目覚めと癒し
期待が胸を占める。セレンの視線が虹色に包まれた蛹へと釘付けになった。その無防備な背中を……赤い筋が走った体を、更に灰色の熊のツメが抉る。
強く叩かれた衝撃が走り、次いでHPバーが黒に染まった。
セレンの瞳から色が失われ。
シオンの哀しみが、森を裂くような咆哮となって響いた。
その中で。
虹色の光を湛えたまま、妖精の遊び場に転がった青虫妖精の蛹がひび割れていく。小さな小さな羽化の音は、ウルスを揺るがした咆哮によって掻き消された。
身体が、地面に倒れる。顎を強打したはずだが、痛みはやはりない。まったく動かない全身に驚く。
これが、死か、と。セレンはクリーク・オンラインとは違う仕様を意識した。
開かれたままの眼は、周囲の状況を固定されたまま映す。見たいものは見えない。あの虹色の蛹はどうなったのか。青虫妖精はと心は求めても、何も、できない。
羽化しているのだろうか。どれくらいの時間がかかるのか。本当は見守ってやりたかったのに。
視界の端では、妖精の遊び場への帰還までのカウント・ダウンが開始している。死に戻り、と言うべきか。
シオンの号哭が聞こえる。ごめん、と口に出したつもりでも、それは音にも、吐息すらにもならなかった。なおも戦っているのか、何かが裂ける音やぶつかる音も響く。音は聞こえるのに、もう大地を揺らすような衝撃は届かない。
――とりあえず、スタート地点に戻って……まずい、クレイモアもナシか。きついなあ。北の森に行けば、シオンにまた会えるはずだ。そのころには、青虫妖精も羽化しきっているかも……。
セレンは混乱していた。ただ、思考は建設的な方向へ流れていく。今後の自身の行動を考えることで、失われたものを必死で考えまいとしていた。
また、やり直せる。
そう思い込もうとしても、浮かぶのは強い後悔だった。
心に刻まれた叫びが、あの小さなぬくもりが、同じことばをセレンに繰り返させる。
――ごめん。
カウントダウンの時間が過ぎていく。そのさなかに、まだ戦闘は続いているようだった。ステータスバーは変わらず表示されており、シオンのHPバーは削られていく一方だ。
失われた命を嘆くシオンを、何故これ以上傷つけなければならないのかがわからない。自分さえいなくなれば、何も問題なかろうに。
「セレン……!」
まったく聞き覚えのない女の子の声音が、彼を呼んだ。
疑問と、暗く淀んだ思考を打ち破るように、グレーダウンされていた表示が蘇る。青虫妖精のままだった名が明滅し、HPやMPの数値が切り替わる。意識に書き込まれるのは、彼女の情報だった。
ウィンドウが、開いた。アナウンスが流れていく。
『青虫妖精が羽化しました。蝶妖精(青)の名前を決めて下さい』
「セレン、セレン……っ」
浮かび上がったキーボード表示の向こうに、燐光が散る。漆黒の羽に淡い青の光を灯した……小さな、小さな女の子が両手を広げていた。その勢いのまま、彼女はセレンの顔へと飛びつく。
視界いっぱいに広がる闇色の羽と、銀色の髪の少女。羽に宿る光と同じ紺碧の双眸から涙をこぼしながら、蝶妖精はすがりつく。
繰り返される自身の名に、セレンは呆然としていた。
「シオン、セレンを妖精の遊び場へ……!」
愛らしい声音は涙交じりに、熊妖精へ訴える。途端、背後で新たなる衝撃音が響いた。次いで、身体が浮き上がる。くっついたままの蝶妖精は、その勢いに身を躍らせていた。必死に前髪を握っている。ひらひらと、その華奢な身体が舞う。今にも落っこちそうだ。
セレンの身体に感覚はない。
まったく力も入らない。
それを軽々と運ぼうとしているのは、他ならぬシオンだ。視界が上下に揺れたと思えば、すぐさま動きは停まった。
もういいから、という訴えは届かない。
