ほしいものはすべて、ここにある
「間に合わねば、二度とウルスへと立ち入らせぬつもりだったが……悪運が強いというべきか、めぐりあわせの良さか」
忌々しげに森の長は言い放つ。しかし、頭上にあった赤が、通常のNPCの色合いへと戻っていくのをセレンは見た。同時に、HP表示も消える。
――戦闘が、終了したのだ。
セレンの身体へと、森の長の手が伸ばされる。腕を取られ、引っ張られた。軽い力だろうが、彼は勢いよく立ち上がることになった。そのまま、灰色の身体へと倒れ込む。その毛並みは本性を表したシオンのごとく硬く……相応に、ちくちくした。
改めて自分の足で立つと、森の長の大きさが余計にわかる。セレンの身長の倍はある体躯に、このまま倒れられただけで更にもうひとつレベルダウンしそうな予感がした。
「蝶妖精とは驚かされる」
その声音に呼ばれたかのように、ファラーシャが割り込む。両手をしっかりと広げてセレンの顔の前に滞空する様子は、青虫妖精のころと何も変わらない。
漆黒の羽が青い光を帯びて震えるのを見て、セレンはどう止めればいいのか、心底悩む羽目になった。後ろから両手で掴むのは、まるでトンボを取るような感覚になってしまう。本人も驚くだろうし、羽が傷ついたらたいへんだ。
よって、素直に名を呼んだ。
「ファラーシャ」
蝶を意味する、中東のことばだ。
熊にくまと名をつけるようなものだが、響きが良いので気に入っていた。もちろん、蝶妖精でなければつけるつもりはなかった。他にも蜂妖精や蠅妖精などになった場合の各種候補は存在しているが、セレンはどれも候補どまりに済んで安堵している。
身体を半分だけこちらに向けて、セレンの蝶妖精は小首を傾げた。垂れ目なので、とても困っているように見える。
手を差し出せば、軽く羽ばたいてその上に乗った。蝶が乗っているかのように微かな感触が手にあるだけで、重さは殆ど感じない。
ゆっくりとその手を自分のほうへ引く。それでもファラーシャはよろけそうになり、セレンの指先に捕まっていた。
「ちょっとシオンといっしょに少し離れて、こっちに背中向けて耳塞いでてくれないか」
「――え?」
「何だよ、それ」
か細い声音が疑問を抱き、不満の声は思ったよりもすぐそばで上がった。
セレンはテディベアへと身を傾け、ファラーシャをそのやわらかな毛並みの上へと促す。
「長と内緒話がしたいだけだよ」
そう告げると、テディベアがみるみるうちに表情を曇らせていく。慌ててセレンは付け加えた。
「どこにも行かないから。少しだけ、な。頼むよ」
この期に及んで置いて行かれるとでも思ったのか、否定することばにシオンはようやく表情を緩めた。その丸い耳を、ファラーシャが引く。
「セレンのお願い、だって」
「わかってるよ! ……ホントに、どっか行ったりしたらダメなんだからね!」
念押しして、シオンは数歩だけ妖精の遊び場へと歩み寄り、その場に座り込む。そして、頭に手をやり、小さな耳を塞いだ。その耳と耳のあいだで、ファラーシャもセレンに背を向けて座り、同じく耳を塞ぐ。
あの程度では聞こえるかもしれない。
セレンが、さて、どうするべきかと長へと向き直った時だった。
周囲に蔓草が壁を築いていく。ふたりだけの東屋のように。
形としてはペットボトルに似た、巨大なものだ。
「気休めだけどね」
木妖精の声が、聞こえた。その場に、長が四つ足で座り込む。おかげで高さがそれほど必要なくなり、最後に天頂部までしっかりと木妖精は閉ざしてくれた。
「何を問う、我が子の契約者よ」
厳かな口調で、森の長は尋ねた。
シオンの本性を間近に見ていても身が竦むのだが、それよりも大きく傷だらけの熊妖精の姿は、迫力がまた違う。
そこに許容は感じなかった。
ただ、「してやられた」という響きだけが、声からは聞こえてくる。
今、セレンは丸腰だ。その辺にクレイモアが転がっているのだろうが、当然そこへ手を伸ばすつもりはない。むしろ、彼が提案したいことは真逆にあった。
「あんたの、怒りは薄れたか?」
「――何だと?」
人間に、どちらかというと、契約者に対する、深い怒り。
