2話:“隻眼”の人狼
「それで、わたくしに相談、というわけでございますね。隊長」
切り株に腰かけた俺に、マルグリットは水筒を差し出して来る。本当に気が利く娘だ。水筒の中身は薄めた珈琲、砂糖の量を少なくして飲みやすくしてあるものだ。冬の入りとはいえ今日は比較的気温が高い。天蓋が所々砕かれ陽光が差し込んだ黒森だから、尚更暖かく感じるのかもしれない。そんな日に黒森の中を歩き回ったあととなれば、こういった薄めた冷たい珈琲がちょうどいい。
本日の任務は赤衣隊のみの行動となる。その内容は黒森の中の定期巡回及び、天蓋の部分破壊だ。黒森の伐採に関する工程には三段階ある。まず、天蓋を破壊して少しでも黒森の中に陽の光を入れる事によって、人狼の活動範囲を抑制する第一段階。天蓋を破壊して陽を入れたのち、黒森内の木をまばらに伐っていき木々の感覚を空けて陽の入る領域をさらに拡張するのが第二段階。そうして人狼の活動しにくい環境を作ったのち、森の入り口から徐々に伐採してゆくのが三段階目だ。
第一段階の天蓋の破壊は黒森に入り込み、かつ高所での作業でもあるので、伐採班や伐採業者には任せなれない。人狼の群れや斥候が襲撃してきたとき、すぐに動けないからだ。そういった緊急時に迅速に活動するため、この第一段階の任務は赤衣隊が引き受ける事が習わしとなっているのだ。
今はその休憩中。俺はハンナと交代して補給係のマルグリットのところにやって来ていた。遠くの樹の上ではクラリッサが「伐採ですのー」と嬉しそうに叫びながら、天蓋の枝葉をハチェットで落として回っている。樹から樹へと飛び回り作業を続けるクラリッサの後を、ハンナとリーゼロッテが地図を持って付いてゆく。その地図には黒森の木々配置と、天蓋を落として光を入れる区画が記しづけられているはずだ。
遠くにいるリーゼロッテと眼が合うが、すぐに逸らされてしまった。その様子を見ていたマルグリットが「あらあら」と呆れたように微笑んでいる。
あの朝の一件以来、リーゼロッテとの間に距離ができてしまっていた。といっても、日常会話や任務での指示で彼女と話す機会は多々ある。最前線に新しい人狼一家が進出してきたこともあり、むしろこれまで以上に話す事は増えていた。しかし、そこに心が弾むようなきっかけが生まれなくなったのは、俺たちのやり取りを見ている周囲の者も気付いていただろう。
この件に関して、マルグリットは何か察したようで、普段通り接してくれている。だがハンナは俺たちの間に横たわる溝のようなものを感じてはいるものの、どうしていいのかわからず困惑しているようだった。対してクラリッサは素直なもので、俺とリーゼロッテが話しているところにやってきて「仲悪いですのー? 仲良くですのー!」と元気に抱き付いてくる。それを血相変えたハンナと落ち着き払ったマルグリットが手を引いて退場する、というのが最近の流れになっている。雰囲気までも匂いとして感じ取ってしまうクラリッサは、自分なりの方法で少しでも和ませようとしてくれていたのかもしれない。
赤衣隊の者以外からも心配されるようになる頃には、さすがに何か考えなければと思うようになっていた。班長をはじめとする伐採班や、ヘルムートさん率いる伐採業のみなも、もちろんアグネスさんにまで心配されているのだ。
この件を誰かに相談しようと考えた時、相手は自然とマルグリットと決まっていた。ここに着任した頃からマルグリットには人間関係の面で何かと世話になっている。幾度も彼女を頼る事を申し訳ないと感じるが、当のマルグリットは笑顔で構わないと言ってくれる。
「わたしは頼り甘えられる事を至上としておりますので。でも、最近はみんなのおかげで、頼る事も甘える事も覚えてしまって、どうしたものでしょうね?」
冗談めかしてそんな事を言うが、相談には親身になってのってくれるのがありがたい。彼女もリーゼロッテの変化については思うところがあったようで、どうしたものかと頭を悩ませていたのだという。
「最初はリゼが隊長とそういうご関係になったのだと思っておりましたが、ここ最近様子を見ていたところ、どうやら違ったようですね。おそらく、隊長が原因というわけでもないようなので、ご安心ください」
「そうなのかい? てっきり俺がアンジーと同衾していたから怒ってしまったものだとばかり……」
「それは確かにリゼも怒るでしょうけれど、ならばあんな風にはなりません。あの雰囲気を纏ったリゼ、見るのは一年ぶりくらいです。“隻眼”の目撃情報が最近上がって来なかったもので、すっかり記憶の片隅に追いやっていましたが……」
「待て、マルグリット。今“隻眼”と言ったのかい?」
“隻眼”の名は俺も知っていた。人狼の中でも特に脅威とされている個体や一家にはこうした名前が付けられ、討ち取ればまず昇進間違いなしと囁かれている。もっとも名の知れているものを挙げると、北方の最前線において最大の脅威とされている“赤毛一家”、体長六メートル超えの巨体を誇る“巨獣”、最前線の各地に姿を見せる神出鬼没の“白影”、そして右目の大きな傷が特徴とされる“隻眼”だ。そして一番重要なのは、今名を連ねた人狼たちは、元は半人狼だった者が人狼化してしまった姿だといわれている事だ。
