遭遇
まっすぐ東へ向かったおかげだろうか。
目の前に川があり、その向こうに街道がようやく見えた。おそらく、この街道沿いに進めば最初の町、ガメリオンだ。
しかし、橋がない。
セレンは川に近づいた。ごろごろした石に足を取られそうになりつつ、流れを見る。川上と川下なら、やはり川下のほうが流れが緩いだろう。それほど深さもなさそうだ。浅瀬を選んで渡ってしまうのもありかもしれない。
だが。
小さく、溜息を吐く。
振り向くと、遠くでもぞもぞと蠢くアレが見えた。
アンネからは三十分ほど歩けばと言われたが、既にあれから一時間近く過ぎている。戦闘を繰り広げているせいもあるが、やはり気になるのだ。
ハートを灯した青虫が。
延々とあきらめもせずつきまとう姿は、けなげと言えばけなげだ。
しかし、青虫なのだ。
――もういっそあれで癒されるか?
セレンは真面目に検討してみた。
青虫と戦う。もぞもぞしている。
青虫を抱き寄せる。ふにふにしている。
青虫と戯れる。丸まっている……。
――アリかもしれない。
脳裏で描かれるのは青虫が主人公の絵本だ。読んだことはないが。
愛らしい花妖精とは違う意味だが、これはこれで癒される気がする。
青虫なのだから、いつか蝶となる日も来るかもしれない。っていうか、早くなってくれないか。あれ? 青虫って必ず蝶になるんだっけ? 蛾とか蜂もいたような。
セレンは小学生の頃のクラスメイトの自由研究で、トラウマになりそうな「青虫は何になるか」という標本を思い出し……思わず蹲った。そして、その辺に転がった石を拾い、ポーンと川へと投げる。
ちゃぽん、と寂しい水音が続く、と思っていた。
しかし、返ってきたのは水音ではなく「グェッ」という妙な呻きだった。
その呻きを耳にして即、セレンはナイフを腰から引き抜き、立ち上がる。
彼の視線の先では、頬をふくらませた青緑のカエルがつむじのあたりまでもふくらませ、こちらを紅玉の目で睨んでいた。
「グェェェェッ」
怒り狂ったカエルは、べちょべちょと飛び跳ねながらセレンのほうへと近づく。セレンの腰近くまである大きさに、今までの小物とは違うものを感じた。ただ、あまり高く跳べないようで、距離もさほど稼げていない。その様子に安堵し、彼はそのまま身を翻した。強さがまるでわからないので、逃げる一択だ。
急ぎ足でと一歩踏み出した途端、足首に何かが絡みつき、動きを止める。カエルの伸ばした舌が、彼の足首を捕らえていた。青々とした舌を見下ろし、セレンは躊躇わずにナイフを一閃した。舌が切り落とされ、カエルは痛みのせいか、何事かわめいていた。聞き取る気もなく、セレンは足首の舌を外す。
「ケェェェエッッ」
まともに声も出せなくなったようだ。くるくると舌を巻き戻したカエルは、再度それを吐き出した。まっすぐにこちらを狙う舌攻撃に、もう一度ナイフを振るう。が、それは再び舌を断つことができなかった。唾液により、切れ味が落ちていた。その事実を察する間に、舌はナイフを持つ手ごと巻きついた。
引き寄せられる。
そう悟り、セレンはそのままカエルの力に逆らわず、逆に勢い良く駆け寄った。足場は悪いが、転けなければいい。まさか獲物が自ら飛び込んでくるとは思わなかったのだろう。カエルの舌の動きが僅かに弱まる。その弛みを逆手に取り、ナイフを持つ手ごと抜いた。
そして、身体をひねりつつその刃を閃かせる。
切れ味ではなく、勢いで叩き切る。それは柔らかな青い肌を貫くだけではなく、片目までも奪った。
だが、終わらない。痛みで暴れるカエルの舌が、セレンの頬を打つ。砂利に身を倒し、セレンは舌打ちをした。体勢を完全に崩された。
がら空きになった背中へと、カエルが迫る。セレンが身を翻した、その時。
目の前に、ピンク色のハートが浮いていた。
もぞもぞと青虫妖精がいつのまにか這い寄り、自分とカエルの間に入り込んでいたのだ。くるりと身を丸め、頭近くから二本の角を突き出している。
その様子に、セレンが息を呑む。
カエルもまた、足元の青虫に気付いていなかった。セレンを狙い、跳躍したカエルは、唐突に出現した青虫の角に驚き、ぶよぶよとした青虫の身体を踏みつけて転倒した。
透明な液体がびちゃびちゃとその周囲に撒き散らされる。カエルはその液体を嫌がるように、後ずさった。完全に青虫に気を取られている。セレンはカエルの失われた片目側へ回り込むように走り、ナイフを振り上げた。
叩きつけられた刃は、今度こそその命を奪った。またもやレベルが上がる。早々と八にまで上昇した数値を一瞥し、残された水色の小石を拾い上げ、セレンは振り向く。
