他の誰かじゃなくて
それは、羚羊の小さいものに見えた。やわらかな草を食む様子に、心が和む。しかし、地図上のアイコンは赤く、それが敵だと示していた。
――どうやったら『妖精』になるんだろうな。
青虫妖精は、気がつけば緑のアイコンに変わっていた。おそらく、最初の蜘蛛との戦いの影響だとは思うが、そうそう魔物が魔物に襲われている光景など、見られるはずもない。
そう考えて、思い至った。
あのテディベアは、魔物に襲われていた。それで、ピンクのハートを出していたのだ。状況的にも魔物に襲われる魔物が妖精になりやすいのでは、とセレンは考えた。
何かに襲われてはくれないだろうか。
まともに考えて、襲われるまで待って、攻撃を受けそうな段階で助けても、絆が深まるとは思えないのだが……フラグにはなるだろう。
セレンは息をひそめて、その灌木の陰に隠れた。あれほどいとけない様なのだ。すぐに何者かがひっかかる。そう思っていると。
びくり、とその身が震えた。
小さめの羚羊は、何故かセレンを目視し、すぐさま逃げ出したのである。小さな身体は、瞬く間に米粒よりも小さくなるほど遠ざかっていった。
セレンは呆然と眺め――広げたままになっていた地図に、緑のアイコンが輝いていることに気付く。
後ろだ。
振り返れば……先ほど思い返していた、あのテディベアが両手をもじもじさせながら立っていた。
「えっ、と、その、こ、こんにちは!」
もこもこの茶色に、丸い頭、丸い耳。
丸くて黒い目は少し周囲をさまよい、セレンへと向けられた。よっ!と上げられた手の黒い肉球と、その間近に輝くピンクのハートが眩しい。
「こ、こんにちは……?」
まるで小さい子どもにあいさつされたかのように、ついセレンも同じように返してしまった。
確か……初めて会ったのはもっと南西のガメリオン側である。
あいさつができるテディベアだが、中に人は入っていないと思われた。大きなお友達が入るには小さすぎる身体な上に、その目がきらきらと太陽に煌いているからだ。
「こんなところで会えるなんて、思わなかったよ!」
やけに大きな声で再会をおそらく喜ばれた。話ができなかった青虫妖精とはまったく違う。青虫妖精とついつい比べてしまう自身に苦笑しながら、セレンは思い出した。助けたあとにも、このテディベアは何か言っていたような気がする。しかし、正直それどころではなかったので覚えていない。
よって、素直に頷いた。
「ああ、そうだな。で、もう傷はだいじょうぶなのか?」
自分の背中のほうを指して問えば、テディベアは不満げに顎を突き出した。人間風に言えば、唇を尖らせているのだろうか。
「あんなの、すぐに治ったよ! ほらっ」
そして、踵だけでくるりとターンし、丸いしっぽのついたお尻を見せてくる。なるほど、赤い線はない。熊のお尻をつきつけられるという奇妙な状況に、セレンはぴょこっと動くしっぽが気になって、つい手が出た。座っているので、ちょうど手が届くのだ。
「ぅひゃあっ」
「ふわふわ……」
何だかすごく懐かしい。ああ、小さいころに持っていた熊のぬいぐるみもこんな感じだったっけ。いろいろついてたのを全部引っこ抜いたせいで捨てられたんだけど。
セレンがしっぽの感触を堪能していると、そのしっぽがぷるぷると震え始めた。
マズイ。
あわてて手を離し、立ち上がる。
「え、えーっと、じゃあな」
小さなテディベアに短く別れを告げ……ようとしたのだが、何故か、脚衣の端を捕まれた。
「まっ、待ってよ!」
見下ろした先には、点滅するピンクのハートと縋りつく黒い瞳があった。セレンは頭を掻く。
そうか、もうこれも妖精になりかかっているのかと、もう一度視線を合わせるために身を屈めた。
戦闘を支援してくれる妖精は、正直すぐにでも欲しい。
だが、生息地域が違いすぎる。北の森側と、ガメリオンの西側では、推奨レベルにも二十五ほどの違いがあるのだ。テディベアは、偶然このあたりに来たような素振りを見せているが、実際には違うだろう。妖精化しつつあるために、セレンを追って来たのだ。
――危険な場所にもかかわらず。
「ここは危ないから、元の場所に帰ったほうがいい」
「元の?」
「ほら、あっちの草地だろ?」
ガメリオンの西側に戻るには、北からでもぐるっと街壁の外を巡れば行ける。このテディベアも同じ道筋を辿ったはずだが、不思議そうに小首を傾げられた。
「……あっちには、蜂蜜を探しに行ってたんだ。ちょうどいいウロがあったから、ないかなって覗き込んだらあんなことになっちゃって」
「あ、ああ、そうだったのか」
とにかく少しでも過ごしやすい場所に戻ればいいんじゃないかと思うのだが、ニュアンスが伝わっていないようだ。テディベアのお出掛け裏事情を知り、やっぱり熊は蜂蜜が好きなのかと納得する。
「まあ、助かってよかったよ」
「アンタのおかげだよ!」
面と向かって言われると照れる。
しかし、実際はセレンもまた、助けられたほうなのだ。
その手が、ふと胸元へ向かう。ぽこんと飛び出た個所が異様だが、もう馴れた。
応えるでもなく黙ったセレンを、テディベアは見上げている。そのしぐさも、何もかも。
「何? おでき?」
「違うよ」
まさかの問いかけに、思わず笑いがこみあげる。
口で言うよりも、見せたほうが早いかと、セレンは蛹を取り出した。茶色の塊を、テディベアは知っていた。
「蛹……青虫妖精だね?」
「そう。こいつを羽化させたいんだ。で、北の森に行くところ。すっごく危ないから、ついてくるんじゃないぞ」
そして胸元に戻しながら言えば、その黒い瞳が何故かうれしそうに笑みを象る。おもしろそうに、テディベアは確認した。
「――危ないのに、行くんだ?」
「他に早く羽化させる方法がないんだよ」
「蛹になった青虫妖精なんて、みんな盾にしちゃうんだけどな」
「はあ!?」
茶色に変色した蛹は、とても硬い。よって、金稼ぎがてらガメリオンの周囲で狩る契約者の中には、たまたま契約できた青虫妖精を蛹になった途端、盾代わりにしたり、石代わりに投げつけたりするそうだ。その光景を見てきたと語るテディベアの口調は明るいが、目の表情は――暗い。
セレンは絶句した。
ガチャ性の高い青虫妖精だからこそ、扱いがひどいのかもしれない。苦労して羽化させて蠅だったら――セレンもまた、その怖さを乗り越えるべく、散々己に言い聞かせた。蠅でも何でも、あの青虫妖精だから。そうなった時は蠅使いを極めてやってもいいかもしれないと思う程度には、覚悟は決めた。
「――ありえねー……」
深々と、セレンは溜息をつく。
そして、テディベアの頭へと手を乗せた。ふわふわとした感触に、癒される。
「他のやつが何してようが、俺は行くって決めてんの。だから、ここで……」
もう、この毛並みが傷つかないように。
そう思いながら別れを告げようとした時、ピンクのハートが、真紅に染まった。
真っ黒の肉球のついた手が、撫でていたセレンの手を掴む。
「うん、ここで契約しよう」
『熊妖精があなたに心を寄せています。あなたの妖精になりたいようですが、妖精契約を行ないますか? はい いいえ』
開かれたウィンドウに、セレンの目が大きく見開かれた。




