誰かを傷つけるために、ここに来たわけじゃない
ふわふわしていたテディベアが、本物の熊に早変わりした。
これがあるべき姿だとシステムは示し、セレンはその驚愕のままに……抗っていたはずの身体から力を抜いてしまい、一気に木妖精の間近まで引き付けられる。何とかクレイモアは落とさずに済んでいたが、勢いを殺すことはできなかった。麗しい木妖精の表情は鬼のように険しく、その蔓草を手繰り寄せている。
再度、咆哮がセレンの身体をも震わせた。腹にまで響く低音が近づく。
そして。
熱い吐息が首筋に触れ、次いで身体が持ち上げられた。一瞬、ピンと張った蔓草に身体を締め上げられ、呼吸すら止まる。だが、鋭い爪が視界で翻り、それらすべてを切断した。蔓草が緩み、喉へと空気が入る感触に咳き込んでしまう。
潤んだ視界に、あの茶色の色合いが映る。黒々としたツメと肉球のてのひらは、僅かにセレンの顔に伸ばされたものの、結局身体を支えるために触れるのみだった。背後から聞こえる喉を鳴らす音は、やはり恐怖を呼ぶものでしかない。苦しさの中で、それでもセレンは自身の身体のこわばりを解こうとした。
「――シオン」
グルゥ、と獣の唸り声が響く。
この姿では、話ができないのだろう。
左手をその毛並みに触れさせる。指先には期待したような柔らかさはなく、それは硬く、ごわごわとした感触だった。
それでも、シオンなのだ。
セレンは覚悟を決めて、熊を振り仰いだ。
動物園でしか見たことのない、むしろ道端では決して出会ってはいけない獣……熊そのものの姿を視界に入れ、息を呑む。巨大な顎は目の前にあり、容易く自身の頭を噛み砕けるのではと思われた。本能的な恐怖から暴れたくなるが、繰り返し繰り返し「シオンだシオン」と自分に言い聞かせて耐える。
顎から、更に視線を上向かせていく。
すると、一気に身体から力が抜けた。何もかも大丈夫だと思わせてくれたのは――シオンの黒いまなざしと、そして、色鮮やかな赤のハートだった。
その目も、赤いハートも心配げに揺れており、それは小さい姿のシオンと何ら変わりがなかったのである。
「サンキュ、助かった」
きっと、笑うことまではできず、ただ口元を歪ませただけだったろうに。
それでも、熊妖精は確かに目を輝かせていた。同じように、赤いハートが一際派手に点滅する。硬い毛並みに頭を寄せると、シオンもまた鼻先をくっつけてきた。セレンは根性で避けなかった。
「――自分の妖精が『何』なのかもわからないまま、連れ歩いてたの?」
呆れ返った声に、視線を向ける。
腰に両手を当てて、木妖精は深々と溜息を吐いた。
「信じられないわ。熊妖精は森の獣王ともいうべき存在なのよ」
「ちっちゃかったし、可愛くてわからなかったんだよ」
博識とステータスの強さに関しては、獣王と呼ぶにふさわしいものなのかもしれないが、ふわふわの毛並みも抱き上げた時の軽さも、その呼称からは程遠いものだった。
今の、三メートルほどありそうな体格を見れば、その理屈は道理である。解除の影響か、ステータスもほぼ倍に膨れ上がっているようだ。
その数値越しに木妖精を睨んでいたのだが、不意に首筋から頭部を生暖かい感触が通り過ぎていく。
「ひあっ!?」
舐められた、とわかったのは、首筋に湿気が残ったからだ。
まさか契約者を食べるとは思いたくないが、単に犬のように甘噛みされるだけでも、そのまま頭まで砕けそうだ。
振り向くと、やはり頭上には赤のハートが大きく明滅している。機嫌のよさは分かるのだが、やはり心臓によくない。
その、シオンの口元が引き結ばれ、次いでセレンの身体もようやく地面に下ろされた。手足には今もなお蔦の切れ端が巻かれているが、腹部にはそれもなく、ぽこんとしたでっぱりは無傷のままだった。ようやく青虫妖精の身の安全も確認でき、セレンは改めてクレイモアを構え直す。
しかし、巨大な熊妖精(陽)は重々しい足取りで、セレンを庇うようにその前へと出ていく。
熊妖精は吠えた。
威嚇だろうか。いくら相手に向けてのものだとわかっていても、セレンの身体にもまた震えが走ってしまう。後ろにいてもこの威力だ。正面から受け止める木妖精の胆力に、セレンは内心喝采を贈った。
木妖精は鋭いまなざしでシオンと対峙し、口を開く。
「花妖精じゃあるまいし、頭の中に花を咲かせているのかと思っていたけど……木妖精を敵に回しても進むというのなら、仕方がないわね」
シオンからセレンへと視線をずらし、後半のことばを続けたのは、明らかに意図があってのことだろう。その程度のことは、セレンにもわかる。
「誰を傷つけたいわけでもないんだよ」
だからこそ、もう一度、セレンは同じ内容のことばを繰り返す。
虎の威を借る狐だが、今なら届く気がした。
クレイモアを鞘に戻し、懐から青虫妖精の蛹を取り出す。
両手でしっかりと握りしめ、再び木妖精を見る。目を剥く、ということばにふさわしいほど、その表情は驚きに彩られていた。
「これが、俺の事情だ。
――青虫妖精を羽化させたい。だから、通してくれ」
木妖精は、ゆるゆるとかぶりを横に振った。
信じられないと訴える動作に、セレンはあっさりとあきらめる。ダメでもともとだったのだ。誰もが青虫妖精のためにここまで来たと言えば驚く現状に、溜息が漏れる。それだけ、ひどい扱いを受けているのだとわかると……より一層虚しさが増した。
それでも、セレンは懐に蛹を片づけ、クレイモアの柄に手を掛ける。
「もうよい。我が友よ」
厳かな声音は……間道の奥から、響いた。