これらの名前が付けられた人狼の中で、“隻眼”はもっとも悪名高い存在だった。単独で街道に姿を現しては行商や旅人を襲い、殺め、浚ってゆく。これだけならば他の人狼も行うだろうが、“隻眼”の場合は自分が襲った亡骸に、自分と同じ傷を残して去ってゆくのだという。自らが失った右目の報復を行うかのように……。
「……では、リーゼロッテの右目はまさか?」
「隊長には話すなと、リゼに口止めされていたのですが……。“隻眼”の名を聞いた時点で、もう大よその事情はお察しになってしまいましたね。ですが、詳しいお話はリゼ本人から聞いてくださいね?」
「ああ、それはわかっている。しかし、“隻眼”に襲われて生き残った者がいるとは、聞いた事がなかったよ」
“隻眼”に襲われて生還した者はいないという話が、かの人狼の悪名高さを助長するものだった。しかし、リーゼロッテのような生還者が赤衣隊にいるとなれば、軍にとってはいいプロパガンダの材料となり得るはずなのだが、今までそういった話は聞いた事がない。軍がそういった素材を見逃すとは考えにくいのだが……。
「それに関しては、リゼの親類の方が軍に対して何らかの口添えをしたとも考えられますね。ハンブルク家は親類も含めて軍人の家系ではございませんが、軍に対してかなりの力を持っているとも聞き及んでおりますから」
「なるほど。リーゼロッテのためかどうかはわからないが、隠しておきたい事情とやらがあるのだろうね」
リーゼロッテは“隻眼”によって右目を奪われた。それが、彼女の現在に暗い影を落としている。傷という言葉に過敏に反応していたし、あの朝の一件で昔の事を思い出してしまったのだろう。
しかし、マルグリットの言葉が気になる。一年ぶりくらいに、という事は、一年前もリーゼロッテはあのような張りつめた雰囲気を纏っていた事になる。彼女がこの最前線に配属されたのは一年半前と聞くが、当時彼女に何があったのだろう。
その時、休憩中だった俺たちのところへ、今まで天蓋の枝葉を払っていたフランツィスカがやってくる。額の汗を拭いつつ、愛用のハチェットを手の中でもてあそぶようにくるくると回している。マルグリットが渡した水筒を受け取ると、彼女の隣の切り株に腰かけた。
「何の話してるんだ? って、聞くまでもないわな。リゼの事だろ?」
「どこまでだ?」とフランツィスカが聞くので、俺は「“隻眼”が彼女の右目を奪った、というところまでだよ」と短く返した。それを聞いたフランツィスカは水筒の中身を一気に傾け、喉に流し込んでいく。そして飲み干すと、深く息を吐いて呼吸を整えた。
「“隻眼”のやつの目撃情報は、南方で時々上がってくる。つい一年前にも、この近辺に姿を現してるんだ。やつの姿を見たのは、俺と……」
「わたしです。それと、リゼも。“隻眼”は確かに右目に大きな傷を負っていましたし、リゼのあの時の反応を見るに、あれが仇とみて間違えないでしょうね。深追いして森の奥へ入って行こうとするリゼを止めるの、一苦労でした」
「冬場は何かとリゼにかかりきりだからな、マルグリットは。……ところで、今年はまだなのか?」
「……ええ。あの様子だと、当分先でしょうね」
途中から話の質が変わったように思えたが、それは俺の気のせいだろうか。ひそひそと小声になったふたりから視線を外し、口元に手を当てて考える。
リーゼロッテの影を払拭するには、その“隻眼”を仕留めるのが近道だろう。他の方法で思い出を塗り重ねたとしても、いずれは思い出して囚われてしまうかもしれない。この南方の最前線で目撃情報が挙がっているのならば、遭遇する機会もこれから出てくるはずだ。
だが、それには彼女たちの身を危険に晒す事にもなる。討たなければ対象であるとはいえ、真っ向から戦いを挑むのは避けたいところだ。軍人としては間違った考えなのだろうが、こればかりはどうしても改める事はできそうにない。
物騒な事を考えていたせいだろうか、胸がざわつき始める。妙な感触だ。まるで死の危険を前にした時のような焦燥感が心臓から全身に伝播していくようだ。そして、そのざわつきが正しいものであると、俺は彼女たちを見て確信する。
フランツィスカは立ち上がっていた。ベルトに挟んでいたハチェットを抜き出して、鼻を鳴らして周囲を射抜くようなまなざしで睨む。マルグリットも補給用の荷物をまとめて立ち上がると、ベルトに刀を差して銃剣付ライフルを構えた。
「斥候ー! 斥候ですのー!」
遠くでクラリッサの声がする。鼻の利くクラリッサが言うのならば、それでほぼ確定だ。俺もようやくライフルを取って立ち上がった。
天蓋が割られ陽の光が差し込んだ黒森は非常に見通しが良い。動く影があればすぐに視界の端にとらえる事ができる。そして、クラリッサは群れではなく斥候だと叫んだ。ならば、周囲に三体ないし四、五体の人狼が近付いてきているという事だ。最近この近くに侵出してきた新しい一家だろうか。
周囲はまだ木々の間隔がそれほど開いておらず、入り組んだ路地のようになっている領域だ。速度自慢の人狼を相手にするには圧倒的に部が悪い。ここはできるだけ交戦を避けて退却するのが手だ。戦うにしても、比較的開けた森の入り口側の方がこちらに有利となるはずだ。