シオンのHPはもう橙に染まっている。NPCである熊妖精には、痛覚もある。それでも咆哮が、その体躯が、セレンを少しでも前へと連れ出そうとする。虹色まで、あと少し。
だが、すぐにシオンの身体は頽れた。投げ出されたセレンは、その姿を見ることができなかった。閉ざされない瞳は、一瞬、広場の様子を映す。両手を握り締めた木妖精がいた気がする。地に墜ちたセレンと同じく、蝶妖精も投げ出された。小さな身体が這うように動き、弱弱しく羽が震える。それが勢いよく広がったかと思えば、彼女は飛び上がった。
セレンの指を掴み、必死で引っ張ろうとしている。
妖精の遊び場に、その手がわずかでも触れるように。
体格が違いすぎる。目視でもスマートフォンより小さな身体だ。
転がるセレンの腕は身体に沿うように転がっており、彼女の体重よりも遥かに重いそれは、動かない。
その時、セレンの身体が、草地から跳ね飛ばされた。どのようにしてかは、わからない。草地の土を削るように、身体が動いた。視界に、虹色の煌きが広がる。
「セレン……!」
カウントダウン表示が、消えた。身体の一部が、妖精の遊び場に触れたのだ。死に戻りが確定し、デス・ペナルティとしてレベルが一つ下がる。
それでも、生き返っている。
黒かったHPバーが、僅かに赤へと戻る。セレンは身を捩った。手の甲で、顔を拭う。土がぼろぼろと落ちた。
「――ふぅ……っ……」
吐息が、漏れた。すぐさま起き上がりたいのだが、いろいろと衝撃が強すぎたためか、一拍の猶予が必要だった。まずは、ありったけのHP回復薬をシオンへ使う。これは視線だけでも事足りた。橙にまで沈んでいた値が、黄色にほど近い色合いまで戻る。
次いで、セレンの指先が宙を舞う。
打ち込まれた名を確認し、キーボード表示のエンターキーを叩く。その手は重力のままに、大地に落ちた。
視界に、あの燐光が戻る。まっすぐにこちらへと飛んでくる蝶妖精を、セレンは呼んだ。
「ファラーシャ」
大当たりじゃん、マジかよ、やったぜ――!
感情はそんなふうに沸き立つものの、彼女の泣き顔を前にすると唇が歪むだけだった。緑色の、柔らかでふにふにしたものはもうどこにもなかった。花妖精とは異なり、四枚の羽を背に重ねた蝶妖精は投げ出されたセレンの手を軽く踏みつけ、その顔へと飛びつく。
小さな手が、頬に触れた。
そして、小さな唇が、薄汚れた肌に……落とされた。
――癒しの口づけが発動しました。
システムがスキルの発動を告げる。蝶妖精が有する回復術は、妖精の遊び場故に絶大なる効果を発揮した。瞬く間に赤から緑へと全快した値に、セレンは目を剥く。
「よかった……セレン……」
たれ目がちの紺碧の瞳から、またぽろぽろと雫が零れる。
くっついた身体は近すぎて、どう触れてよいのかもわからなかった。ぱたぱたと羽が動く度に、風が前髪を揺らす。
そこへ、彼女ほどではないが、小さな影が近づいてきた。
赤い筋をあちこちに散らしたまま、テディベアは短い腕を組み、こちらを見下ろす。何となくその頬が不満げに膨らんでいるように見えた。
「何で、シオンに全部使っちゃうんだよ!?」
「いや、まあ、あんまり回復できてないな……」
「シオンも回復してあげる!」
軽やかに舞い上がり、蝶妖精は熊妖精の頬へと同じように唇を落とした。途端、ふにゃあとシオンの表情がやわらぐ。同じように、HPもまた回復していた。赤い筋も、消え失せる。妖精の遊び場から離れているためか、ファラーシャのMPもまた大幅に減少していた。
「これでだいじょうぶ!」
「うん、ありがとう。ファラーシャ」
熊妖精の肩に、蝶妖精が乗る。
夢のような光景に、セレンは身を起こしたまま、しばし見惚れていた。
その身体に、軽い地響きが伝わる。
夢から覚めたようにセレンはそちらを向く。
一歩強く踏み出したらしき灰色の熊はかなり間近に迫り、二足歩行を行なってセレンたちを睥睨していた。