ピンクのハートマークが浮かんでいる。
だが、その下では……ひしゃげた青虫が、どんどん水分を失うように形を変えていた。
セレンは鞘へとナイフを戻した。
身を屈め、傷ついた青虫妖精へと手を伸ばす。べたべたとした液体が何なのかはわからないが、セレンには害がないようだ。両手に抱くと、青虫は身体を動かした。どうやら頭を上げたらしい。
セレンがしわしわの身体を撫でると、青虫は少し迷った様子を見せた。ふらふらする頭部を上にして、セレンは肩に担いだ。そのまま水辺へと向かい、近くに下ろす。
「水、飲むか?」
問えば、頭のほうが川へ向いた。しわしわの身体を支えて、頭だけ水に近づける。よく見えていなかったが、そのあたりに口があるのか、飲んでいるようだった。ついでに水で身体と手を洗った。ナイフの切れ味も多少戻ればいいと祈りつつ、洗ってしまう。
その時、ピンクのハートが、一段と大きくなるように点滅した。
――何となく、喜んでいることはわかった。
青虫に好意を寄せられるというのは、イマイチ複雑な心境だったが。
セレンは頭を上げた青虫を抱き直した。頭部……互いの顔を、見合わせる。黒い点にしか見えない目を見つめ、尋ねた。
「これも何かの縁だと思うし……一緒に来るか?」
黒い点が、黒い線になり。
ピンクのハートが、赤いハートに染まった。
同時に、ウィンドウが開かれる。
『青虫妖精があなたに心を寄せています。あなたの妖精になりたいようですが、妖精契約を行ないますか? はい いいえ』
表示されたメッセージを、アナウンスが読み上げていく。青虫の呼び方が思ったよりもきれいで、セレンは驚いた。その文面の中にある固い文言が気にかかる。
「契約すれば、どうなるんだろうな……」
『妖精契約とは、妖精が己の一生を契約者に捧げる契約です。妖精契約を行なうことにより、契約者は己の妖精から様々な恩恵を受けることができます。妖精契約を申し出た妖精にとって、契約者を得られることは喜びであり、拒絶された場合、己の存在意義を失い、消えます』
「それ、脅迫だよな!?」
セレンの呟きに応えるように、妖精契約を問うウィンドウのとなりにヘルプウィンドウが開き、ずらずらとメッセージが流れた。あまりの内容に、セレンは悲鳴を上げる。
すると、青虫妖精は気落ちしたように頭を下げた。頭上の赤いハートに、斜線が入る。漫画のような効果だ。
セレンは溜息をついた。
体験版では、自分の妖精を連れ歩くことができない。ここで契約したいのであれば、正規版にアップグレードする必要がある。要するに。
月額課金、決定である。
メニューから、システムを呼び出す。体験版から正規版へとアップグレードするために、手続きを行なった。とは言え、自身の端末番号を入力するだけなのだが。
正規版に変更手続きを終え、一切の制限が解除された旨の案内を文面で受ける。そして改めて、片手で抱いたままの青虫妖精を見た。
「じゃあ、よろしくな。エルーカ」
『はい』に重なる赤いハートを突っつくと、赤い魔方陣らしきものがふたりを包んだ。青虫妖精についての情報が、セレンの中へと書き込まれていく。
やはり、青虫妖精は成長する時にランダムでその成体を変えるようだ。本来、妖精に対して名前をつけられるのは一度だけなのだが、成長するたびに姿を変える青虫妖精の場合は、その成長段階ごとに名前を付け直すことができる特典がついていた。とりあえず、新しい名前はよく考えてからつけることにして、今は初期設定の通り、『エルーカ』である。
術は、さきほどの粘液のみだ。敵対したものが嫌悪する臭いを発する粘液、らしい。敵対していないので、セレン自身にはまったく感じられないのはありがたかった。
この魔方陣は契約陣というものらしい。自身の中へと収束した赤い光の名残を感じながら、セレンは青虫妖精を撫でた。声もなくその手に頭をすりつける青虫妖精に愛着を感じるのは、やはり癒しに飢えているからかもしれない。
視界の左上に、互いのHP表示もある。薄い緑のバー表示で、セレンのバーはほんの少し、エルーカのものは半分以上削れていて、今は薄い黄色になっていた。妖精契約によって、自動的にPT加入となるようだ。
回復薬も何も持っていないため、どうにもしてやれない。エルーカを抱いたまま、セレンは立ち上がった。とにかく、町に向かうしかない。
「町についたら休ませてやるからな」
右腕はナイフを握るために空けておく必要がある。左肩に半分乗せるようにして、セレンは歩き始めた。視界にピカピカと点滅する赤いハートに、小さく苦笑した。