その理由を、セレンは訊く気がなかった。訊きたいのは、契約者である自分を殺して、彼女の気が晴れるのかどうかだ。
「俺を殺したかったんだろう? 殺せて満足か?」
「抜け抜けと……妖精の遊び場ですぐに生き返ったではないか」
「それはまあそうだけど、仕方ないだろ。それは仕様なんだからさ」
今なら、少しは長の気持ちを受け止められる気がした。
セレンは手を差し出す。
正直、怖くはなかった。衝撃は走るものの、特段、痛みはない。先ほど死を体感していて何が怖かったと言えば、あのふたりと離れてしまうことが何よりも怖かった。だから、他に何も、今この身体に守るべき命はない。
大切なものは、そこにある。
「契約者に恨みがあるなら、俺にしてくれ。シオンを傷つけるな。あんただって、我が子を傷つける趣味はないんだろ?」
「……何が言いたい?」
一段と低くなった声音は、既にセレンのことばの意味を悟っているようだった。
それでも、セレンははっきりと言う。
「契約者を殺して気が楽になるなら、何度でも殺せ。ここなら妖精の遊び場で生き返るし、俺なら別に構わない」
レベル十までなら、何度死に戻りをしようとも、デス・ペナルティはない。しかし、レベル十一以上になると、死に戻るたびにデス・ペナルティを受ける。
それは、レベルがひとつ下がるというだけだ。アイテムや金銭を失うわけではない。
セレンの種族レベルは、今、十九にまで上がっている。先ほどひとつ下がったはずなのだが、システムはレベルアップを告げていた。どちらにせよ、幾度殺されようとも、レベルは十で止まる。
いいサンドバッグだと。
我ながら良い提案をしていると考えたセレンだったが、長は低く唸った。
「愚かな。そんなことに何の意味がある」
「え? それ、あんたが言うのかよ。シオンを傷つけて何の意味があったんだ? 本当に、ただ傷つけたかっただけか?」
途端、セレンの身体は蔓草の壁に叩きつけられた。
全快していた数値が、赤に染まる。背中や腰を突き抜けるような感覚があったが、「あたった」というだけだ。やはり痛みはない。だからこそ、セレンは息を吐くだけで、頭を上げることができた。
「殴れば気が済むか? そのツメで刺してもかまわないぞ。って、食われたらどうなるんだろうな……」
首筋を撫でると、少し熱を持っていた。
ややぐらぐらする視界に、燃えるようなまなざしでこちらを睨む熊妖精が映る。
「ま、いいや。何でもどうぞ。好きにしな」
自己犠牲、とは少し違う。
確かに、レベルを削ぐデス・ペナルティは、本来であれば脅威だろう。全力で回避すべき事項に違いない。実際、シオンもファラーシャも、あれほど心を砕いて助けようとしてくれたのだ。
だが、セレンにとって、パラミシアは攻略対象ではない。
たった二日でここまでレベルを上げられたと喜ぶよりも、セレンにはやりたいことがあった。
「おまえは、いったい何がしたいのだ」
その、森の長の問いかけは都合がよかった。
身体の感覚を取り戻すように、セレンは大きく伸びをしながら、答える。
「シオンやファラーシャと、のんびりできたらそれでいいよ」
この上もない、本心だった。
そこに、恨みも憎しみも嫌悪も、あってほしくないだけだ。
だって、そんな癒し、ありえない。
あのふたりが、さっきみたいに笑い合ってくれていたら。
もうそれだけで、セレンにとってはこのゲームをクリアしたのも同然だった。
長が飽きるまで殺し尽くせば、「もういい」となるのではないか。
そうしたら、少なくとも、セレンに対しての怒りは呆れに変わり、シオンを試す必要もなくなるのではないか。
そんな甘い考えも含めたセレンの提案を聞き――誰もが、黙ってはいなかった。
狭い東屋をつんざくように、長の咆哮が響き渡る。
ほどけるように蔓草は緩み、視界が広がった。ふたりだけだった世界が、いきなり開かれる。
泣き声が聞こえた。蝶妖精のものだ。
心を押し殺すような声が聞こえた。熊妖精のものだ。
「――ふっ、うっ、ひぃ……くっ……」
「それ以上、セレンに手を掛けるなら――もうウルスには戻らないから」
その二つに、セレンは血相を変えて振り向いた。




