレンは両手でその身体を支え、持ち上げた。
「んう!? ふ、あああっ」
いろいろひっかかっていたようだが、上には隙間がある。持ち上げればあっさりとそれは外れ、ウロから抜けた。じたばたと両手両足を動かすので、木から離してすぐに手からその身体は零れてしまい、俯せ状態で地に落ちた。
だが、むくりと両手を使い、器用に起き上がる。
「うー、痛い……」
そして、幾筋も赤い線の走ったお尻を、自ら撫でた。
けむくじゃらの茶色。丸い頭。丸い耳、丸い黒目に丸い鼻。
熊、というよりもテディベアにそっくりな生き物は、セレンを見た。
「アンタが助けてくれたんだ? ありがと……」
殆ど泣き声である。
その頭上に、ピンクのハートが浮かんでいるのを見て……セレンは視線を逸らした。
「いや……もう木に嵌まらないように気をつけろよ。じゃあな」
胸元の蛹を握り締め、身を翻す。
「え、あれ? ちょっと待ってよ!」
制止のことばは、聞かなかった。