窮鼠
しかし、その衝撃は建物の内側までは届かなかった。
砕け散った扉の破片が舞う中、契約者と対峙する者はただひとり――光り輝く陣を張り巡らした魔術師が立つ。
軽く手を振れば、陣は砕け散り、光の破片は宙に融けた。
白銀の短髪が、深い溜息と共に、揺れる。紫の瞳が、安堵故に緩んだ。
「――間に合いましたか。契約者セレン、貴方の話は魔術師ナトゥールより聞き及んでおります。
ここは学院寮アンディン、私は寮監を務める魔術師レフィナードと申します。これより先は私が案内いたしましょう。どうか、そちらの熊妖精の怒りを鎮めていただけませんか?」
黒の術衣を身に纏いながら、その内側には白の短衣と脚衣である。魔術師然としたナトゥールとの相違はその口調からも感じられた。
少なくとも、「止める」つもりではない。
セレンはシオンの背から降りた。そして、軽く、その身体を撫でる。
「シオン。学院寮の階段は、今のサイズだとちょっと上がりにくいみたいだ」
「――なら、仕方ないね」
瞬く間にその巨体は、愛らしいテディベアへと変化する。そして、少しも納得していない口調で、シオンは応えた。
「シオンたちは急いでるんだ。下手な案内ならいらないよ」
「どうぞ、こちらへ。話は歩きながらでもできます」
これ以上学院寮を壊されたくない一心だろうか。
魔術師レフィナードはすぐに手を奥のほうへと向け、ふたりを寮内へと促した。玄関ホールは広々としており、今は彼以外、ひとの姿はない。その歩みは二階へ通じる階段へと続いていた。
遠く響いていたはずの馬蹄と車輪の音が、その間にも近づく。待つ気はさらさらなかったが、セレンが階段に足を掛けた時、それは停止した。
勢いよく開かれた扉の音に合わせて、靴音が高く響く。粉砕された扉を駆け抜け、それはホールに飛び込んだ。
「間に合わなかったか」
階段上で、魔術師レフィナードは一瞬だけ、足を停めた。そして、階下に向け、声を張り上げる。
「魔術師ナトゥール、学院生アルムの部屋には封印を施しました。逃亡はあり得ません。なお、寮生には自室にて待機を命じています」
「――何だって?」
セレンはそのことばの意味を、理解したくなかった。
おうむがえしに尋ねたのは、ただの、信じたくない気持ち故だった。
魔術師レフィナードはその問いかけに、素直に応じた。
「学院生アルムの手元に、貴方の主張する蝶妖精入りかどうかはわかりませんが、花かごは届いています。
彼に関する容疑は不明ですが、まずは事実確認と話を聞くために、場を設けました」
――花かごは、届いている。
セレンは奥歯を噛んだ。その足が、心のままに駆け出す。場所なら、わかる。地図は変わらず、緑のアイコンでファラーシャの居場所を示し続けていた。半歩遅れて、シオンもまた続く。
風のように階段を駆け上がっていくふたりの背を、魔術師レフィナードは一瞬だけ見上げ、己もすぐに後を追う。
魔術師ナトゥールは前髪を掻き上げ、息を吐く。
「正直に言えばいいってものじゃないだろうが……っ」
そして、彼もまた走り始めた。
目指すは、猛る契約者の先。その手に花と蝶を抱いているだろう学院生の下へ、である。
部屋を封じた、ということは、「ファラーシャと共に、閉じ込められた」ことに相違ない。逃げ出せない状況で、手元に価値のある命があれば。そう考えただけでも、セレンの背筋は凍りそうだった。
目的の部屋の扉には、魔術師ナトゥールの言う通り、封印陣が描かれていた。セレンがドアノブを動かそうとしても、びくともしない。
「壊す?」
「中の状況がわからないからな」
少し息切れをしたシオンの問いかけに、セレンは短く返事をした。そして、背後へと叫ぶ。ようやく上がってきた、魔術師レフィナードへ、だ。
「封印を解け!」
「壊されるほうが好きなら、それでもいいよ!」
その場で、魔術師レフィナードは印を切る。封印陣はあっけなく消え失せ……合わせて、シオンは扉を引き開けた。長方形の出入り口はぽっかりと開き、扉はその場に転がされる。
途端、セレンは室内へと駆け込んだ。
開かれた窓、短い黒のマントを纏った少年、そしてその手には。
「――ファラ!」
力任せに、少年は窓の外へと花かごを放る。
セレンは窓の縁へと足を駆け、そのまま、跳んだ。
「セレン――ッ!」
シオンの叫びが、セレンの心に冷水を浴びさせる。しかし、もう遅い。
花びらが宙に舞うより早く、セレンは花かごを抱きとめる。姿勢が崩れる。重力のままに身体は大地に――叩きつけられなかった。
広がった陣は地面よりわずかに上でセレンの身体を受け止め、その衝撃を消す。
「契約者が降って来ること以外は、予測の範囲内だったな」
魔術師ナトゥールは、指先を弾いた。同時に陣は消え失せ、セレンの身体が今度こそ大地に墜落した。もちろん、尻餅をついた程度である。
短く息を呑み、それでも、セレンは胸に抱く花かごを離さなかった。
その中で、確かに、小さな振動が起こった。
あわてて胸元から離し、セレンは花かごに視線を落とす。
抱きしめられたために潰れた花の隙間から、水色の頭と、黒と青の羽が、生えた。
「――ふぁ……ぅ……う? セレン?」
いつもよりもさらにとろんとしたまなざしで、小首を傾げ。
蝶妖精は、己の契約者の名を口にした。
今まで眠っていたような口調に、セレンは唇を引き結ぶ。そして、息を吐くように、彼女を呼んだ。
「ファラーシャ、よかった……っ」
差し出した指先に、その頭がこてんと乗せられる。「ぅ……ん?」とまだ幼き蝶妖精は、状況を理解していないようだった。
「セレンー!? ファラーシャ、無事っ!?」
上から、シオンの問いかけが大音声で降ってきた。
それに反応し、ファラーシャが飛び上がる。そして、シオンが身を乗り出している窓辺を見上げ、両手を振った。
「シオンー? あれー?」
そのまま、シオンのほうへと飛んでいってしまう。
セレンはもはや価値のない花かごを地に転がした。それを、魔術師ナトゥールが拾う。
「証拠物件なんだが」
「面倒なことは任せるよ。一応、間に合ったから礼は言っとく」
「妖精狩りかどうかは、今後の調査次第になる」
「そのあたりも含めて、任せるよ」
太陽の残光が、尖塔の端から美しい双翼を照らす。
大地に落ちた影は、きれいな青の色合いを映し出していた――。




