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プロローグ


 雨の音が聞こえる。透き通るような青空を厚い雲に閉ざされた世界。それは、私の記憶に暗い影を落とす。

 キィ、キィ、キィ。椅子の背もたれが、私が揺れるたびに耳障りな音を立てる。


〔先に行っていて。大丈夫、すぐに追いつくから〕


 今も鮮明に思い出す言葉。優しくて、残酷な嘘。それを私に吐いた彼は、今も私に追いつかない。


「……うそつき」


 思い出すと、つい口に出てしまう彼を詰る言葉。でも、仕方ないでしょう? 彼は戻らなかった。私の元に、追いついてはくれなかった。

 あのときの私は、この記憶を思い出せなかった。戻らなかった彼に心を砕かれて、記憶が混乱していたんだろう。思い出してしまってからは、馬鹿みたいに泣いた。わんわん、わんわん、と大声を上げて。そんな私に困った顔をしたのは、両親で。傍らには、幼馴染の女の子がもらい泣きしていた。

 私は元々あまり笑わない子どもだった。けれど、その記憶が甦ってから輪をかけて感情を置き去りにしてしまった。

 私は目を瞑る。

 雨の音が、耳の奥底にこびりついて離れない。



 小さい頃だった。年の瀬は、確か十歳くらいだっただろう。

 あの日は大降りの雨が街を覆っていて、私はそれなりに仲良く(・・・)していたクラスの子と一緒に“お化け屋敷”に来ていた。いつも行動をともにしていた幼馴染の女の子は、幽霊と遭遇するのは嫌だと涙混じりに訴えてきていたのでその日は別行動をしていた。

 でも、それでよかった。あんな目に遭うのは、子どもじゃなくてもキツイものがある。彼がいなければ、私はきっとここにいられなかっただろう。


 ――郊外の捨て置かれた洋風の屋敷。そこが、私たちの言う“お化け屋敷”だった。


 なんてことない噂話が付きまとうその場所。そこに行ったら帰れない、なんて。よくある話でしょう? そう言って笑うクラスメイトに、私は笑みにもならない引き攣った表情を浮かべていた。

 屋敷に向かうまでの道のり。私は一人のクラスメイトに掴まれた腕に不快感を隠せず、それでも逃げることは叶わずに雨でぬかるんで歩きにくい道を進んでいた。

 そうしてたどり着いた屋敷は想像よりも大きくて。誰かの私有地だとしても、それは管理がされていないとわかるほどに朽ち果てた出で立ちをしていた。

 そのおどろおどろしい屋敷に、臆病風に吹かれたのは何も私だけではなかった。口々に帰ろうと囀り始めた私たちを止めたのは、ここに来ることを提案した――私の腕を掴んで離さなかった男の子。

 その男の子が嗤って言った。


〔これを返してほしければ、この屋敷にあると言われている本を取って来いよ〕

〔ちゃんと取って来れるように、お前が持ってるもの預かってやる〕


 そうして私は、彼に言われるがまま動くクラスメイトたちに拘束され、雨を凌いでいた傘を奪われ、勉強道具を入れたリュックを奪われ、身に纏っていた服を奪われて、屋敷の中に閉じ込められた。雨に打たれた体が、寒い寒いと叫び始める。

 ――あのときの私は、涙も出なかった。何故なら、その仕打ちは今に始まったことではなかったから。

 ただ、どんなにノブを捻ろうとも開かない扉に、八つ当たり気味に蹴りつけたのは、涙の代わりに感情を吐き出そうとした私なりの行動だったんだろう。げらげらと下品な笑い声が、雨音に紛れて耳に届いたとき歯軋りをした。

 真っ暗な屋敷に一人閉じ込められた私。ここに幼馴染がいなくてよかったと、何気なく思ってふらりと歩き出す。憎いあいつが言う本がこの屋敷の何処かにあるかなんて知らない。それでも、たとえポーズでも探すという行為はしようと思った。

 隙を見て何処かから逃げ出し、今回の仕打ちを親に告げようとひそかに企てながら私は埃を被りかび臭い屋敷の中を彷徨い始める。

 そんなとき、雷鳴が轟く。そして、世界が真っ白になった。


 ハッとした。一瞬だけ視界を奪われ、そのまま意識まで手放していたようだった。目を丸くさせた私は辺りの様子を伺うように身を低くする。

 一見、何も変わっていないように思えた。薄暗い廊下。埃の被ったレッドカーペット。かび臭い、湿った空気。何もかも変わっていない。

 けれど、話し声が聞こえてきた。ぼそぼそと、小さかったけれど。

 その話し声に誘われるまま、なんとなく開けた扉の向こうには、彼ら(・・)がいた。



 ――私は思うんだ。いつも、いつも。

 あの仕打ちをしたあいつが世間から裁かれたって、望むんだ。


「追いつくって、言ったじゃん。私、待ってるんだよ……?」


 最後まで私の手を離さなかった彼が、その手で私の背中を押したあの日。

 あのぬくもりを、私が離さなかったら彼はここにいてくれただろうか。

 私を守り導いてくれた彼が、あの笑顔が、こんなにこびりついて剥がれないなんてこと、なかったはずなのに。

 閉じた瞼の向こうで、あのときみたいに世界が雷を受けて真っ白になって融けた。

 私の眦から、冷たい雫が落ちていく。



 懐中電灯の明かりが暗闇に慣れつつあった目につき刺さる。その明かりに照らされる顔を突き合わせて話し合う男三人、女二人。各々の雰囲気に合った服装の彼らは、扉を開けて入ってきた私に目を見開いた。それもそうだっただろう。私はキャミソールとパンツ一丁で、それでいて濡れているし、抵抗したときにできた怪我もあった。明らかに誰かに何かをされたような私の登場に、彼らは硬直してしまっていた。

 その硬直が真っ先に解けたのは、彼だった。慌てて駆け寄ってきて、彼が着ていたパーカーを私に着させてくれる。そして、その手が私の頬に触れた。


〔大丈夫ですか? いったい何が遭ったんですか?〕


 眉を下げ、私の目をまっすぐに見つめる彼の瞳が揺れる。優しい問いかけとじんわりと馴染んでくる彼の熱に、あんなに泣けなかった私の涙腺が勝手に緩んでしまった。

 私は、私の身に降りかかった出来事を包み隠さず話した。嗚咽交じりの訴えはとても聞きづらく、その雑音を避けて事情を把握するのは骨が折れただろう。なのに彼は嫌な顔ひとつ浮かべずに、穏やかに相槌を打ってくれた。


〔大丈夫ですよ。僕らでキミを出口まで連れて行きますから〕


 そう言って、私の頭を撫でてくれた彼は、その声で名前を教えてくれた。


〔僕は日代(ヒシロ) 七瀬(ナナセ)といいます。キミの名前を教えてくれますか?〕

〔私は円谷(ツブラヤ) 瑠奈(ルナ)


 まだ曇っていなかったその笑顔を、もう一度見たいと望むのは罪なのだろうか。

 だけど、それでもいい。

 彼があのとき着せてくれたパーカーの袖を口元に押し付けて目を強く瞑る。


〔よろしくね、ルナちゃん〕


 今度こそ。




「あなたを守れるなら、“私”が消えてもいい」




 目を開ければ、たくさんの血を吸ったカーペットが、雷を受けてその姿を露わにする。それはツンとした臭いを漂わせていて、相変わらず私を不快にさせた。

 椅子から降りて、私は立ち上がる。

 すべての始まりの場所を、今度こそ終わりの場所にするために。


「――」


 雷が嘶く。

 あの日みたいに、私の視界と意識をまた奪った――。

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