愚かな選択
蔓草が道を拓く。その向こうから、声の主は姿を現した。下生えの草を踏みしめ、その巨体を揺らしながら四つ足で歩く。木漏れ日に浮かび上がったそれは、灰色の、シオンよりも大きな熊だった。その身体には――遠目から見えるほど、白い傷跡が複数あった。
シオンの巨体が、僅かに引けたのをセレンは見た。木妖精から契約者を守ろうとする熊妖精の意志が、赤いハートによって揺らぎを示す。
だが、灰色の熊は、木妖精の領域に足を踏み入れたのみで、それ以上前には進まなかった。シオンと同じ黒のまなざしが、木妖精へと向く。
「騒がせたな」
「――いえ」
すっかり蔓草を片づけ、木妖精の少女もまた腰が引けているように見えた。胸元に引いた細く小さな手が、つい先ほどまで自分の身体を締め上げていたとはとても思えないほどだ。
「グルゥ……」
シオンが唸る。それは呼びかけだったのだろう。灰色の熊はこちらへと頭部を巡らす。話と状況から察するに、森の長そのものではないかと考えた途端、相手が自発的に答えをくれた。合わせて、灰色の熊の頭上に『森の長』と表示される。
「風が知らせてくれたのだ、我が子よ。そなたの愚かさも、そなたの契約者のことも、すべて」
再度、シオンが唸る。同じ熊妖精でも、年季が違えば会話ができたりできなかったりするようだ。明るい親子の会話ならば割って入る必要もないが、セレンは黙っていられなかった。
「シオンは賢いと思う」
例え親だと知っていても、自身の妖精の悪口を言われれば不満が募る。
セレンの主張は無視されなかった。しわがれた声ながらも愉快そうな口調で、森の長たる熊妖精は言う。
「知識がどれほどあろうとも、選択が貧しければ愚かと言わざるを得まい。それは賢さとは程遠いところにある」
その物言いに、セレンは溜息を吐いた。
どうなってるんだ、この森は。
「とことん嫌われてることはよくわかった。もういい」
苛立ちのまま、セレンは言い放つ。
森の長は目を細め、シオンは振り向いた。その巨躯を見上げ、クレイモアを片手に持ち、空いた手で硬い毛並みに触れる。
「出よう」
その促しに、シオンのハートに斜線が入る。絶望でも感じているように思えて、セレンはかぶりを横に振った。そして、今一度服越しに蛹に触れる。
「羽化をあきらめたわけじゃないよ。他にも妖精の遊び場はあるだろ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるかもしれない。弱いところをたくさん回っていけばいいさ。早く早くって思ってたから、ここに来ただけだし」
ガメリオンのクエストは失敗扱いになるだろう。
それでも、どちらも自分の妖精であることに変わりはない。
「シオンがこんなふうに言われてまで、ここにこだわる必要はないんだよ」
巨大な熊妖精に、問いかけを続けようとして、少しセレンは躊躇った。だが、言わなければどこにも進めない。
「――それとも、愚かな選択、なかったことにするか?」
魔物から妖精化した場合、一度、契約さえ終えてしまえば、契約を維持したまま別れることも、契約を書き換えて別れることもできる。クエスト上での都合だろうが、互いの合意があれば可能なのだ。
シオンは身動きひとつしなかった。
「聡明だな、人の子よ。己の命を大切にするのは、とても良いことだ」
「命惜しさに言ってるつもりはないけど? あんた、シオンの親なら性格知ってるんじゃないのかよ」
シオンは、青虫妖精を大切にする自分をバカにしたりしなかった。
一度は背を向けたにも関わらず、わざわざこちらを探し出して、傍に来てくれた。
多くの知識を、ひとつも惜しむことなくセレンに伝えようとした。
おそらく。
嫌われるのが怖くて、それでも守りたくて、今の姿を晒して助けてくれたこともあった……。
すべては、セレンのためだ。
もう、比べられない。
視界で、その巨体がぼやける。触れていた場所から手を離せば、やわらかな肉球が逃がすまいとでもいうように掴んできた。その小さな手に、セレンは唇を噛む。
「シオンは、セレンのだよ。……セレンだって、シオンの契約者なのに、性格わかってないじゃん」
その弱弱しい声音に、ごめん、としか言えなかった。
「その通りだ。契約者を得た以上、そなたの心はもはや、そなたのものではない。取り戻すには生半可な覚悟では足りぬ」
「取り戻す気はないよ。シオンはセレンと行くんだからねっ」
テディベアは、もう片方の手も握ったセレンの手へと重ねる。しっとりとした感触に、声音ほどの覚悟を知る。
「愚かだろうがなんだろうが、シオンは選んだんだよ。だから、セレンの行きたいところに行くんだ。
妖精の遊び場まで通してよ。あれは別に、母さんだけのものじゃないんだし」
「無論。そなただけのものでもないがな」
「うん、だから……行ってもいいよね。シオンは森の子なんだから」
そのことばに、セレンは目を剥いた。
北の森の妖精の遊び場へたどり着くために、その森に棲まう者の協力が要る。
シオンのことばはその事実を端的に示していた。
「そのために、来てくれたのか?」
「あー……ううん、何て言えばいいのかなあ」
クエストの鍵となるために、妖精になってまで導いたのかと問えば、テディベアは握った手をぶんぶんと振り、すぐさまその動きを止め、セレンを見上げた。
「――妖精の遊び場だけじゃないよ。
どこへでも、セレンといっしょなら行ってみたいんだ。青虫妖精の羽化だって見たいし。
ホントだよ?」
凶悪なまでに愛らしいテディベアは、ことばに迷いながらもそう告げた。
とりあえず抱きしめたいんだが、いいだろうか。
しかし、その時。
セレンの苦悩を嘲笑うように、森の長が咆哮を上げる。
鼓膜と腹の底が揺れる感触に顔をしかめ、セレンは灰色の熊を睨んだ。その視線を解することなく、彼女は踵を返す。
「よかろう。ここでは障りがある。付いて参れ」
「長!?」
「我が友よ、そなたもこの喜劇の終焉を見たければ、来るがいい」
握られた手に、力が篭る。
何を言われようが親は親だ。対峙し歯向かい、何の感情も抱かないというわけにはいかないだろう。まして、これほどまでに心を砕ける熊妖精であれば、なおのことだ。
同じくらいの力を返して、セレンは呟いた。
「だいじょうぶだよ。ほら、ちゃんと喜劇の終焉にしようぜ」
小さい茶色の頭が、ひとつ、頷いた。