「退却するよ、森の入り口まで!」
近くのふたりには口頭で、遠くにいる3人には「笛」を使って合図を送る。合図を送ったあと、すぐに俺たちは撤退行動に入る。俺とマルグリットが先行して、フランツィスカが殿を務めつつ周囲を警戒する。焦燥感は納まらない。姿こそ見えないが、人狼たちは確実に迫っているのか。
「おいハインツ、こっちに三体来てやがる。二体引き付けるから、もう一体何とかしてくれ」
フランツィスカはそう言うなり、身軽な跳躍を見せて黒い樹の瘤上へと着地する。一度足を止めたマルグリットが彼女に向けて自分のハチェットを投げ渡すと、それをベルトに差して他の樹の瘤へと飛び移って行った。
「一体任されてしまいましたね。みんなと合流するまでに何とか片を付けたいところです」
にこやかに言ったマルグリットは赤衣のフードを被り、表情を隠す。するとどうだ、彼女の気配そのものが希薄になっていくかのような錯覚を覚えた。俺と同じペースで走っているにも関わらず、足音すら小さくなっていくようだ。
「わかった。囮役は引き受けるから、確実に頼むよ?」
俺の言葉にひとつ頷いたマルグリットは、ふと姿を消した。見事な身のこなしだが、足音すら聞こえてこないのはさすがに恐ろしいものを感じる。俺は走るペースを落として周囲をうかがった。この状態ならば、追って来ている一体は確実に俺を狙ってくるだろう。
ふと、自分が赤衣隊のみなに代わって囮役をやるなどとは、ここに配属されるまで思っても見なかった事に気付く。しかし、現状においてはこの方法が最も効率が良く感じるのも事実で、何よりも彼女たちの腕を信頼しているのも、この行動に踏み切るのを後押ししている。
ライフルのレバーを操作して薬室に弾丸を装填する。初弾として装填されていた散弾を排して、次弾のスラッグ弾を装填したのだ。マルグリットの姿が見えない以上、人狼の姿を視認したとしても散弾を撃つわけにはいかない。進行方向へ背を向けて走り始めた時、その背後から気配と物音を感じ取った。
「隊長。振り向いてもよろしいので、身を低くしてお待ちください」
その声は耳元で聞こえてくるようだった。マルグリットの声だ。俺はその言葉通り、足を止めて身を低くすると、振り向いて片膝を付いた。もちろん銃口もそちらに向ける。
フランツィスカが任せた一体は、樹の影からこちらを伺っていた。姿を消したマルグリット警戒しているのか、すぐに俺に襲いかかってくることはせず、木々の影から影に身を隠してはこちらを観察している。体長は二メートルと少し、黒と灰色の毛並みを持つ成体だ。
こちらを観察していた人狼だったが、マルグリットの姿がないと判断したのか、樹の影から身を躍らせて俺へと走り寄ってきた。走り出す時はゆっくりで、徐々に速度を上げてゆく走り方は、しかし途中で停止する事となった。人狼は片膝を付いて待つ俺のところまでたどり着く事無く、何処からか現れた閃きによって首を薙がれていたのだ。
「ほんとうに素晴らしい腕だ。マルグリット」
「お粗末様です」
人狼が地に伏すと、その傍らにはマルグリットの姿があった。刀身に着いた人狼の血をベルトに着けていた布で拭い、それを鞘に戻さず改めて周囲を警戒する。こちらは仕留めたが、フランツィスカの方はどうなっただろうか。まだ合流していないリーゼロッテたちの事も気になる。
「ハインツー。合流ですのー」
空からそんな間延びした声が聞こえ、近くの地面にクラリッサが着地した。かなりの高さから落下したにも関わらず、着地でひるむ事もなければ足に異常をきたした様子も見られない。着地後すぐに立ち上がったクラリッサは俺のところに小走りで寄ってくると、腰のあたりに抱き付いていつものように鳩尾に頬ずりを始めた。
すぐにライフルを携えたハンナとリーゼロッテも合流する。3人とも無事で何よりだ。ハンナが走り寄ってきて、息を整えながら報告する。
「こちらで一体仕留めました。隊長の方は……」
「今マルグリットが一体倒した。あとはアンジーが二体を相手にしているよ」
そして次の行動に移ろうとした時だった。俺はその時ほど、自分の直感というか、病を通じて得た死を感じ取る嗅覚が余程鋭いものになっていたのだと感じた事はない。何を隠そう、新たな強襲者の足音にいち早く気付いたのは俺だったのだから。
「みんな、四方に散れ! 頭上に気を付けろ!」
俺はライフルを捨ててクラリッサを両腕で抱き上げると、すぐにその場から飛びのいた。直後、今まで俺たちが集まっていた場所に何かが衝突して、地面が爆ぜて土煙が上がった。赤衣隊のみなは俺の号令と同時に身を引いてくれていたようで、誰も怪我を負った様子はなかった。
「嫌な匂いがしますのー!」
そう声を上げたのはクラリッサだ。いつもの穏やかで緩い雰囲気はなく、緊張して強張った声だった。赤衣隊のみなが土煙の舞う落下地点にライフルの銃口を向けると、「何か」はゆっくりと身を起こすところだった。
人狼だ。身の丈は二メートルに若干届かないところ。発達した肩周りの筋肉と、人間の形に近似する手指のつくりは、その個体が元半人狼であった事を意味する。そして、その人狼は薄い金色に近い体毛と、右の目に大きな傷を負っていた。
