朝露
モニターを見ながらキーボードをひたすら叩く。叩く。叩く。
時折声をかけられて、進捗の確認や不具合の対処の相談をしながら、それでも仕事は進んでいく。気がつけば昼、終業、残業、と続いて、辛うじて最後に部署を出ることは免れた状態だった。
時間帯的にもはや満員にはならない電車で、帰路につく。コンビニで適当に食事や飲み物を買い込み、ブラウザを開いたままで食事を摂る。テレビをつけなくなってどれくらいになるだろうか。伝えたいことだけ抜粋されたニュースは文面だけで十分だ。これをひとの意見を交えて聞けば、きっと苛立つに違いない。自分に関わりのないことながら、それでも、感性や倫理観にひっかかる何かが、不毛な感情を動かしてしまう。何もできはしないのに。
シャワーで洗い流せるものは汗と妙なべとつきくらいで、全身に圧し掛かる疲れは取れない。適当にタオルで髪を拭いつつ、蓮はスマートフォンに触れた。次のグループ内打ち合わせは明日十時、とスケジューラーを確認し、そこまで十二時間を切っている状況に溜息をつく。アラームをセットしているか見直して、ベッドに横たわる。
腕に、そして顎に感じたのは、ふわふわした毛並みだった。
「おはよ、セレン」
「おっはよー!」
真っ黒い瞳がこちらを見返す。その視界へと、鮮やかな黒と青が舞った。小さく細い手が伸びて、顔面へと襲い掛かる。香る花の匂いは、彼女の頭髪から漂うものか。鼻先を捉えた蝶妖精の肢体に、セレンは呼吸を止めた。
その身体を、黒い肉球の手がそっと支える。ついで顔面から引き離されていき、セレンは呼吸を再開した。
「ファラーシャ、セレンびっくりしてるよ」
「ふふっ、だって朝なんだもの!」
テンションが高い理由を聞かされ、セレンは時間を意識した。実際にパラミシア時間では一の鐘が鳴って間がないようだ。窓辺から射し込む光は確かに朝を告げている。
身体を起こせば、連動するようにテディベアも毛布から出てきた。ファラーシャはセレンの肩口にとまり、その羽で頬をくすぐる。視線を向ければ大きく伸びをしており、露出した腹部やらが眩しい。
「腹、減ってないか?」
「おなかすいたー!」
問いかけには元気な答えが返された。
垂れ目なので少し眠そうにも見えるが、はっきりとした声音は覚醒しきっている。
「施療院の周りの花壇にでも行く? 花、咲いてたよね」
背中から、軽い重みが乗る。
そのままおんぶをするように手を回してみると、軽々とそれは持ち上がった。
「ふぇっ!?」
「先に、朝の散歩にしようか。それから食堂で朝食」
「わーい♪」
とっさにしがみついたようで、尖ったツメが背にあたった。軽く揺らして立ち上がる。さすがにこの状態で剣までは持てない。荷物はそのままに、部屋の鍵だけは掛けて出た。
現実時間がゴールデンタイムなだけあって、初心者らしきプレイヤーもちらほらと食堂で見掛ける。しかし、オンラインであるはずのクロステルの姿は、やはりもうフラウムの宿にはないようだった。とおりすがりに、ちらちらと見られていたが、さすがに急に落とすわけにもいかない。セレンは逆に、背中のテディベアをちゃんと背負い直した。もういまさらである。
フラウムに少しだけ宿から出ることの許可を求めると、鍵を一時的に返却することと引き換えに了承が得られた。まるで本物の宿のようだ。
一の鐘が鳴り響いたこともあり、大通りから離れているこのあたりでも往来にはひとがちらほらと見られた。施療院の外側から、花の咲くあたりへと足を向ければ、先に蝶妖精は飛んでいってしまう。早速、頭から花に突っ込んでいる。
「イウォル、だっけ。すぐに出るの?」
やけにおとなしいと思っていれば、シオンは少しためらいがちにそう尋ねてきた。腰を落とし、背中からテディベアを下ろす。シオンは少し早足に、前へと回り込んできた。こちらの様子をうかがうまなざしに、セレンは苦笑を洩らす。
「まさか。遠出するんだから、やっぱりここはひとこと断り入れとかないと」
木妖精はもちろん、会えるのであればウルスの森の長にも。許容されたにもかかわらず、すぐに森を離れてしまうとなればあきれられるかもしれない。
木妖精のおかげで、大地の約定により妖精の遊び場の間を行き来できる。旅立った先からも、簡単に戻ることはできるだろう。それでも、熊妖精の母に対して黙って旅立つ気にはなれなかった。
「そっか」
少しほっとした様子で、シオンは視線を逸らした。早々と一本目の花の蜜は堪能したようで、ファラーシャは次の花へと飛び移っている。
小さな頭部に手を伸ばせば、丸い耳に触れた。
「それに、旅に必要なもの……物資もだけど、何よりも、情報ってやつがないだろ。イウォルがどのあたりとか、その道中に宿場町っぽいのがあるのかとかさ。そういうの、もうちょっと聞いておきたいかも」
「シオンは別に……」
「あー、だよな」
宿などなくとも、熊妖精や蝶妖精にとっては星空が屋根だろう。ふたりとならば野宿も楽しいだろうが、それでも安全という意味合いでは躊躇ってしまう。
「いざって時には、外でも休むことになると思う。その時はアドバイスしてくれよ?」
「――うん、任せて!」
破顔したシオンの頭をもう一度撫でていると、花の匂いが強くなった。頭にも、服にも花粉をたっぷりとまとったファラーシャは、それこそ犬のように身を震わせて、それを払った。そして、凹んだままに見える腹部に手をやり、ぽんぽんと叩く。
「ふぅ、おなかいーっぱい!」
「もういいのか?」
「うん! 朝露も美味しかったー!」
その笑顔からもわかるように、大満足の朝食だったようだ。
朝食代を支払わずに立ち去るのは、世話になった者として多少気が咎める気がしたセレンだったが、花を摘んだわけじゃないからいいんだよというシオンのことばに、そのまま身を翻した。
あとどれくらい、今夜はいられるかな。
ふと、心に過ぎる。
パラミシアで過ごす楽しさと、現実で過ごす虚しさ。
影を落とす対比に、自分が求めるものがあの世界のどこにあるのかと疑問すら浮かぶ。目に映るのは、ただ清涼な空気の漂う朝の時間と、これからに喜びを見出す己の妖精たちだ。
「セレン?」
「――ん、行こうか」
パラミシアにいるために。
あの世界の自分は間違いなく、必要な存在だ。
上司にとって使える部下であることとか、依頼者にとって融通の利く商売相手であるとか、そこそこの会社に勤めて死なず辞めずにいることとか。
澱のように溜まっていくだけだった何かを、いつもゲームは忘れさせてくれる。
当たり前のように伸ばした手に、その黒い肉球が重なる。
あたたかさに目を細めながら、「今日は、何が食べられるかな」と呑気なことを口にして、セレンは暁の中に、自分の心を熔かした。