ナビゲーター
『チュートリアルを開始します。なお、本体験版では製品版と異なり、一部の機能に制限が加えられます。すべての機能制限を解除するためには、製品版へのアップグレードをお願いいたします』
システムのメッセージが文字という形で表示され、合わせて音声としても流れていく。
まるでカーテンをすとんと落としたように、周囲の情景が切り替わった。先ほどはその中に自身があったはずの空が真上にあり、大地に足をつけている。芝生というほど栄養の行き届いていないような草地は、ところどころ赤土が露出していた。
不思議と、見回してもそれ以外の風景は何も見えない。あのPVに映し出された海も山も湖も川も……地割れすら、ない。
「ようこそ、パラミシア・オンラインへ」
その声に振り向く。
あれ、この世界って女神とかいたかな?と首を傾げた。目の前に立っていたのは、豊かな金髪を波打たせた、同じく薄い色合いの瞳を持つ女性だった。白い布を身体に巻いたような服を着ている。爪先は素足で、革のサンダルを履いていた。イメージとしては、ギリシャ神話の石像のような。
「いえ、私は旅先案内人アンネ……あなたと同じ人種ですよ」
アンネは口元に手をやり、くすっと笑って応えた。
――何か俺、口走ったっけ?
「チュートリアル中は様々な疑問にお答えできるように、プレイヤーの思考を読み取る設定になっています。ご了承下さい」
うわ、筒抜けかよ。
相手がいくら美人でも、ご遠慮したい設定である。こちらは男なのだから、いろいろと想像してしまうことがあるではないか。
セレンがやや引き気味に表情を強張らせていると、アンネは丁寧にことばを追加した。
「具体的にお話しますと、私が直接あなたの思考を読み取っているわけではなく、システムが必要に応じてあなたの思考を私に伝えてくれている、といったところでしょうか。ですので、邪なことを想像されても、その具体的な内容まではわかりませんから大丈夫ですよ」
「ご配慮痛み入ります」
思わず、社交辞令が口から飛び出した。
下げた頭で「ナビで遊んでいる場合じゃない」と正気に返る。
「では早速、基本操作から」
アンネもこちらの意図を汲んでくれたようで、説明を開始した。やはり、動きについては特に問題なさそうだ。軽く立って座っての屈伸運動や、腕の上げ下げなどを確認したが、クリーク・オンラインと変わらない。少し違うのはメニュー関係のUIのほうで、思考・音声・動作すべてで確認、使用が可能だった。クリーク・オンラインは五年物なので、視界の端には常にボタンが用意され、それを操作することによりメニュー一覧が開く仕組みになっていた。便利な時代になったものだ。
「パラミシア・オンラインではダメージを受けても痛みはありませんが、HPがゼロになれば戦闘不能に陥ります。身体がまったく動かない状態ですね。戦闘不能状態ではパラミシア時間で十分間、倒れたまま待機となります。その間に何かの戦闘不能からの回復処置を受けるか、もしくは、『妖精の遊び場に救いを求める』を選ぶことで再度戦闘可能となります」
痛みがない、ということに、セレンは「ぬるい」と感じた。その一方で危機感も覚える。どれだけダメージを受けたところで、痛みがまったくないのであれば……自分のステータス表示をきちんと見ていないと、気がつけば戦闘不能に陥っていたということもありうるからだ。ただ、死という概念を、アンネは口にしなかった。
セレンは殺伐とした思考を巡らせる中、重要な単語を確認した。
「妖精の輪?」
「さっそく、ご案内いたしましょう」
アンネが身を翻し、先に立って歩き出す。セレンはそのあとを追った。
初めて歩くフィールド、の時点で、セレンの思考は即座に地図を要求する。現在地の確認、方角、目的地までの時間的距離などを知るためだ。
現在地はパラミシアのどこなのかはわからない。それでも、地図では東に向かって歩いていることがわかった。草原らしき緑色が続き、その向こうに、ガメリオンという名の集落が表示されている。
意識をそちらに奪われているあいだに、突風が吹き抜けた。その強さに目を細める。
と。
『フフ』
あの……ルルディの声にも似た笑い声が、一瞬だけ耳元をくすぐり、抜けていく。
セレンは振り向いた。どれだけ目を凝らそうとも、その先に何も、見出だせなかった。
「妖精のいたずらですよ」
アンネは楽しげにそう言った。
セレンは慌てて彼女へと向き直り、尋ねた。
「今、そこに!?」
「ええ。ですが、あなたには見えなかったようですね。妖精は気まぐれですから。特にその力が精霊に近い者はその姿を任意に現したり隠したりすることができます。今のは風の眷属でしたから。逆に、獣に近い者は誇り高く、その本性を隠すことを嫌います。妖精にも、様々な種類がいるのですよ」
何もない空間へと指さす彼に、アンネは頷いた。
多種多様な妖精の存在に胸を高鳴らせ、セレンは花妖精以外にも癒し系の妖精がいるのだろうと期待した。
思考は読まれているはずだったが、彼女は微笑むと再び歩き始めた。その手のヒントはくれないらしい。
時間にしてたった三分もかかっていない。アンネが立ち止まった時、セレンは妖精の遊び場のほど近くから物語が始まるのだと悟った。