「……“隻眼”? まさか!」
ついさっき話に出て来たばかりだというのに、こんなにも早く都合よくその対象が現れるものなのだろうか? みなの反応もさぞ警戒したものに変わっているのだろうと思いきや、俺が想像していたものとは若干違っていた。
「おかしいですのー。この匂いじゃないですのー」
クラリッサが眉をひそめて呟く。その言葉に釣られるようにしてみなを見れば、目の前の“隻眼”に動揺したかのような表情を浮かべていた。ハンナやマルグリットはともかくとして、リーゼロッテまでが驚きと困惑の表情で固まっている。仇敵を前にした者の表情ではない。
それはなぜか。少しの間“隻眼”を観察した俺は、その理由がすぐにわかった。まず、クラリッサの「匂いが違う」という言葉。そして“隻眼”の体格が聞き及んでいたものよりも小さかった事。何より、この人狼は……。
「雌、なのか?」
体の線が人狼よりも人間に近かったからそう見えたのかもしれない。目の前の人狼は雄ではない。となれば、この個体は雄だと聞き及んでいる“隻眼”ではない、という事になる。
ならば、これはどういう事だろう。クラリッサは確かに「嫌な匂い」を感じ取っていた。それが目の前の人狼ではないという事は、もう一体の「嫌な匂い」の方がまだ近くにいるという事になる。そう気付いた時には、俺は次の行動に移っていた。
「各員! 目の前の人狼を警戒しつつ、近くの樹に身を寄せろ! もう一体いるぞ!」
叫んだ瞬間だった。目の前の人狼が咆哮を上げる。人間の声帯では発声不可能な音響は威嚇や警戒の響きを表すものだった。次の事態に備えて身を固くする中、俺は目の前の人狼について考えを巡らせていた。
これが“隻眼”ではなく、しかし元半人狼種であったとすれば、この人狼は「誰」だったのか。どこかの一家の一員だったのだろうか。先ほど倒した人狼とは毛並みが違っていたので、同じ血族ではあるという線はない。人の衣服を一布でも纏っていないという事は、ここ最近で人狼化したものではない。生まれた時からその姿だったか、人狼化して数年経ったものか。いずれにせよ、雌の人狼が群れを離れて単独で行動するとは考えられない。
答えを得る前に状況は動いた。目の前で咆哮を挙げる人狼へ向けて、黒い塊が叩き付けられたのだ。それが人狼の死骸だと気付くより早く、新たな人狼の咆哮が黒森に響き渡った。黒い樹の幹を割らんばかりの音量が森中に響き渡る。天蓋の腐りかけていた部分はこの咆哮で砕け散り、ばらばらと砕けて地面に舞い降りてきた。
「ハインツ、ハインツー! さっきの嫌な匂いですのー!」
クラリッサが俺を見上げて言う。赤衣の下からワイヤーとトマホークを取り出し臨戦態勢を取り始めるのを見て、こちらの方こそ先ほど感じた死の恐怖の正体だと確信した。長く大きな咆哮を伴って現れたのは、今度こそ“隻眼”の人狼だったからだ。話に聞き及んでいた通り、三メートルに届かんばかりの巨体に、人間に近しい手指。そして金色の毛並みと、名前の由来となった右目を抉られたような大きな傷。
しかし、わからない。この状況はどういう事だ。“隻眼”の人狼と、それと同様の傷を負ったもう一体の人狼。そして、先ほどの斥候の血族と思われる人狼の死骸。現れた人狼たちを観察していると、ひとつわかった事があった。先にこの場に現れた雌の人狼が、警戒の咆哮を挙げつつも、その身を震わせているだ。まるで怯えているかのように。
人狼の死骸を“隻眼”との間において後ずさる雌の人狼は、俺たちに対しても短く吠えてくる。まるで「この場から離れろ」と伝えようとしているように感じるのは、俺の勘ぐりすぎなのだろうか。あとから現れた“隻眼”は、目の前の雌の人狼を注視していたが、いまさら気付いたかのように俺たちにも視線を向けてくる。そして、“隻眼”がリーゼロッテにその視線を移した時だった。
その時、俺の方からは“隻眼”の顔が見えなかった。だが、片目の眼差しに魅入られたリーゼロッテが「ひっ」と、口元で両手を覆って悲鳴を封じ込める姿をはっきりとこの目に捉えていた。
“隻眼”は悲鳴の主、リーゼロッテ目掛けて一直線に走り出した。目標となったリーゼロッテも、赤衣隊の誰もが反応できない中、唯一動くことができたのは怯えていた雌の人狼だった。硬直して動けないリーゼロッテに“隻眼”の爪が迫ろうというとき、雌の人狼が飛び掛かりその軌道を逸らしたのだ。絡み合った二体は地面を転がって遠ざかるが、“隻眼”の方が上となり、組み敷いたもう雌の方の首を締め上げる。
今の人狼の動きで、俺の方針は決まった。同じく赤衣隊のみなの意思も。
「各員、“隻眼”からあの人狼を守れ!」
言葉と同時に、4人の赤衣は走り出した。ハンナとリーゼロッテがライフルの銃弾を“隻眼”に浴びせつつ接近する。クラリッサはワイヤーを放って“隻眼”首に巻きつけて、組み敷いている人狼から引き離そうとする。だが、“隻眼”は銃弾を浴びてもワイヤーで首を絞められても意に介さない。自らも拾い上げたライフルの引き金を絞りつつ“隻眼”に接近した俺は、かの人狼が嗜虐的な笑みを浮かべているのを目の当たりにして背筋が凍る思いがした。
