忠告
依頼した回復薬の受け取りは、パラミシア時間で翌日になるという。
その旨を了承し、セレンはふと時間を確認した。それほど長居をしたつもりもなかったが、視界の端の時計を見る限り、かなり経っている。また明日も来ることになるのだし、と暇を告げようとした時だった。
薬師マーキムもまた、扉のほうへと視線を向けた。
「ありがたいことに、静かな夜だな」
施療院に駆け込む急患など、いないほうがいい。
そのニュアンスを受け取り、セレンは尋ねた。
「普段はもっと忙しいんですか?」
「契約者は殆ど痛みを感じない者ばかりだからな。けろっとした顔で死にかけてるとかもあるぞ」
笑えない話だった。
同感だと、熊妖精が頷く。
「わかるよ。セレンもそうなんだ。蛹をとにかく妖精の遊び場へ届けるために、無茶するし」
「よく見張っておくんだな」
「はーい」
愛らしく右手を挙げて、とても良いお返事をする蝶妖精に、セレンは肩を竦めた。
「俺が死にかけてるのを、ファラーシャが黙って見てるはずないだろ」
「それ結果論だからね。身動き一つしないセレンを抱き上げた時なんて、こっちは心臓止まりそうだったんだから」
丸椅子に座ったままシオンは振り向き、黒い目を細めて口を閉ざす。その不満げな顔から、セレンは視線を逸らした。
まっすぐな気持ちにまっすぐに返したつもりが、結果として気恥ずかしいことこの上ない。このような大人の事情など、当然、妖精たちは汲んでくれるはずもなく。
ぴょこんと椅子から飛び降りたシオンは、セレンの服の裾を握って引いた。
「セレン、どこにも行かないでよ。大地の約定があったって、引き離されるのはイヤだよ」
「私もイヤ……」
しかもファラーシャまであの時のことを思い出したようで、半泣きで飛びついてくる。腹部にへばりついた蝶妖精を手のひらで掬い上げ、とりあえずセレンはできる限りの約束をした。
「ぜ、善処する……」
「どこかの商人でもやってたのか? セレン。言い訳が妙に言い逃れに聞こえるぞ?」
「いや、まあ、言い逃れっていうか」
「営業というよりは商品開発系の、ごく普通のサラリーマンです」と言えるはずもなく。
しどろもどろになりながら、セレンは思わず救いの手をマーキムに求めようとした。単に嘘をつきたくないだけなのだが、相手がNPCであるにもかかわらず、そのあたりを忖度してほしいとついつい思ってしまう。
マーキムの片眼鏡が、きらりと光った。
「心を差し出せば心を返してくれるのが妖精だ。そんなことは契約者であるきみのほうが、よほど知っているだろう?」
それはこの上もなく突き放された、甘美な答えだった。
ファラーシャの羽がふわふわと揺らめき、指先に軽く触れる。そのくすぐったさは、セレンの胸の内によく似ていた。
ことばを噛み締めて視線を落とした彼に、マーキムは重ねて忠告した。
「このあたりの妖精は心穏やかなものが多い。だからこそ、絆を意識して、己を律し、道を違えるな。契約者だからといってその行動のすべてが受け入れられるわけではない。妖精の心に反するような行動を取れば、妖精との絆は容易く揺らぐ」
施療院の主たる者の、重いことばだった。
苦々しく契約者の所業を口にしていた妖精たちの声が、脳裏に蘇る。プレイヤーに対する道徳観念の要求や、ゲームの道筋のための注意事項ということを踏まえても、なお、彼女たちの怨嗟の声は大きい。
「――肝に銘じます」
そして、セレンは深く頷いた。
また明日の来訪を約束し、セレンは施療院を後にした。
ひんやりとした空気が首筋を撫でていく。
やや肌寒い風に、真っ先に身を震わせたのは蝶妖精だった。次いで、熊妖精の毛並みへと半身を潜り込ませる。
あたたかそうでいいな、と素直に思った。元の熊妖精ならともかく、このテディベアサイズでは、セレンをあたためるほどの大きさにはまったく足りない。
それでも、手を差し伸べると、少し照れたように表情を崩して、シオンもまた手を伸ばしてくれる。湿った肉球が、手のひらと重なる。鋭く尖っているはずの爪の感触ですらも、どこかやさしく思えた。
「月が出てるから、明日も晴れるね」
静かな声音に、視線を上に向ける。
丸い月が、濃紺の空にぽっかりと浮かんでいた。ガメリオンの街並みはまだ眠らないようで、街灯が負けず劣らずの明るさを発している。
「明日こそ、蜂蜜、探さないと」
「あ、そういえば、壺とかも見てないね」
「商会でついでに訊けばよかったな」
ウルスの森でシオンが使っていた壺は、戦利品の前に置き去りにするしかなかったのである。シオンたちはやはり当時満腹だったせいか、すっかり壺のことを忘れていたと残念がった。明日の予定に組み込めば、ガメリオンの外で蜂蜜採集の話が出る。
明日の予定を、楽しさの中で考えられるのはしあわせなことだ。
クライアントや納期を意識しての段取りも大事で、仕上がった時の達成感はいつもある。同時にリテイクをくらうことを覚悟する哀しさがつきまとうのは否めない。
ゲーム内とはいえ気ままに生きられる心地よさを、セレンは堪能していた。オープニングのように、世界のどこかが崩壊していることなど、まだとても、感じられない。
明るい光が満ちるフラウムの宿の扉をくぐれば、より一層そんな想像は遠くなった。
「お、戻ったか」
朗らかに受付の主人が口を開く。
部屋の鍵を受け取るべく傍に寄ろうとした時、その声が響いた。
「あ、アルクトゥスー!!?」
宿内のざわめきをつんざくような驚愕の声音は、聞き覚えのあるものだった。だが、シオンの毛並みに身を包ませていたファラーシャは「ひっ」と悲鳴を上げて身を伏せる。
「うわ、かわいいっ。セレンさんのですよね? すっごーい!」
そして思い出した。
かつて青虫は、蜘蛛に狙われていたのだった。
肩に蜘蛛を乗せた金髪の少女――裁縫師クロステルは、目を輝かせながら、シオンの前に腰を落とし、笑顔で名乗っていた。
「私はセレンさんのお友達の、クロステルです! アルクトゥスさん、お名前訊いてもいいですか?」
その愛想のよさを呆然と見やり、次いでシュルシュルと口元の牙を蠢かせる蜘蛛妖精へと視線を移し、最後にセレンをシオンは見上げた。
「……友達?」
「あ、うん。ファラーシャ、だいじょうぶ。アニーは食べたりしないから。――だよな?」
道端のアクティブ・モンスターとは違う。
今も羽の端っこだけがちらちらと見えている蝶妖精を、落ち着かせるためにことばを重ねる。
「当たり前じゃないですか! って、もう一体……えええっ!?」
その声のあまりのでかさに、セレンは思わず手が出た。口元を手で押さえ、シィーッと言い含める。
「騒ぐなって」
「す、すみません。え、あの蛹ですよね?」
途端にクロステルは音量を下げた。くぐもった低い声に、セレンは手をどける。
「うん」
「蝶妖精だなんて――羽、きれいーっ!」
結局、また感嘆の叫びに対して、セレンは彼女の口元を押さえつける羽目になったのだった。