「こちらです」
彼女の声音に合わせるように、光の輪が広がった。
草地に現れた、小さな白の花の輪。
セレンは名も知らぬ花の輪を見下ろした。
小さい。その大きさは、彼の右の手のひらほどのものだろう。
しかし、そこにも妖精の姿は見出せなかった。
「妖精は様々な場所で生活しています。妖精の遊び場とは彼らの足跡と言ってもよいでしょう。その地を祝福する光の輪には、多かれ少なかれ力が満ちています」
アンネはどこからともなくナイフを取り出した。りんごの皮剥きにでも使えそうな一振りで、彼女はナイフを持たないほうの自らの指先を、軽く切った。
血が、滴る。
セレンは目を瞠った。
「問題ありません」
アンネは微笑み、身を屈め、小さな花の輪へと傷のついた手を翳す。すると、その傷に光が灯った。瞬く間に滴っていた血が消え、傷のあった場所には白い線のみが残される。
癒し、だ。
「小さな傷であれば、瞬時に癒すほどの力の痕跡です。このように、妖精の力によって妖精の遊び場では恵みが得られます。
セレン、あなたも妖精の遊び場へ触れてみて下さい」
アンネの促しにより、セレンも彼女と同じように花の輪へと手を伸ばした。光の輪がそこにあるように、セレンの右手を包む。
あたたかい、と感じた時、その光は収束し……セレンの身体に吸収された。
「これで、あなたがもし戦闘不能に陥っても、この妖精の遊び場が力を貸してくれます。あなたの命を守り、この場で癒してくれるでしょう」
なるほど、復活場所ということか。
セレンは納得して頷いた。
「MPは魔法やスキルを使用するごとに消費していきます。こちらはゼロになっても意識を喪失したりしませんが、そのまま休まずに身体を動かしていると、やがてHPが減り始めますのでご注意下さい」
「ここではどうやって使うんだ?」
別のゲームでは呼吸をするようにスキルを扱っていたが、ここではそういうわけにもいかない。
そもそも、セレンは魔法もスキルも身につけていないのだ。彼女もそのことはわかっているようで、ただ笑みを深めた。
「そうですね……魔法は魔句を口にすることで発動しますが、スキルと同様でその種類によって扱い方が異なります。あなたがその力を得た時に、練習するほうがいいでしょう」
要するに、今は教えてくれないらしい。
少しがっかりしながら、セレンは頷く。思考がついつい戦いに向いてしまうが、ここにはあくまで癒されに来たのだ。エンドコンテンツを目指す必要もないので、のんびりすればいい。
アンネはナイフを鞘に収め、セレンに差し出した。
「これは餞別です。あなたの身を守る術のひとつとなりますように」
それを受け取ると、ウィンドウが小さく表示された。「ナイフ 攻撃力五 元の所有者:アンネ」と書かれている。初めて手にしたアイテムには説明書きが出るようだ。
短剣スキルなら、クリーク・オンラインでもそこそこレベルを上げていた。長剣スキルほどではないが、多少なら感覚で使えるだろう。
腰のベルトにその鞘を挟み込む。二重に巻かれた皮ベルトなので、とりあえず落とさないだろう。こういった装備のデータを見ることはできるのだろうかと疑問を脳裏に浮かべると、答えるように同じウィンドウが表示された。綿の服の上下、皮ベルト、それぞれに守備力の数値が設定されているようだ。まだ最初なので、どれも一桁である。
「あと、これを」
パッと見、皮製の巾着袋である。麻紐を引けば口が閉じるという、素朴なものだ。マチがあり、底は平らになるように作られている。どこかで見覚えがあるなあと思えば、小学生の頃使った体操服入れに似ていた。
差し出されたので素直に受け取ったが、こんなものを持ったまま戦うのは一苦労である。地面に放っておくしかないか?と思っていると、取り上げられた。
そして、アンネはセレンの後ろへと回り込み、膝を落とす。皮袋の口を閉め、腰のベルトへと括りつけた。
「このままでは戦闘中に開くことはできませんが、これなら邪魔にはなりませんよ」
「あー、これってマジックバッグとか?」
身体を少しひねって尋ねると、彼女は少し首を傾げたあとに頷いた。
「バッグ……ではありませんが、この皮袋には収納という空間魔法が付与されています。この袋に入る分量でしたら、この皮袋以上の重さは感じません。ですが、あまりたくさん入れるとパンパンになりますから、気をつけて下さいね。裂かれてしまうと中身が飛び出しますし」
恐ろしい話である。
今は中に何も入っていないせいか、その半分以上を折り畳んでいるためにそうそう裂かれる事態にはならないだろう。あまりたくさん入れて回避できないという事態は断じて避けなければならない。
セレンが顔色を変えている間に、アンネは立ち上がり、裾の埃を払った。そして、更に東を指さす。
「ここから四半刻……三十分ほど歩いた先に、ガメリオンという町があります。まずそこで、この世界に慣れるといいでしょう。
あなたに妖精の祝福がありますように」
アンネの指先から、その方向を見て……再度彼女のほうを向いた時。
その美しい微笑みは、風に融けるように姿ごと消えていた。