半人狼が人狼化した場合、その頭部は完全に人狼のものとはならず、大部分が人間であった頃の面影を残すことになる。それは、浮かべる表情も人間の頃のものに酷似するという事でもある。いま人狼の雌を組み敷いて絞殺せんとしている“隻眼”が浮かべている表情は、悪鬼の如き凶悪な笑みだ。彼がこの表情
をするようになったのは人狼化する前か後か、そう考えるとさらに恐ろしくなってくる。
組み敷かれて絞殺されかけている雌の方はもう限界に近い。口の端から泡を吹き、眼差しは遠くなり、抵抗する力が失われてゆくのが目にも明らかだ。
「させません」
状況を変えたのはマルグリットの一閃だった。“隻眼”の死角である右側から首を狙い上段からの一閃。俺が見る限り何体もの人狼を一撃で屠ってきた必殺の一閃だった。此度もこれで決着かと思いきや、なんと“隻眼”は頭を持ち上げて自分への被害を首の皮一枚に抑えてしまっていた。
マルグリットはすぐに刃を翻して横薙ぎに切斬りつけるが、その頃には“隻眼”は立ち上がって刀の刃から距離を取ってしまう。銃弾を意に介さずワイヤーによる牽引もほとんど効果がないとすれば、現状“隻眼”に傷を負わせることができるのはマルグリットの刀だけという事になる。
それを理解しているからこそ、“隻眼”はマルグリットを警戒する。マルグリットの方も、“隻眼”の眼差しに魅入られたせいか、いつものように気配を消す事ができないでいるようだ。そうして一瞬のこう着状態を経たのち、動きを見せたのは“隻眼”の方だった。
「うーごーかーなーいーですのー! ……あや?」
渾身の力を込めてワイヤーを引っ張り続けるクラリッサに対し、“隻眼”一瞬だけ身をそちらの方に傾ける。突然手ごたえが消えた事によって体勢を崩したクラリッサは、その隙を狙っていた“隻眼”がワイヤーを引っ張り上げた事によって地面から足を離してしまう。
「アリス! ワイヤーを離すんだ!」
俺が叫んだ時にはもう遅く、クラリッサの身は“隻眼”の腕力によって宙を舞い、振り回される事となっていた。これではライフルを撃てないどころか、“隻眼”に近づく事すらできない。クラリッサもワイヤーから手を離そうとするが、より力を込めるために手指に巻きつけていたのか、複雑に絡まってしまい自分で外すことができない。“隻眼”はワイヤーを振り回しながらもそれを手繰り寄せ、徐々にクラリッサを自分の方へと引き寄せている。
まずい。焦りに歯噛みする。このままではクラリッサは“隻眼”の剛腕に捕まるか、地面や樹の幹に叩き付けられてしまう。いくら獣性4度の頑丈な彼女とは言え、あれだけの腕力の持ち主にかかればひとたまりもない。そして、“隻眼”の凶悪な笑みだ。この先の悲惨な結末は火を見るよりも明らかだ。
「いま、助けます……!」
マルグリットが動く。“隻眼”がワイヤーを振るう動きを見てそれを掻い潜り、刀をひらめかせてワイヤーを切断する。遠心力を得たクラリッサがものすごい勢いで宙を飛んでゆくが、ひときわ大きな樹の幹に難なく着地して事なきを得た。刀の刃を自らの背後に隠すかのようして構えたマルグリットは、滑らかな足さばきで“隻眼”に接敵する。“隻眼”に取って死角となる右側を取るが、無造作に掲げられた右腕が抑止となり攻撃に転ずる事ができない。
停止してる物体ならば複雑な構造をしていようとマルグリットは断ち切ってしまうだろう。だが、人の倍以上もの大きさがある頑丈な手指、複雑な骨格を持つそれが不規則な動きをするとなれば、攻撃の際に刃を痛めてしまうかもしれない。そしてそれは、現状において唯一有効な攻撃力を失う事になるのだ。
だから、現状はこの状態を保つだけでいい。フランツィスカが合流すれば、手数が増えて戦況をこちらの有利なものに変える事も出来るだろう。マルグリットもハンナもそれ理解してくれているので、“隻眼”と一定の距離を保ち、無理に攻勢に転じようとはしない。
「……ここで仕留めますの。“隻眼”!」
だが、仇を目の前にして立ち止まれない者もいた。リーゼロッテだ。彼女は肩にかけていたヴィオラのケースを地面に置くと、ライフルのレバーを操作して次弾を薬室に装填。そして、身を低くして地面を滑るような動きで“隻眼”へと接敵する。“隻眼”は左目で彼女が向かって来るのを見て、笑みを深くして待ち構える。そして、“隻眼”の剛腕がようやくリーゼロッテまで届こうかという距離に達した時、彼女は引き金を引き絞った。
放たれたのはスラッグ弾、狙いは“隻眼”の左目だ。なるほど。どれだけ体が頑丈であろうと、眼球までは銃弾が利かぬほどの強度を誇る事はないという判断か。その狙いは正確なもので、“隻眼”がわずかに頭をもたげなければ眼球に直撃していただろう。リーゼロッテはすかさず次弾を装填、今度は“隻眼”の左目ではなく、その足元の地面に銃口を向けて引き金を引いた。
打ち出された散弾が地面を抉り、土煙を巻き上げる。黒森の土壌は湿気を多量に含んでいて、動物たちが飛び跳ねた程度では土煙など上がるものではない。しかし、この一帯は本日の任務で天蓋を落とし、陽の光を差し入れている。陽光によって温められ乾いた大地は、リーゼロッテの狙い通り自然の煙幕を作り出していた。
「次!」
次弾を装填する音とリーゼロッテの鋭い声。散弾の次に装填されるのはスラッグ弾、“隻眼”の目を狙う攻撃だ。それを理解しているのは“隻眼”も同じで、立ち止まらず土煙を薙ぎ払ってリーゼロッテを狙い剛腕を振るう。大きな風切り音と風圧を生み出して迫る剛腕を、リーゼロッテは小さく後ろに跳びつつ回避する。髪の毛の先や赤衣の端をかする際どい攻撃をしのぎ、“隻眼”の動きが止まる一瞬のすきを突いて引き金を引く。
今回の射撃も正確なものだった。“隻眼”は先の様にわずかに位置をずらせば眼球への直撃は避けられると考えただろう。だが、その考えは的を外していた。“隻眼”の、そして俺の予想に反して、打ち出された弾種はスラッグ弾ではなく散弾だったのだ。リーゼロッテの姿を視界に納めつつ頭を位置をずらした“隻眼”は、次の瞬間視界が塞がれ眼球に鋭い痛みを感じた事だろう。
ライフルにスラッグ弾と散弾を交互に装填しているという事は、先ほどからいくつもの銃弾を浴びていた“隻眼”はそういうものだとして理解していたはずだ。それの布石を利用して、リーゼロッテは“隻眼”の視覚を奪い取った。
「これで……!」
顔を両手で覆って地面をのたうつ“隻眼”の元へ、リーゼロッテは止めを刺さんとして駆け足で近付いてゆく。ライフルの次弾を装填し、銃剣の切っ先を突き下すような構えを取る。狙うのはうめき声を上げるために大きく開かれている口だ。そこに銃剣を突き立て、駄目押しとばかりに引き金を引くつもりなのだろう。
いやな予感がする。今まで焦燥感として胸に渦巻いていたものが、口にまで登ってきて吐き出されんとしているような奇妙な感触だ。そこで俺は、自分がリーゼロッテを止めるための言葉を吐き出そうとしていた事に気付いた。だが、俺が言葉として吐き出すより早く、戦線に復帰しようとしていたクラリッサの大声が挙がった。
「だめですのー! 痛がってるふりですのー!」
彼女の匂いによる直感だ。それが本当ならば、“隻眼”は痛みで地面をのたうつふりをしている事になる。好機と感じたリーゼロッテが自分の手の届く範囲まで近付いて来るのを待ち構えているのだ。クラリッサの忠告にリーゼロッテが足を止める。それが一瞬でも遅れていたならば、彼女は“隻眼”が振り上げた爪によってばらばらに破壊されたライフルと、同じような結末を迎えていただろう。
“隻眼”が立ち上がるのとほぼ同時に、俺は走り出していた。散弾が左目の周囲に直撃した影響で“隻眼”の左目は半分ほどしか開いていない。それでもリーゼロッテの姿を追うには充分過ぎた。破壊されたライフルの残骸を手放したリーゼロッテがその場から飛びのこうとするより早く、“隻眼”は彼女に追いすがり、地面に組み敷いた。
「うぎっ! こ、の……!」
百キロをゆうに超える重量に組み敷かれたとなれば、半人狼のリーゼロッテといえどもその巨体を払いのける事は難しい。それどころか拘束された彼女の体は地面に沈み込み、肉体が不穏な音を立て始めている。反抗の意思を左目に宿したリーゼロッテは歯を噛み締めて“隻眼”を睨むが、牙を剥いた“隻眼”が彼女の顔に迫まる。
そこで、今まで気配を断って“隻眼”の隙を伺っていたマルグリットが姿を現して、牽制するように刀の切っ先を人狼の左目に向けた。“隻眼”が腕を振るえばぎりぎり届く位置に姿を現すのは、少しでも注意を自分の方に引き付けようとしているからだろう。俺はそのこう着状態へ飛び込んだ。
ライフルの安全装置をかけて、持ち方を槍を投げるようなものへと変える。そして、“隻眼”の腕が届かない位置で立ち止まり、その巨体目掛けてライフルを投げ放った。当然ながら、人間の膂力で投げ放たれた刃など、人狼の皮膚を貫通するには至らない。銃剣の先がかすかに“隻眼”の腹を突いて、ライフルは弾かれてしまった。
“隻眼”はそれしきの事では動かず、なおもリーゼロッテを舐るように鼻を鳴らしている。ならばと、俺は腰のホルスターから拳銃を引き抜き、安全装置を外して銃口を“隻眼”の腹部に向けた。俺が拳銃を抜いた事で、ハンナの表情に更なる緊張が走る。彼女たちの前でこれを用いるのは気が進まないが、現状そうは言っていられない。
俺は引き金を引いた。ただの銃弾だろうと気にもしていなかった“隻眼”は、自分の腹を突き破ったものの正体に一呼吸遅れて気付く事になるだろう。実戦では初めてだが、確かに銀の弾丸は人狼に対して有効のようだ。
初めて“隻眼”が絶叫を上げる。リーゼロッテから身を離して四足で立ち、凶悪な笑みばかり浮かべていた顔を不快なものに歪めて、俺の方に向けてくる。これで“隻眼”の注意をこちらに向ける事には成功した。
更なる挑発のためにと、俺は“隻眼”から銃口を外して拳銃を腰のホルスターに戻す。そして、落ち着いた確かな足取りで“隻眼”に向かって歩き出した。
「おや。男はお嫌いかな?」
驚いた事に、こんな冗談を言う余裕があった。自棄になっているわけではない。どこか直感めいたものが、胸に渦巻く焦燥感が「まだ死なない」と告げているのだ。だから、さらに“隻眼”の振るう剛腕の範囲へと踏み込んでいゆく。離れた位置から状況を静観していたハンナが息を飲むのがわかる。マルグリットがこれに乗じて気配を消したという感覚も、クラリッサが不思議なものを見るような目で俺を見ている事も。そして、リーゼロッテが信じられないという目で俺を見ている事も。
俺だって信じられないさ。自分はなぜこんな事をしているだろうかと疑問に思う。だが、「まだ死なないから動いていい」と、死の匂いを感じ取る器官が告げているような気がして、それに従うようにして歩み続けているのだ。
“隻眼”も応じるようにして、注意深く俺の方へ寄ってくる。四足になったという事は、俺を脅威として認識したのだろう。まずはお前からだ、そう言わんとしているような雰囲気を纏っている。
獲物が自分から注意を逸らした事でリーゼロッテが血相を変えるが、すぐに自分の足元にライフルが落ちている事に気付いてくれた。意図して投げたわけではなかったが、ちょうどいい位置に転がってくれた。あとは、“隻眼”の動きをもう少しだけ俺に引き付けられればいい。
注意深く歩み寄ってきた“隻眼”は、俺がすぐに拳銃を抜く事がないとわかったようだ。体をたわめた次の瞬間跳躍した。一度横に跳んで、すぐにこちらへ方向を変えて俺の左側から襲って来る。攻撃が鋭い牙によるものではなく、右腕の爪で引き裂こうとする動きだ。
一振りでライフルをばらばらに破壊してしまうほどの力と鋭さを持つのだ、人間があの爪にかかればひとたまりもないだろう。だが、牙でなく爪であればそれでいい。爪がこの体を薙ぐ位置から、もう一歩前へ踏み出す。
直後、俺の体はものすごい衝撃を受けて右の方へ吹き飛ばされていった。とっさに体を丸める事には成功したようで、地面に叩き付けられても腕や足を変な方向に折る事はなかった。ただ、強かに打ち付けた背中が痛く、すぐには起き上がれそうにない。逆さになった視界で状況を追えば、大よそ俺の狙いの通りとなっていて、ふと安心する心地だった。
二度目の激痛に悲鳴を上げる“隻眼”の姿。その右掌には、俺が修繕用にと携行していた裁ちばさみが深々と突き刺さっていたのだ。あの時俺は、鋭い爪部分を回避しようとして、もう一歩踏み出していた。ちょうど俺の体が右掌によって打ち据えられるように。そして、腰のシースに納まっていた裁ちばさみを抜いて、その切っ先が“隻眼”の右掌に突き刺さるように構えて……。
「……やっぱり、無事では済まなかったか」
裁ちばさみを迫りくる掌に向けた時、左の二の腕に持ち手を当てて支えにしたのがまずかった。こちらの左腕は激痛で動かせない。もしかすると折れてしまった可能性もある。だが、結果“隻眼”に隙をつくる事には成功した。
リーゼロッテが動く。ライフルを拾って“隻眼”へ接近すると、その右脇下を目掛けて銃剣を突き立てる。人間と体の構造が酷似しているが故の弱点だ。脇の下に刃を突き刺されてしまえば自然と脇がしまり、右の肩から先を動かす事が困難となる。何度目の悲鳴を上げた“隻眼”は身をよじってリーゼロッテを振り払おうとするが、駆け寄ってきたハンナが彼女を支え、ふたり分の力で銃剣が刺さった状態を維持し続ける。
そうして動きが止まってしまえば、マルグリットが確実に仕留めてくれるという確信があった。“隻眼”の動きを封じた今なら、確実にその首を落とす事が可能だろう。その危険を察知したのか、“隻眼”は左腕を無茶苦茶に振るい、その勢いを持って身をよじる。気配を断って移動するマルグリットを寄せ付けないためと、銃剣の楔から逃れようとするためだ。
「ハインツー。大丈夫ですのー?」
「アリス、よく聞いて? “隻眼”の足を止めて欲しいんだ。足の指を狙うの、できる?」
左腕をかばいつつ立ち上がった俺のところに、クラリッサが心配そうな顔をして寄ってきた。俺は彼女と目線を合わせるために片膝を付いてしゃがみこむと、“隻眼”の足元を指差して言う。小柄なクラリッサが身を低くして近付けば、あの剛腕は近付いた彼女を捉える事ができない。身を低くしようとしても、銃剣が刺さったままのあの体勢では屈む事は困難なはずだ。
「あの腕に当たらないように。できる?」
「はいですのー! ……でも、ハインツ大丈夫ですのー? 痛そうですのー」
左の二の腕が熱を持ち鼓動に合わせるように鈍痛が押し寄せている事を、クラリッサは見抜いている。ここで嘘を言ってもしょうがないので、俺は正直に痛みを顔に出し、そのうえで笑って見せる。
「痛いなあ。痛いけど、今はまだ大丈夫だよ。俺の事はいいから、みんなを助けてあげて?」
「はいですのー!」
説得に応じてくれたのか、クラリッサは勇ましい顔と拙い敬礼を見せて、“隻眼”の元へ駆けて行った。小さな背中を危険な場所に送る事にひどい罪悪感が襲ってくるが、今はそれを飲み込み抑える。
クラリッサは地面を疾走しつつ、赤外套の下からトマホークを取り出す。複雑な形状の刃部ではなく、柄底のハンマー部で“隻眼”の足先を叩こうというのだ。疾走の軌道は一直線だったが、“隻眼”の腕の届く領域に近付くと途端にじぐざぐな軌道に変わり、素早くその懐に潜り込んだ。そして突然の事に“隻眼”が反応できないでいる間に、思いきりトマホークの柄底を足の指に叩き付けたのだ。
“隻眼”の次の悲鳴は音にすらなっていなかった。三メートルを超える巨体が一瞬ふわりと宙に浮かぶ異様な光景は攻撃の効果を物語る。だが、今の衝撃で銃剣は抜けてしまい、ハンナとリーゼロッテは投げ出されてしまう。クラリッサも“隻眼”が蹴りまで繰り出してきた事で攻撃の範囲外に退避する。
嗜虐の笑みばかり浮かんでいたはずの“隻眼”の顔が、いよいよ余裕をなくして警戒に染まる。短く鋭い咆哮を発して周囲を警戒する“隻眼”を前に、俺は今度こそ勝利を確信する。鼻孔に、彼女の匂いが届いてきたからだ。
風切り音すら聞こえぬ速さで虚空からハチェットが飛来する。それはたった今警戒態勢へと移行したばかりの“隻眼”の足に突き立った。鈍い音と、短く鋭い悲鳴。ハチェットが突き立った箇所は“隻眼”の左足の腱、歩くにしても走るにしても致命的な負傷だ。
“隻眼”は発達した牙を噛み締めて、ハチェットの飛来した方へと警戒を移す。すると、すでに二投目のハチェットが迫って来ていた。無事な左手で自らの足に刺さったハチェットを引き抜いた“隻眼”は、それで持って飛来したハチェットを打ち払う。半人狼から人狼化した個体は人間の手指の形をそのまま継承するため、こういった人間側の道具を用いる事も可能だ。“隻眼”が武器を手に入れてしまった事は由々しき事態だが、どうやらそれしきではフランツィスカは怯まないらしい。
黒森の奥に赤い影が見えたかと思えば、瞬きする間に“隻眼”の体が仰け反っていた。フランツィスカの飛び蹴りを胴体に受けたのだ。クラリッサですら体格に対して二倍の体重であるところを、フランツィスカは三倍である。そんな重量が高速で飛来して、なおかつ直撃したとなれば、並みの人狼でなくとも体勢を崩さざるを得ないだろう。空中で幾度かの回転を見せたフランツィスカは、着地と同時に両の手を外側へ振って自慢の爪を披露する。手袋のスリットから伸びた爪は五センチ程の長さで、その厚い角質は刃物に匹敵するであろう事は目にも明らかだった。
細かい足さばきで“隻眼”の懐に潜り込んだフランツィスカは、次々と両爪により攻撃を繰り出して敵の体に傷を負わせてゆく。対する“隻眼”もハチェットで応戦するが、フランツィスカの動きを止める事ができない。使い慣れない道具を用いてしまった事で普段の剛腕が発揮できていないものだと、“隻眼”は気付く事ができないだろう。その点に気が付いたとしても、もう遅い。上段から振り下ろしたハチェットは深々と地面を穿ち、土煙を舞い上げる。
地面に潜った刃を引き抜く事は簡単だろうが、打ち下ろした得物をすぐに引くという動きをしなかった事が勝敗を分けた。ハチェットを打ち下ろして伸びきった腕は、マルグリットには止まって見えていただろう。彼女の刀の閃きは俺の目にも見えた。そして、“隻眼”が左腕を二の腕のあたりから断たれて咆哮を上げる光景も。
「終いだ」
とどめとばかりに、フランツィスカが爪を振るう。狙いはマルグリットが最初に負わせた刀傷。そこをなぞるように、鋭い爪を抉りこんだのだ。鮮血が舞い、“隻眼”は傷を負った右手で首の出血を押さえて、後ずさりをはじめた。この場から逃げようとしているのだ。負わせた傷は致命傷と言っていいが、人狼の再生能力を鑑みれば、その最後を確認するまで確実とは言えない。
逃がすものかと“隻眼”を取り囲もうとする赤衣隊の少女たちへ向けて、黒森の奥から長く鋭い咆哮が届く。何事かと耳を立てる少女たちは、咆哮のする方へ視線を向け、人狼の群れが迫っているという事実を目の当たりにする。
「先ほどの斥候、その一家か!?」
ハンナが声を上げてライフルの銃口を上げるが、その数の多さに思わず後ずさってしまう。合流したフランツィスカも苦い顔でハチェットを拾い上げ、大群の矢面に立つように俺たちに背を向けた。
「ああ、三十体以上の大家族だよ。だいぶ数は減らしたつもりだが、こっちが気になったから巻ききらずに来ちまった」
“隻眼”を深追いすれば、あの大軍を相手にしなければならなくなる。それでもし“隻眼”を仕留める事が出来たとしても、こちらとて無事では済まないだろう。
「退却するよ! みんな!」
俺が号令を上げると、みな人狼の群れを警戒しつつ、じりじりと森の入り口の方へ後退を始めた。“隻眼”をはじめとする人狼たちの方もすぐに襲って来ようとはせず、まるで俺たちが身を引くのを待っているかのようだった。だが、まだ戦場に残ろうとする者がいた。リーゼロッテと、雌の人狼だ。
弱々しい動きで立ち上がろうとする人狼を、リーゼロッテは泣き出しそうな表情で見つめている。口を開いて何か言おうとするが、彼女はそれを言葉にできないでいる。やがて弱々しい動きながらも立ち上がった雌の人狼は、リーゼロッテに向けて幾度か短く吠えると、群れとは別の方向へと走り去っていった。
「リーゼロッテ、退却だ! 立てるかい!?」
脱力して地面に座り込むリーゼロッテを立たせ、マルグリットたちの肩も借りて彼女を連れてゆく。人狼たちの咆哮が徐々に遠ざかってゆく中、リーゼロッテは一度も俯いた顔を上げようとはしなかった。